この女は土塊で出来ているのだと言う。にわかに信じ難い話であったが、今までの出来事や人間味のない行動を見ると腑に落ちるところがあった。女は恐ろしいほどに従順だった。眠れと言われれば、目覚めろと言われるまで眠り続け、立っていろと言われれば、平気でいつまでも立ち続ける。何も飲まず食わずで、だ。真に人ではないのだろう、しかし、黒岩にとってそのようなことはどうでもよかった。異常なまでに従順であるという特性に目をつけた黒岩は、女を自分のいる暗闇の中に引き摺り込むことにした。
女を、みょうじなまえと名付け、自分の道具のように扱った。一を教えれば、勝手に百を学び、覚える。人の壊し方や精神の崩し方、それだけに留まらず、なまえは人ではない故に死ぬということがなかった。刃物による刺傷に裂傷、気道の圧迫による窒息死など、人間ならば致命傷でもおかしくない事象を何事もなかったかのようにその身で受け止め、平然と存在していた。それが黒岩の好感を買うことになるのだが、なまえは依然として人間味がなく、無機物な人型の置き物であり続けた。
「人間ってもんは本当におかしな生き物だよな」
土塊の女を目の前に黒岩は口を開く。体温を感じさせることのない白みがかった肌は陶器そのもので、黒岩を見ているだろう両の瞳は窪みに嵌められただけのガラス玉だった。女を椅子に座らせ、黒岩は自室のソファーにふんぞり返っている。気だるそうに胸元の誠実さを緩めると、返事のないなまえを見ていた。
「お前みたいなもんでも、手元に長く置いてりゃあ愛着が湧く」
返事はない。瞬きを必要としない瞳はいつまでも黒岩に向けられている。街は夕暮れを過ぎ、夜の帳が広がっていた。汚い街も離れて見れば、綺麗な夜景の一部になる。だが、この部屋にいる二人はそれに心を満たされることも、感動することもない。黒岩からすれば、あの街に仕事の種が落ちており、なまえからすれば、黒岩の元で道具になるだけの街なのだから。なまえは微動だにしない。一言も発せず、呼吸をしているかも分からない。なだらかな胸元は形作られているものの、鼓動に肉は揺れず、その形を維持して存在している。
「相変わらず薄気味悪ぃなあ、お前」
ま、俺はそっちの方が楽だけどな。と前屈みの姿勢で黒岩は話しかける。女の形をしたオブジェに一方的に声をかけていた黒岩も遂に飽きたのか、寝とけ。の一言を最後に部屋から出て行ってしまった。女は椅子に腰掛けたまま、目を閉じ、闇の中に閉じこもっていった。
***
黒岩がなまえを見つけたのは、古ぼけた屋敷の地下室にて。廃屋敷の一角で裏稼業の人間と思われる男が死んでいたそうだ。第一発見者はとある刑事だった。その刑事の『後始末』により、神室町郊外で起きた殺人事件は人知れず、闇に紛れることとなる。しかし、その屋敷は依然から奇妙な噂の絶えない場所であったと、刑事は『後始末』がてらに地下室へ向かい、そこで刑事は土塊の女を見つけたのだ。女はガラスケースの中で眠っていた。当時、ここに住んでいた屋敷の主が他者に理解されない趣味を隠しているのだと思っていたが、間違いがあってはいけないと声をかけたところ、女は目を覚ましたのだ。それからは保護という形でその刑事の監視下に置かれることになった。
彼女は紛れもなく、人間ではないのだと言う。それを裏付けるのは警察医による検査の結果だった。そもそも、彼女には人間にとって不可欠であるものが何一つ存在していないのだと、非科学的なことを口走っていた。人間とは思えない成分で出来た体。血液や臓器、神経に細胞までも彼女には揃っていないと。生命の意味を問われる検査結果に刑事は医者に対して、忠告だけを言い付け、後は冒頭の通りである。
「おい」
たったこの一言で、なまえは再び目を開ける。黒岩の手には小ぶりな花束が握られており、なまえが目覚めて間もなく、近くのテーブルに投げ捨てた。日が経ち、黒岩は再び首をきつく締め付ける誠実さを緩めている。この時、黒岩は自分のした何気ない行動を気にしてはいなかった。だが、初めて目にする光景に意識を奪われていたのは明らかだった。目覚めたなまえは誰の指示もなしに立ち上がると、黒岩の投げ捨てた花束のあるテーブルへと歩き出した。そして、ぐったりとした花束に手を添えると、綺麗に咲いた花びらを指先で撫でていた。
「気になるのか、そんなもんが」
それは黒岩がプレゼントにと受け取った小ぶりな花束だった。投げ捨てた衝撃で微かに萎れているそれを、なまえはいつまでも手放さない。奇妙なこともあるもんだと、投げ出された花束に関心を示す泥人形の姿を眺めていた。泥人形は振り返り、胸元にそれを抱く。大切にしている、形だけの素振りだ。黒岩は初めて見る光景に驚かされたものの、彼女に付き合っている暇はないと胸元の花束を取り上げると、すぐそばのゴミ箱へと放り投げた。
だが、この行動が黒岩の興味を惹き付けて止まないらしく、黒岩は後日になって、ひとつの花瓶とひとつの花束を持って帰ってきた。なまえの目の前に差し出し、好きにしろ。と言い残し、黒岩は自室を出て行ってしまった。この日、初めて黒岩はなまえに眠るよう命じなかった。なまえは感謝の言葉を紡ぐでもなく、手にした花瓶の縁に手を添え、花束の包装を解いていく。
「き れい」
泥人形は自分の無機質な胸の奥に何かを感じていた。黒岩が残して行ってくれたのは、花びらの白が美しい百合の花だった。控えめであるかのように頭を垂れている姿に、黒岩の言葉を思い返す。好きにしろ、それはどういう意味なのだろうか。委ねられていると理解しているものの、好きにするやり方など考えたところで思い浮かぶはずもなく、なまえは未だに頭を垂れている百合と向かい合って佇んでいた。
***
あれから、黒岩は百合の花と向かい合って佇むなまえに花の世話をしてりゃあいいと言いつけた。すると、なまえはどこか安心したような顔で頷き、華やかな花瓶に生けた百合の世話に励むようになった。欠かさず行われる花の世話は、彼女を一人の人間であるかのように思わせていた。あの細い手が鮮血で汚れようとも、いつだって彼女は百合の花と触れ合うことを欠かさなかった。
「とても、きれい」
いつもと同じく黒岩は百合の手入れをしているなまえを眺めていた。何を思うでも、何をするでもなく、ただぼんやりと。だから、突如として聞こえてきたぎこちない言葉に、黒岩は驚きを見せる。今まで一度も発することのなかった言葉を口にしているのだ、黒岩は駆け寄るまでは行かなくとも目を丸くはしていた。感情という色を差してもらったかのように、その顔は喜びに柔らかく微笑んでいる。花を慈しんでいるなまえに、黒岩も胸の当たりがざわざわと揺らめいていることに気付く。ただ、なんてことのないことだと言うのに。花を慈しむ人間など、この世にごまんといるだろうに。
「気に入ってんのか」
黒岩の問いになまえはたどたどしい返事で、自分の思い浮かんだ言葉を並べていった。綺麗な草花を見ていると、穏やかな気持ちになれる。穏やかな、と言ったらおかしいのかもしれないが、まるでそのように感じると。花瓶の水を取り替える時に触れる、芯のある茎や立派な葉、健気に咲き続けている花の頭、ひんやりと手に流れる水道水も、全てが心地よいのだと告げた。
「だったら、今度良い場所に連れてってやるよ」
珍しく疑問を抱いた顔で見つめるなまえに、お前の好きそうな場所だと黒岩はとある植物園について話し始めた。なまえは黒岩の話をいつもと変わらず聞いているつもりだった。たった一つ、彼女の見せた柔らかな表情を除いて。この時、黒岩は無機物にも魂は宿るのだと言う古めかしい話を思い出した。からっぽの器でしかなかった彼女に、図らずも自分が魂とやらの一片を注ぎ込んでしまったのかもしれない。
それでも、なまえは従順な土塊であり続けた。未来に希望を抱くことも、過去に思いを馳せることもしない土塊。だが、黒岩はあの日に見たなまえの人間によく似た表情が忘れられなかった。人間である自分でさえ、駆け引き以外に見せることのない表情だ。自分となまえ、一体どちらがより人間らしいのだろう。手を汚すことを厭わない彼女には何かを愛でる感情がある。ならば、自分は。もしかしたら、本当はみょうじなまえが人間で、自分自身は無機質な土塊なのかもしれない。嘲笑、小休止、手を休める。不思議だ、愛着が湧けば勝手に拗れていく。余計なことは考えていられない、もうすぐなのだ。汚しに汚したこの手が崇高なものであると、誰もが感謝をすることになるだろう。外は、既に冬の冷たさに悴む季節だった。
***
貫くような鋭い冬の到来を彼女は知らなかった。いつまで経っても、この部屋の主は姿を見せない。胸の奥が脈打つように嫌な胸騒ぎを告げる。花瓶の百合は切り取られた花の定めとして、次々に朽ちていった。純白がセピアに染まり、ひとつ、ふたつと落ちていく。寂しさを知らぬ土塊はその花弁を拾うでも、捨てるでもなく、ありのままにしていた。そうした方がいいと思ったからだ。だが、最後の一輪にセピアが広がっていく頃、土塊はどうしようもなくなっていた。この一輪だけはどうしても枯らしたくないと、何かに突き動かされ、頑なに朽ちてしまうのを許さなかった。
しかし、時は経つ。残酷な早さで何もかもを置き去りにして、自分だけ身軽に、足早に過ぎ去っていく。焦燥を知る、だが、抗う術は見つからない。主もまだ戻って来ない。植物園はいつでもやっている場所なのだろうか。窓の外も分厚い雲の硬いキャンバスと化している。自分ひとりが、いつまでも待ち続けていた。傍にいた百合の花でさえもその寿命に花びらを散らしていく。
「 さん、」
本当は分かっていたのかもしれない。日に日に胸の奥の脈打つ何かが弱まっていることに。知らぬ存ぜぬではいられなくなっていた。初めて口にした名だ、懐かしいという郷愁を知る。花びらに触れていた指先で、自身の胸骨をなぞる。人間ならば、この奥に大切なものが隠されていると教えられていた。同じ形をしているのだから、自分の奥にも何かがあるはずだと。肉はすぐに指先を受け入れた。泥は泥を掻き分けていく。ずっと同じ感触ばかりだ、何もない、何も。大切なものが何一つとして隠されていない。憐れ、虚しさを今初めて学ぶ。何もなかった、泥以外にこの体を形成するものなどなかった。
胸に穴の空いた土塊は項垂れる。死を見届けるばかりで、そこに追いつくことだけは許されていない。閉じて開いた瞳から、一滴滴り落ちる。その瞬間、指先がサラサラと砂粒のように細やかに崩れていた。たった少し、ほんの少し。だが、一から百を学ぶ土塊にとって、その現象は最後の救いのようだった。彼女は胸の穴に触れると、少しずつ溢れ出す水分を両手いっぱいに集めては、たどたどしく花瓶へと注ぎ入れていく。体は徐々に崩壊へと向かっていた。
なまえは黒岩が与えてくれた百合の花が何よりも大切だった。だが、もう彼とこの花を見ることはないのだろう。数ある花達は順番に枯れていった。なまえに残された花はこの一輪だけだった。すきだった、たとえゆがんだかんけいであっても。土塊は何かに祈る。彼女は神を知らない。自分の大切を捧げるのだから、この花だけはもう少しだけ綺麗なままで咲いていてほしいと。言葉を知らぬ彼女は花の名も知らず、黒岩満の最期も知らない。だが、体が崩れ落ちる寸前に聞こえた声によって、穏やかな眠りにつく。
自分に唯一接してくれた、あの男の声に手を引かれて。
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