立華鉄には、内縁の妻がいる。それは共に寄り添い、共に助け合えるそんな関係の相手だ。二人は正式に籍を入れてはおらず、ただ密やかに婚姻関係を結び、指輪を贈り、今日まで仲睦まじく支え合って生きてきた。例えば、立華の右手は義手であり、隻腕と言う不自由さを彼女の『手』が補ってくれている。そして、彼女もまた生まれつき、人には言えない『呪い』を患っているが、立華だけが彼女を『普通の人間』と同等に扱っている。
 こう言った事情を知ってしまっては、不自由な夫婦と捉えられてしまうだろうが、それは違う。立華は神室町の闇の不動産王として君臨し、彼女は人間ならば決して持つことのない力をその身に秘めているのだ。二人には有り余るほどの力があるものの、人として欠けたものも多い。だからこそ、二人は互いを夫婦として結んでしまいたかったのだろう。二人の生活はささやかな幸福に満ちている。


 目の前に差し出された箱を開けてみると、中には可憐な花々をモチーフにしたと思われる、綺麗な靴が収められていた。可憐でありながら、控えめな装飾に彼女は目を輝かせ、手を伸ばした。彼女があんまりにも喜んでいるものだから、立華は彼女の足元に身を屈めると、良ければ。と告げた。彼女は一度頷き、手にした靴を箱に戻すと、今履いている靴の踵に指を滑らせた。
 するり、とお気に入りのパンプスを脱がしてくれたのは立華だった。そこからは贈り物である靴をそっとつま先から踵へとはめ込んでいく。右手が不自由であるにも係わらず、立華は器用に靴を履かせてくれる。高過ぎないヒールは立華の思いやりだ。彼女が歩きやすく、何かの拍子に転倒してしまわぬようにと。

「よく似合っています。これを選んで正解でした」
「こんなに良いものを、どうして」
「この靴を履いたなまえさんと街を歩きたかったんです」
「でも、こんなに素敵な靴、履いてしまうのが勿体ないわ」
「本当はもう二、三足素敵な靴を見つけられれば良かったのですが、」
「ふふ、かまいません。わたしは充分嬉しいです」

 立華鉄の内縁の妻である、みょうじなまえは人とは違った体の特徴を持っていた。彼女の臀部には三対の棘のようなものが生えている。それは蜘蛛の足のように伸ばすことが出来、どれも自由自在に動かすことが出来た。滅多なことがなければ、『足』を見せることはなく、普段は臀部に生えた棘程度に留め、他者に見られることのないよう隠している。立華はなまえの体に残る『呪い』のことを知っている数少ない相手だ。しかし、それを踏まえた上で自分の妻として彼女を娶ることにした。

「私はあなたの秘密でさえ、愛おしいと思っています」

 白い足の甲を立華の指が優しく撫でている。なまえは言葉を詰まらせていた。

「ですから、無下にしないでください。私はありのままのあなたのことも好きなんです」
「本当に、変わった人」
「私でなければ、あなたを愛せません」

 優男の印象を受ける立華はなまえの目を見て、きっぱりと言い放った。決して驕りではなく、真実のひとつだった。過去に彼女に愛を説いてみせた者達は皆、彼女の秘密に触れるとすぐに行方を眩ましてしまった。やはり、自分が人でなければ、勝手に燃えた愛や恋は冷めてしまうのだと痛いほどに現実を突き付けられた。しかし、立華だけはそうではなかった。愛という言葉に期待していなかったなまえに、誠実に、真摯に、もう一度説いてみせたのだ。
 なまえは立華の右手を取り、愛おしそうに革を撫でた。その革手袋の下は義手であると分かっていながら、なまえは時折こうして立華の手を撫でる。感覚すらない無機物なそれを撫でては微笑みかけるのだ。立華はそうするなまえが勿論、好きだった。人の骨や肉、血さえも流れていない、ただの付属品である義手にすら慈しんでくれる。例え、彼女が人であろうとなかろうと関係なかった。立華は自分の義手を撫でるなまえが愛おしくて堪らない。優しい時はしっとりと二人の間を流れてゆく。


***


「今夜はもう休むことにしましょう、なまえさん」
「ええ、今日もお疲れでしょうから」

 あの後、なまえは贈り物である靴を脱ぎ、そっと箱の中に戻すと、元の靴に足を通していた。そして、いつも通りと言った流れで、共に食事を摂り、入浴を済ませ、身軽な装いになって二人はベッドに潜り込んだ。サイドテーブルに置かれた薄明かりを消し、なまえはうつ伏せのような姿勢で、立華は仰向けになって横たわっている。
 夜の月明かりが差し込むベッドルームで、立華は眠れずにいた。自分が贈った靴を嬉しそうに履いて見せたなまえの姿が胸を高鳴らせたままだったからだ。視線を彼女の背中へと向ける。彼女がうつ伏せの状態で眠るのは臀部にある棘が関係しているそうだ。三対、六本の足であるそれは背中の大きく開いたナイトドレスから覗いている。ひとつは自分達を危険から守る為、もうひとつは足を押し潰すような形で眠りたくない為と言っていたのを思い出す。

 立華はそっと指をその足に滑らせた。甲虫のように艶やかな黒は感覚があるらしく、触れた途端にぴくりと反応している。だが、彼女の眠りは深いらしく、目覚める様子はない。月明かりに染まる彼女の背中は淡い白で塗り潰されており、異様な美しさを醸し出す。何故、かつての男達は彼女の姿に愛を見い出せなかったのだろうか。何故、人であることに拘っていたのだろうか。立華は疑問で仕方がなかった。何も恐れることなどないだろうに。
 しなやかな曲線を描く背中に惹かれて、立華は静かに距離を詰めると、まずは両肩の肩甲骨に唇を寄せた。恭しく、祈るような口付けは徐々に降下していき、彼女の足にも同様に落とされた。黒いつま先を僅かに啄んでみると、流石に目が覚めてしまったらしい。なまえは飛び起き、恐る恐る後ろを見た。その顔はどこか恥じらっているように見える。

「……くすぐったくて、眠れません」
「すみません、あまりにも綺麗だったので」
「いえ、別に咎めているわけではなくて」
「寝込みを襲うつもりはありませんでした。ただ、ほんの少しの戯れのような」
「そう言って、毎晩同じことをしてるでしょう」
「駄目でしたか?」
「……もう、お好きにしてください」

 わたしはいつもくすぐったい気待ちを募らせてばかりです。拗ねたような口調で彼女が意図せず、本心を口にしてしまったが故に、立華も少しだけ火がついてしまった。勿論、自覚した上でだ。いつも?それは本当ですか、と立華はなまえの瞳を覗き込む。血の通う温かな指で彼女の唇をなぞれば、あまりの恥じらいに彼女は目を伏せた。

「なまえさんが可憐な仕草をする度に、私はあなたを食べてしまいたいとすら思うことがあります」
「……それは物騒です」
「いえ、言葉通りの意味ではありません」
「だとしても、私には物騒です」

 恐怖であっても、ときめきとやらであっても、心臓は何かを訴えるように鼓動を打つ。吊り橋効果なんてものが存在するように、それらを一緒くたに考えてしまうこともあるだろう。だが、彼女には誤解をして欲しくなかった。これは物騒なんてものではなく、純粋な本能なのだと。互いに指輪を贈り合った日に感じたものと同じなのだと。説く、目を見つめながら。説く、悪いものを払拭するように。説く、結局は全て愛に収束してしまうと。

「分かってはいます。でも、あなたは蝙蝠を宿してらっしゃるから」
「若き日の名残です」
「本当はこの肉を噛み千切り、思う存分に咀嚼して、その腹底に落とし込んでしまいたいのでしょう?」
「ええ。それが許され、私に出来るのであれば」

 ですが、私もあなたも『人間』です。過ちに報いを受ける、人間ですから。
 人間であることの証明に、と立華はなまえの髪を一束指先で攫うと、しなやかな毛先に唇を押し当てた。なまえがその光景に見蕩れていると、立華は口元を緩ませて笑っていた。そして、次はなまえと距離を詰め、頬に唇を触れさせた。左手は臀部に添えられ、時折なまえの『足』に指を絡ませている。彼女は気付いていないのかもしれないが、嬉しいことがあると彼女の『足』は自然と蠢く。暖色の感情を表現するように、蠢くのだ。
 前髪の隙間にゆるやかな熱源を見る。いつもは後ろに流している前髪も今はたらりと垂れ下がって、立華の視線を遮っている。吐息が近く、肌を撫でる。鼓動や脈の音さえも聞こえてしまうくらいに近く。なまえは伏し目がちになり、まずは臀部に添えられた左手を奪い、立華の薄づきの唇に自身のそれを重ねた。奪った左手は自分の指先を絡め、きゅっと握り締める。長くは間の持たない口づけだったが、二人にとっては充分過ぎるものだった。

「私達は人間です。足りないものや欠けた部分は互いに補って生きていく、理性的な生き物です」
「……あの時もそう言ってくれましたね」
「なまえさん、私はあなたでなければ婚姻関係を結ぶことはありませんでした」

 ──── 愛しています。
 どちらがそう呟いたのだろう。この際、どちらでもよかったのかもしれない。月光が辺りをぼんやりと照らし、ベッドルームには心地よい静寂が流れ、影だけが饒舌に二人の今を物語っている。

 みょうじなまえは元々、亜細亜街の陳老人が面倒を見ていた娘だった。実の両親は生まれつき、臀部に蜘蛛に似た三対の足を持った彼女を気味悪がり、忌み子として亜細亜街に捨てたのだそうだ。だが、亜細亜街の住民は体に蜘蛛を宿している彼女を忌み子として見ることはなかった。幼い頃からの付き合いだからと普通に接し、一人の人間として見てくれていた。そして、立華が神室町の勢力図を書き換えようと暗躍し始めた頃、二人は出会い、紆余曲折を経て今に至る。

「それはわたしも同じです。あなたでなければ、」

 それは徐々に伸ばし、関節を曲げ、闇の中で蠢き始める。鳥が翼を広げるように、彼女も臀部から足を伸ばしていた。そして、それは近くにあったシーツを手繰り寄せると、器用に二人の体にそっと被せていく。

「ありのままを見せることはなかったでしょう」

 二人は子を成すことを選択しなかった。彼女はこの忌むべき遺伝に終止符を打ちたいと思い、立華は彼女の意思を尊重することを選んだ。しかし、二人きりでも十分と思えるほどに満たされていた。なまえは自分の足を立華の失った右腕の代わりとして差し出し、立華は彼女が人間ではないと否定された過去を払拭すべく、幾度となく人間であることを証明し続けている。
 結果として、不自由であることは変わりない。だが、不自由な中にも幸福は散りばめられており、なまえと立華はそれを共に見つけ、分かち合い、喜び合える。とどのつまり、どんな相手であろうとたった一度でも愛せてしまえば、幸福は後からやって来るのかもしれない。立華鉄とみょうじなまえは日々の幸福を噛み締めるように生きていくだろう。

 蜘蛛女と蝙蝠男は夫婦である。人には言えない秘密を抱えた、異質な夫婦である。



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