朝、身支度をしている時。吹く風にそれが攫われる時。あの人の目が自分ではなく、垂れた黒を捉えている時、ああ、また髪が伸びたのだと気付く。時の流れを感じつつも、頭の中では早々に髪を切らねばならない、と女らしくないことを考えていた。
女らしくない、と言えば、心当たりはいくつもある。腰に刀を差していること。髪を結い上げず、且つ簪や櫛を必要とせず、髪紐で一つに括るだけに収めていること。身に付けているのが女子の好む着物ではなく、浅葱色の羽織であること。そして自分の身を置いているのが、新選組という組織であること。そのどれらにも不満はない。自分で選び、決めた道だ。とやかく言う人間がいることは承知の上、そのような戯言は聞かずに流してしまえばいい。
けれど、まるで自分のことのように胸を痛めている人がいる。自分が籍を置く六番隊の隊長、井上源三郎だ。新選組の隊長ともあろう方が自分のような平隊士などに、そのお心を痛めることはありません。と申したことがあったが、返ってきたのは、すまないな。という気遣いの言葉だった。
「みょうじ、また髪を切ろうかと考えていただろう」
「……よくお分かりで。近々、洛内の方へ髪を切りに行こうかと」
「そうか、……苦労をかける」
「決してそんなことは、」
街の見回りを終え、屯所に戻って来たなまえは報告の為に井上の部屋を訪れていた。物静かな部屋で井上は刀の手入れをしていたが、鈍色の刀身が凛とした面持ちでその時を待っている。まだ柄が外されていないことから、愛刀の手入れはこれからだったようだ。
井上は抜いた刃を鞘に納めて刀掛けに寝かせ、なまえの報告を受ける。街の状況、勤王志士による不穏な噂の有無、不逞浪士の取り締まりなどの全てを何一つ漏れがないよう伝えていく。知りうることの全てを報告し終えた時、井上は穏やかな目をして一言、ご苦労だった、となまえを労う。
これは思うに、本人も気付いていない癖だ。なまえが無事に任務を果たした時、井上は必ずと言って良いほど優しげな目をする。引き締めていた筈の気が緩んでいくのが自分でも分かり、なまえは密かに握りこぶしを作る。常日頃から厳しく聡明である井上の、不意を突くような穏やかさに弱い。悪事を働いた輩の向けて来る敵意より、その穏やかさに心を乱されてしまう。しかし、井上に見透かされたのは内心に募る思いではなく、自分の背中に垂れる黒のことだった。
「隊長は、私が髪を切るのを惜しく思ってくださいます。ですが、このような長髪は斬り合いの時、相手に攻撃の機会を与えてしまうものだと考えています」
「ああ、そうだろうな。相手もこちらに切られまいと必死だ。どんな手でも使ってくるだろう」
「私は、隊長の足を引っ張るような真似はしたくありません。その為にもこの髪は切らねばならぬものなのです」
「……己の覚悟の為、髪を切ろうとしている者に言うべき言葉ではないのかもしれんが、」
やはり、よく似合っている、と井上は告げた。その言葉が意外でなまえは驚きに言葉を失う。けれど、後から後からと押し寄せる感情の波に頬や体が熱くなっていった。冷静でいようとするあまりに黙り込んでしまったなまえを見て、井上は小さく息を吐く。
「改めて、報告ご苦労だった。任務を終えて疲労した体を休めてくるといい。そして、しばらくしたらまたここへ来てくれ」
「……ええ、分かりました。ちなみにいつ頃、ここへ?」
「そうだな……、夕方だ。今日は討ち入りもない、夜も部屋にいる予定ではあるが」
一度頷き、なまえは、では、また後ほど。と井上に告げ、部屋を後にした。感情の高鳴りを、我が身に起きた異変を周りの者に悟られぬよう、そして、一刻も早く頬の照りを冷まそうと急ぎ足で廊下を歩いて行った。
***
井上に言い付けられた通り、夕暮れ時になまえは井上の部屋を訪れた。障子をぼんやりと照らす灯りが見え、井上が部屋にいることを確かめると、戸の前でまず声を掛ける。尋ね人の正体が自分であると気付くと、入れ。と声が返ってきた。一拍置き、静かに戸を開け、中へと入る。そこには浅葱色の羽織りに腕を通している井上の姿があった。
その姿を見るに、どうやら先程まで外に出ていたようだ。他の隊士への指導や鍛練、自身の刀の手入れ等、いついかなる時も任務に備えている井上が所用で外へ行くのを、なまえは内心珍しいと思っていた。
「隊長、どこかへ出ていたんですか?」
「ああ、少し洛内に用があってな。とは言え、予定以上に時間を食ってしまった」
「羽織りに腕を通されているので、外へ出たのだと」
「その用が探し物だ。とある品物を探して、洛内の店を回っていた」
「……探し物、ですか。それじゃあ、さぞお疲れでしょうに」
何を探していたのかまでは聞かなかった。井上の疲労を思えば、長話をしているより一刻も早くその疲れた体を休めて欲しかった。それで……、となまえが井上に呼び出された理由を問う。浅葱色の背中は机の近くで身を屈めると、一つ小さな包みを取り出した。そして、丁寧に包まれたそれをなまえの正面に置く。なまえはその包みに心当たりがない。
「これは……、一体、」
「俺は今日、洛内でこれを探していた。開けてみろ」
恐る恐る包みを丁寧に広げていく。風呂敷は次第に内に包んでいた物を晒け出す。その指先はやがて未知に触れる。包みの中にあったのは小さな桐の箱。次を問うように井上を見る。なまえの問いに頷いた井上は更に先を望んでいるようで、次を促された指先は箱の蓋に触れる。
その中身に目を疑う。心は戸惑い、思考は疑問ばかりを口にする。答えを聞かせて欲しいと、狼狽える唇で井上の名を呼んだ。動揺する女と寡黙な男。井上はまだ胸の内を明かそうとはしない。桐箱で礼儀正しく待つのは、花の紋様が彫られた簪と赤の髪紐。
「本当はお前に髪を結わせてやれないのを悔いているんだ」
「何故、そんなこと、……隊長が悔いることなど何も、」
「お前だって町娘のように平穏な人生を生きることが出来た。人斬りになることも、同じ人間の血を浴びることも、斬り捨てた相手の最期を見届けることもない、そんな人生を」
「……それは、」
言葉に詰まる。脳裏では、初めて井上と出会った日のことが鮮明に甦る。夜闇と死の来訪、通りを逃げ行く浪士に斬り捨てられた父母の傍らで泣き喚いていた翳りの記憶。両親を斬り捨てた浪士を追っていたのが井上であり、遺体の傍から離れられないなまえに手を差し伸べたのも井上源三郎であった。
「分かっている、今のお前がそんなことを望んでいないことも。だが、みょうじ、お前の長い髪を見ると、俺は安堵を覚える」
何故だろうな、と最後に付け加えた言葉が過去をなぞる。どんなに時が経とうと朧気にしかならない過去を。決して消え去ることの無い影を。あの手がそっと掬いあげてくれる。どれほど井上の手が血に塗れていようと、温もりを知っている。優しさを知っている。それら全てを厳しさの中に隠し持っていることも。
「しかし、お前の失った人生を嘆くつもりは無い。これはそう言った意味で贈るのではなく、これから訪れるだろう、平穏な世に生きるお前の為に役立てて欲しい」
「いつか、この刀を置く日が来るとお思いですか」
「ああ、その為に我々がいる。今はまだ平穏な世には程遠いがな」
「……私には、勿体ない品物です。それにまだ町中を勤王浪士や不逞浪士共が闊歩する世の中。いつ、どんな騒動が起きるか分からない、そんな状況で私は、これを受け取ることは出来ません」
ですから、と真っ直ぐに井上を見る。井上は次を急かさず、なまえが自ら言い出すのを沈黙と共に待つ。
「ですから、私が刀を置く日が来るまで、この簪は隊長が預かっていて下さい。まだ私の人生には髪を結い上げることが約束されていません」
「……フッ、それでも構わん。お前の望みならば仕方ない。」
「ですが、この髪紐だけは先にいただいても構いませんか」
「それは何故だ、」
「私がこの髪を切るまでにまだ幾日か時間があります。それまでの間、隊長のくださった髪紐で髪を束ねたいと、」
好きにしろ、これはお前の為に買い付けてきたものだ。文句など言わん。井上は穏やかな目を伏せ、許しを口にする。なまえは許されたそれへ手を伸ばす。髪紐はなまえの手の内に横たわり、流れる赤にかの人を想う。切り捨てるべき当然を嘆き、引け目にすら感じていた弱さを撫でてくれる。想われることの温かさを知り、だからこそ、慕う心は強く在りたいと願う。そして、いつか諦めていた姿を────。
「どうだ、みょうじさえ良ければ、今髪紐を取り替えてみるのは、」
「では、その、……失礼します」
一言置き、なまえは自身の髪を結んでいた髪紐を解く。晒されていた首元や輪郭を覆い隠すのは、解けて流れるように広がる黒い髪。さらり、とほつれた黒い髪はその一本一本にしなやかさがあり、あどけなさを残す。広がった黒をなまえの手が一つにまとめ、整え、一つに束ねようと指先が髪を梳き、女々しさや日々の祈りをも束ねるように赤い髪紐で黒髪を縛り上げる。艶やかな黒に髪紐の赤が差し色となり、凛としたなまえの姿を井上はやや満足げに見つめていた。
「……いかがでしょうか、」
「ああ、悪くない。お前によく似合っている」
胸の奥で心臓が強く脈を打つ。こっちへ来て、もっとよく見せてくれ。と今度は井上の頼みを聞き入れ、なまえは緊張を漂わせながら井上の傍へと近寄る。気付けば音を立てぬように歩き、心境を悟られぬように振舞っていた。似合っていると言われて嬉しくない心などない。非日常的な出来事に喜ばぬ心などない。だからこそ、舞い上がってしまわぬように、浮かれてしまわぬように沈黙で口を縫う。
「これなら、わざわざ洛内まで行って見繕ってきた甲斐があったと言うものだ」
「本当にありがとうございます。隊長のお心遣いに、いつも救われております」
「フッ、ただのお節介だ。俺は新選組の小姑だからな」
「わ、私は決して隊長のことをそのようには……、」
分かっている。そう、取り乱すな。と井上の優しい声に止められ、なまえは言葉を飲み込む。この表情があまりに浮かないものだったから、その手が自分の頭に触れたのだろう。大きな手が頭をそっと撫でた。髪を乱さぬ手つきになまえは嬉しくも、照れ臭くもあった。しかし、先に気付いたのはなまえではなく、井上だった。
「……すまん。これは少々行き過ぎた行動だったな」
「い、いえ、」
「我儘に付き合わせて、すまなかったな。もう上がって構わない」
控え目で感情を読み取らせない声音に、なまえは井上の傍を離れ、外と内を仕切る障子に手を掛け、その隙間から見える忍び足で訪れた夕暮れを覗く。部屋を後にする直前に振り返り、一礼を残してなまえは退室する。
夕刻、吹き行く夜風の香りに一日の終わりを察し、離れた障子越しの暖色の灯りを見つめては、今更ながら髪結いが恋しくなる女々しさを抱え、自室へと戻って行った。
赤の髪紐が似合うと評された髪の黒が迎える次の命日を、これ程までに惜しいと思ったことはない。平穏な時代と言う奴は実に腰の重たい奴だと嘲笑する。晴れの日をもう一度夢見る心を殺す気にはなれず、今日だけは夢を見ていようと夜風に揺れる赤に触れた。
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