最近になって、サバイバーに新しい従業員がやって来た。控えめで大人しく、線の細いタイプの女性だった。バーという店でありながら、最低限の小綺麗な格好に留め、シンプルにまとめられた髪にミステリアスな雰囲気が漂う、そんな人物だ。そんな人物が今、サバイバーの二階にある部屋にいた。二階の一室は春日一番が異人町のアジトとして間借りしている部屋だ。春日は少し休憩をとろうと部屋に敷いてある布団で昼寝をしていたのだが、目覚めればすぐ近くに彼女の姿があり、面食らってしまった。

「……おはようございます」
「あ、ああ、おはようさん、」

 彼女の手には一人分の食事と思われる皿があり、ラップの表面が薄らと白いことからまだ作って間もないのだろう。ここに置いておきますね。と端的に話し、彼女は部屋を出て行こうとした。しかし、折角顔を合わせたのだから少しだけでも話がしたいと思った春日は彼女を呼び止めた。

「えっと、アンタ最近入ってきたばかりの子だよな」
「ええ。あなたは、春日さんですよね。マスターからお話は聞いてます。ここの部屋を貸してるって」
「まあ、そんなとこだな。にしても、何であんたがここに?」
「今、お店に誰もいないんです。でも、二階に春日さんがいるって聞いてたから、お昼ご飯でもって思って」
「わ、わざわざ?」
「迷惑でしたか、」

 感情の読めない瞳が憂い気な睫毛の隙間から覗く。吸い込まれそうなほどに真っ黒な瞳に、春日は妙な違和感を抱く。どこか人工的であるようにも見えるその黒目に、春日は深くを聞かずに彼女の置いた皿に手を伸ばす。

「いいや、ありがとよ。丁度、腹減ってたんだ」

 それは良かった。と微かに笑う彼女の顔は柔らかに緩んでいく。まるでこの世のものとは思えないくらいに精巧で緻密、繊細な顔つきである彼女は果たして本当に自分と同じ人間なのだろうかと思えた。美貌と言うのは底知れないものだと聞いたことがある。持ち合わせた人間も持ち合わせなかった人間も、結局それに狂わされてしまうのだと。

「それじゃあ、お食事の邪魔になりますから」

 静かな所作で部屋を後にした彼女に名前を聞くのを忘れていた春日は、食べ終わった皿を片す時にでも聞こうと考えていた。にしても、本当に珍しい。あれほどまでに整った顔立ちならば、バーのアルバイトではなく、もっと華やかな職にありつけただろうに。とそう思うのだ。しかし、人にも様々な事情があるもので、勿論それは自分も例外ではない。それなら、彼女が選んだこの道をとやかく言うのは違う。春日は余計な詮索を早々にやめ、温かい皿の曇ったラップを取り外した。


 ぺろりと平らげて寂しげな皿を手に一階のバーフロアへと降りていくと、カウンター周りを掃除している彼女の姿があった。彼女の元へ皿を運び、近くの椅子に腰かけると、彼女から美味しかったですか?と問われた。間を置かずに勿論と答えれば、あまり表情の変化が伴わないものの、嬉しそうに見えた。彼女の周りの空気が穏やかなように感じるのだ。

「そういや、まだ名前聞いてなかったよな」
「なまえです」
「なまえちゃんか。何かと世話になるかもしれねえ、よろしく頼むぜ」

 こくり、と頷いた彼女はまた周りの空気を変え、より嬉しそうな空気感に深みを持たせるのだった。彼女は言葉で何かを表現すると言うよりかは、自分の周りにあるもので感情を表すタイプなのだろう。空気感もそうだが、髪の揺れや指先。視線につま先と、彼女は控えめな感情表現をしている。シャイな照れ屋なのだと思うと、こういう美人も悪かねぇよなとなまえの横顔を密かに見つめていた。
 これがなまえと春日の出会いで、その数日後に春日は不思議な体験をすることになる。それは誰もが予想の出来なかった奇妙な物事で、自分が属している世界の常識が曲げられてしまうかのような出来事だった。


***


「なまえちゃん、何してんだ?」

 ちょっとした外出から戻った春日はサバイバー一階にある、ピアノの傍で膝を着いているなまえに声をかけた。彼女は春日の声に気付くと、振り向くことなくその場で事情を話し始めた。転倒の衝撃なのか、乱れた前髪に両目が遮られている。

「……さっき、ここで転んでしまって、その弾みでコンタクトが」
「なまえちゃん、コンタクトだったのか。つーか、大丈夫か?俺も探すの手伝うぜ」
「いえ、大丈夫です。私ひとりで探しますから」
「ンなこと言ったって見えてねぇんじゃねえか?」
「目が悪い訳ではないので、」
「じゃあ、オシャレみてえなもんか」

 そう言いながらもやはり放っておけないと、春日がなまえに近付いた瞬間、張り詰めた空気が春日の体に触れた。ぴりついた空気は彼女から発せられており、急変した店内の雰囲気に春日は息を呑む。

「駄目です。私の傍に来ないでください」

 丁度、前髪で覆われた目元からはおぞましい程の何かが発せられている。髪の向こうにある二つの眼には決して目を合わせてはいけないと、本能が告げる。しかし、よくよく考えてみればこのような局面には何度も直面してきた。肌で感じる緊張感も、鼓動が早まって体が嫌に熱くなる感覚も、既に体験していることだった。だからこそ、一歩足りとも引けなかった。いついかなる時でも、勇者は前に進んでいく。仲間がいなくとも、困っている誰かのために手を差し伸べる存在なのだから。

「いいや、黙って見てらんねえ。アンタには昼飯ご馳走になってんだ、俺も手伝うぜ」

 目には見えない禍々しい空気を掻き分けて、彼女の傍で身を屈めた。すると、肌で感じていた空気が再び変わっていくのを感じる。今度は緊張感と言うより、殺意に近いものだった。彼女の視線が心臓を握り潰さんとしているが、それでも春日は決して引かなかった。なまえは春日一番を何も知らなかった。その男がどれほど律儀で恩義に厚い相手なのかを彼女は知らない。しかし、それは春日も同じだった。なまえがどのような相手なのか、春日は何も知らない。

「だから、このやばそうな空気、なんとかしてくんねえかな」
「……やばそうだって分かってるなら、ここは大人しく部屋に戻ってください」
「なら、コンタクト見つけてから戻りゃあいい」
「ですから……!」

 繰り返される押し問答に痺れを切らしたのか、なまえは声を荒らげる。語気を強めたなまえを見れば、先程より殺意が増したような気がしていた。相変わらず、髪の向こうにある視線に内心焦燥感を抱く。すると、彼女の髪の束が不可解な動きをした。まるで生きているかのように意志を持った動きをして見せたのだ。それは一つだけでなく、彼女の髪の房全てがこちらを凝視する蛇の如く、ゆらゆらと動いている。春日は彼女と自分に起きた異変に目を疑っていた。店内の空気もじっとりと肌に張り付いていて、恐ろしいのだ。


「……春日さん、これでも私のことほっとけないって思いますか」

 髪の束はやがてその質感を変えていった。さらりと流れるような髪の線ではなく、徐々に爬虫類を思わせる鱗のような質感に。そして、それは実体を持つと蛇そっくりに擬態してしまった。琥珀を宿した両目、裂けた口元からは鋭い毒牙が覗く。彼女は、なまえは平然としていた。綺麗な黒髪は全ておぞましい蛇へと擬態したのにもかかわらず、彼女の目元は影に覆われたままだ。

「……こりゃあ、すげーな。まるで夢でも見てるみてぇだ」
「夢なんかじゃありません」

 これが私の隠したかった秘密です。
 寂しそうに呟いた彼女に、春日は自分から離れるように忠告してくれていた彼女の真意にようやく気付いた。なまえも一瞬にして理性に歯止めをかけたのだろう。今の彼女は声を荒らげていた時とは別人のようだった。

「どうして放っておいてくれないんです?」
「なまえちゃんが困ってると思って、」
「春日さんが思ってる以上に私は危ないんです」
「俺はそんなの気にしねぇ、なまえちゃんはなまえちゃんだろ」

 話すより、やって見せた方が早いと、なまえは窓の外に羽休めをしていた鳥を凝視した。すると、鳥は体が灰色に変色していくのと同時に石像のように動かなくなってしまった。人目を避けながら、彼女は鳥の石像を手に店内へと戻ると、春日にそれを差し出した。手のひらに落とされた小ぶりなそれは確かに鳥だった。体は石でありながら、毛羽立った羽根や精巧な造りを思わせる目やくちばしに、人知れず戦慄する。

「春日さんもこうなりたくないでしょう?」
「ま、まじかよ……」
「でも、大丈夫です。石にしてしまっても、元に戻せますから」
「本当に戻せるのか……?」

 勿論、となまえは言い切ってみせると、春日から鳥の塊を受け取り、そっと頬を寄せた。一筋の涙が彼女の頬を伝い、石像に触れる。そのたった一雫が染み込むように消えると、石であった鳥は息を吹き返したかのように柔らかな質感を取り戻し、開けた窓の隙間から外へと飛び立って行った。

「遺伝、なんです。我が家では三番目に生まれた子にだけ、こう言ったものが出てきてしまうのだと」
「こんなすげぇことが遺伝で済まされちまうのかよ」
「正直、私にも分かりません。ただ、周りと馴染めるような存在ではないという事だけは」

 彼女の表情が曇る。先程、流した涙が切なさを帯びて見えた。だが、春日は彼女がそれほどまでに危険な相手であるとは思えないでいる。石像にされた鳥を目にしても、心のどこかで彼女を危険視する必要はないと思うほどに。だから、真の意味でも確かめたかった。彼女が本当に危険な存在なのかを。

「なあ、俺にもなまえちゃんの目を見せてくれ」
「……な、何言ってるんですか、」

 ついさっきまでは怒りに声を荒らげていた彼女が、途端に弱々しくなった。春日の言い分に驚いているのだろう、なまえは口元だけでも理解出来ないという表情をしていた。駄目だと拒めば、根拠のなさそうな大丈夫が返ってきて、余計に混乱する。ずいっと春日が距離を詰めれば、同じ分だけなまえが後退りしていく。埒が明かないと彼女の狼狽える手首を掴み、目元を覆う蛇越しになまえを見た、つもりだった。

「なあに、駄目だったら元に戻しといてくれ」
「そ、そう言う問題じゃなくて……!」

 彼女の威勢が弱まっていくのと同時に、とぐろを巻いていた蛇達も元の髪の束に戻っていった。さらりと前髪が彼女の目元を覆う。拮抗する空気、男は女の返事を待っている。大丈夫だと最後に口を閉じた男の視線に、不思議とそう思えてしまうのが女にとって恐ろしかった。黙って頷く。春日の体温の高い指先が、女の、なまえの前髪にそっと触れた。

 髪の隙間から見えたのは、血色のいい瞼だった。ふっくらとした瞼には黒々とした睫毛が控えめに伸びている。まだ恐れていると分かった。春日は指の腹で瞼を二、三度撫でてやり、その瞬間を目にした。怯えながら開かれた瞳は黒く、宝石に似た小さな輝きを放っていた。深く覗き込んでしまえば、抜け出せなくなるだろう。彼女は視線を泳がせた後、春日の目を見た。瞳の奥を射抜く衝撃が体を走る。まるで肉体や心臓までもが石になってしまったかのように。

「春日、さん……?」

 不安に耐えきれなかったなまえは先に呼び掛けていた。目の前の男が石くれになってしまっていないか、確かめておきたかったのだ。か細い声に、返事はない。なまえがもう一度呼び掛けると、


「な、大丈夫だって言ったろ?」
「……なんで、」
「何でだろうな、」

 人懐っこい笑顔で笑いかけられ、なまえの目には涙が浮かんでいた。この出来事を信じられないのが彼女の本音だ、石にならない人間がいるなんて初めてのことだった。ぼろぼろと涙が止まらない、彼の前でなら何かを隠したり、偽る必要がないと分かった。春日はなまえが泣いていることに気付くと、途端に弱々しく慌てふためく。

「お、俺、やっぱ悪いことしちまったか?」
「……そ、そんなこと、」
「じゃあ、嬉し涙の方か?」

 こくり、と首を縦に振れば、彼はぎこちない笑みを浮かべていた。あとは泣き止むのを待つだけだと、春日はティッシュ箱を手に、なまえは泣きながら落ち着くのをひたすらに待っていた。涙でぼやける視界の中、一つだけ分かったことがある。
 何故、この家系が途絶えずに今も続いているのか。それは彼のように呪いの効かない相手と巡り会うことが出来たからなのではないかと。きっと過去にも呪われた祝福を授かった者も居るはずだ。しかし、もし彼女たちにも同じ巡り会わせがあったとしたら。未来に希望を抱いてもいいのかもしれない。

「……そういや、結局コンタクトは見つからなかったな」
「仕方ないです。諦めるしか、」
「で、でもよ、そしたらなまえちゃんはどうすんだよ」
「春日さん、ウェルカム薬局でカラコン買ってきてもらえますか」
「か、カラコン?」
「はい、カラコンです」
「それって、店員に聞けば教えてくれんのか?」
「もちろん。春日さんの好きなやつでかまいませんから」

 ぶっちゃけ、そんなんでいいのか?ええ、私の目を直接見なければ石にはならないので。そ、そういうもんか?そういうもの、みたいです。なんか、なまえちゃんってすげぇなあ……。
 そして、春日はなまえに頼まれた通り、伊勢佐木ロードにあるウェルカム薬局へカラコンを買いに行くのだった。



| ペルセウスは何も持たなかった |


back