行き場がなかった。自分の足も、自分の感情も。生きていくだけの命はまだある。矢のように突き刺さる無神経さに、そんな毎日に嫌気が差した。だから、みょうじなまえは神室町へとやってきた。女ひとり生きていくには優しい街ではあった。だが、それで胸の穴は埋まらない。自分が、もし自分が、どこにでもいる普通の女の子だったなら。こんな擦れた気持ちを抱えずに済み、可愛くない自分のことをもう少しくらい大切に出来たのではないかと思う。
男の体はふわりと宙を舞い、鈍い音を立てて地面に落下する。片手一本、たったそれだけでなまえは見知らぬ男を投げ飛ばすことが出来た。余裕綽々、もしかしたら多少は舐めていたかもしれない。いや、正直何もかもがどうでもよく、くだらなく、自分に遠く及ばないと自惚れていた。自分の体を突き刺すのは、連れの男達の怯えた視線だ。恐るるに足らず、勇猛果敢に挑むはたった一人の華奢な彼女のみだった。
気に食わなかった。一人の女を二、三人で囲み、逃れられぬように言い寄る彼らが。だから、思い切り突っぱねてやった。数と力任せでは靡かない相手もいるのだと。しかし、彼らは理解も追い付かなかったらしく、逆上からの現在に至る。
それから残りの男達を蹴散らすのに時間はかからなかった。寧ろ、呆気なかったくらいだ。そして、なまえはまた沈んでいくのだ。今日も自分は外れた存在のままだったと。結局、誰も自分に夢を見せてはくれない。同世代の子達が見るような、誰にも優しく甘い夢を。
男達が携帯していたナイフの刃を折り曲げ、辺りの物陰に投げ捨てる。なまえは足元に転がる男達に目もくれず、その場を立ち去ろうとした。すると、通りを塞ぐように巨体の男が現れた。とても派手な身なりをした、体格のいい男だった。彼の眩しいくらいの金髪が目に刺さる。捲り上げた袖から覗く太い腕には立派なタトゥーが彫られていた。なまえの心臓は怯えを知らなかった。何故なら、それはただの錯覚だからだ。自分に都合のいい幻だ。そんなものを見たところで、普通のか弱い自分にはなれない。
「おにーさん、誰?」
問いかけるも返事はない。眉を不機嫌そうに吊り上げても、目前の男は動じない。動じないどころか、馴れ馴れしく肩を抱き、内側のカメラにこの瞬間を切り取らせようとしていた。悪趣味なツーショット、男は不敵に笑う。そのくせ、あ〜あ。せっかく撮るんだから、もう少し笑えよ。とぼやいており、余計に意味がわからない。だが、すぐに合点がいく。地べたに伏せていた男達が、金髪の男を見て不敵に笑うのだ。これでお前も終わったなと言いたそうに。
「そういうことね、この人たちの強〜いセンパイ的な」
「あぁ?なんの話ししてんだよ、」
「助けにきたんでしょ?可愛い後輩が、女の子引っ掛けようとして痛い目に遭ったから」
「いいから、次は笑えよ。可愛い顔してんだから」
「ほんとにふざけないで」
視線で射抜く。しかし、まともに取り合ってはくれない。苛立ちを募らせるよりも足元の男を蹴り飛ばせば、何かが変わると思った。咄嗟のことで、蹴られた男も悲鳴を上げられず、地の上を滑っていく。当たりどころが悪かったのか、鼻から血が溢れている。
「……まるでボールでも蹴るようだな」
「今度はおにーさんの番かも、」
「てことは、やっぱコイツらをやっちまったのはお姉ちゃんか」
「どうする?やってみる?」
あたし、“ 相当 “だよ。となまえは首の骨を鳴らして見せる。その一瞬にカメラのシャッター音が聞こえ、その後にも並べるつもりだった挑発の類をすっかり忘れてしまった。まるで不意打ち、だが、気持ちは乗っていた。金髪の男はなまえの浮かべた不敵な笑みを、携帯のカメラで切り取っていたのだ。
「……ちょっ、ほんとに何なの?!」
「いいじゃねぇか。笑顔も、写りも悪くねえ」
「あのさ……!やるなら、さっさとやったらどうなの……?!」
「だから、何をやるってんだよ。俺にそんな気はさらさらねぇよ」
「はあ?だって、コイツらのこと助けに来たんでしょ?」
違うの……?と返せば、自然と視線が重なり、沈黙がそうだと代わりに答えているようだった。ただ連れて来られただけなのだと言う。本当は一ミリも乗り気ではなく、ただここへ。あまりの剣幕に重たい腰を上げてみれば、目も当てられない現状に途端に何もかもが面倒になったのだと言う。
「お前だろ?キャバクラで用心棒やってる女ってのは、」
ここら辺の店はウチと関わりがあってな。と携帯の画面を指で右へ左へと滑らせている。男の言っていることは合っていた。なまえが神室町で生きていくのに就いた職はキャバ嬢だった。しかし、だ。人をもてなすことは勿論、人と会話を弾ませることや細やかな気遣いに向いてないと気付かされる場でもあった。中には嫌がるキャストに迫り、安易に触れようとする客もいた。だから、なまえからしてみれば用心棒の方が気が楽だった。ひたすらに腕っぷしで納得してもらう。変わった体質である彼女には、それが一番簡単でやりやすい仕事だった。
「べ、別にいいでしょ、」
「ああ、別に文句はねぇよ。俺も一度くらいは顔が見てぇと思ってたからな」
「生意気だから?」
「いや。俺ぁ、噂を聞いた時から気に入ってたんだ」
知ってんだろ、自分の噂くらい。とこちらへと数秒間のみ視線を外した男にどきりと胸を刺される。彼が嘘を吐いていないことの、何よりの証明だった。だからか、いつもよりかは余計に。珍しくその気にさせられた。偶然と疑問は自然と口から出て行った。
「おにーさん、名前は?」
「どうした、急に気でも変わったのか」
「聞いておいてもいいかもって、」
「だから、どうしてだ」
「話が分かる人かもしれないから」
自分と同じ視線の先にいる男は口元を歪めて笑って見せる。まるで自分は敵じゃないと言いたげに、自分の名を惜しむことなくなぞったのだ。あくつだいむ、阿久津大夢。そう名乗った男に、もう他人行儀ではいられなかった。なまえも同様に名を伝えると、嬉しそうな声が返ってきた。不思議な感覚である。
「なまえって言うのか、良い名前してんだな」
過去を払拭するかのように光に照らされている気分だった。胸の奥が奇妙な感覚と共にじんわりと温かくなっていく。子供の頃に母に優しくされた時の感覚とよく似ていた。少しだけ、自分が弱くなった気がする。
「でもよ。なんか、こう見るとウチもあんまだなあって」
「ウチ?」
「一応、神室町の裏を仕切ってるって言うか」
「ああ、あの人達も最初はそんなこと言ってたよ。俺らはすげえんだぞって」
「ったく、やめて欲しいねえ」
でも、なまえに簡単になじられちまった。本当に強えんだな、なまえ。
馴れ馴れしく名を呼ぶ男を、阿久津を嫌だと思わなかったのは何故だろう。全身にぞわぞわと粟立つ感覚が走り抜けていく。胸の奥を傷付けられたような気がする。でなければ、とくん、とくん、と怯えた心臓の説明がつかない。この体を切り裂くことは出来ない。この体を穿ち抜くことは出来ない。この体を脅かすものはこの世に存在しない。かつて、そう教わり、運命を受け入れていたからこそ、擦れた気持ちを抱えることになってしまった。
それなのに、話が違う。自分自身を脅かすものを前にした途端、恐ろしくなってしまった。あの男は、阿久津大夢は簡単にこの胸を抉っていったのだ。止まぬ鈍痛、脈はまだ怯えている。こんな時に限って昔のことを思い出してしまう。それは母が嬉しそうに語っていた父との出会いだ。もしかしたら、と思えば思うほど、憶測でしかない思考が現実味を帯びていく。きっと今の自分は脆い。全てが砂で固められただけの人型でしかない。
「可愛くて強いってのはずるいよなあ。非の打ち所がねえ」
「……本気で言ってんの?」
「俺はいつだって本気だよ」
「……かも、」
「ああ?」
──── すき、かも。おにーさんのこと。
自分にしては、らしくない言葉だと思ったが、それが多少の本心であるのも嘘ではない。初めてだった、この男と出会ってから自分の身に起こる事の全てが。自分と対等な目線で、芯の部分から接してくれている。実に自分に都合のいい解釈だった。だが、この神室町で初めてだったのだ。生まれて初めて、血の繋がりのない他者とありのままに接することが出来た。本音も建前も何処にも存在しない。阿久津には自分がどのように映っているのだろう。触れてみても、いいのだろうか。指一本ですら、他者を傷付けるのに申し分ない力を備えたこの手で。
「まあ、色々あるよなあ。俺も、お前も。分かるよ、同じだ」
「同じ……?」
「みーんな、ここに来ちまう。神室町に」
「阿久津さんも訳ありでここに来たの?」
「おう。今のお前と同じ目をしてな」
だからかもな、なまえのこと放っておけねえの。疑惑が確信へと変わる。今自分が阿久津に対して抱いているのは、間違いなく恋心であると。そして、阿久津大夢こそが自分をどこにでもいる女の子と何ら変わらない存在にしてくれる相手なのだと。だが、なまえにはこの出会いを次に繋げられる術を知らなかった。確信はある、しかし、それに手を伸ばすだけのあざとさが足りていないと痛感する。どうすべきか、次を躊躇っていると、なまえの焦燥感を感じ取った阿久津が不敵に口の端を持ち上げる。
「そんじゃ、どっかデートにでも行きますか」
「……え?」
「好きなんだろ?だったら、問題ねえよな」
「で、でも、」
「なんだよ、他に予定あんのか?」
「別にない、けど」
「ハッキリしねぇなあ、言いたいことがあんなら言えよ」
阿久津に問われ、なまえはたった一言絞り出す。すると、その言葉が意外だと言うように阿久津は目を丸くしていた。
「いいの……?あたし、なんかで」
「どっからどう見ても、俺のタイプどんぴしゃだよ。なまえは」
「あ、あのね!」
なまえはすかさず自身の正体を明かした。こんなことも阿久津が初めてだ。誰だって秘密を好んで明かしたりはしないだろう。しかし、好意を持てる相手ならば、この秘密は明かさなくてはならないものだと思った。阿久津はなまえの『秘密』を真剣に聞いていた。顔色一つ変えず、視線も逸らさずになまえを見つめたまま、『秘密』が明かされ尽くすのを待っている。
ひとしきりに打ち明けた後には、やはり静寂が漂う。なまえは阿久津の反応を窺っていた。これでもし何か変わってしまうのであれば、きっとただの思い過ごしだったのだろうと。それでも良かった、初めて心を動かされるということを体験出来た。それだけで充分なのだ。しかし、一向に悪い未来がやって来ない。不安に駆られる。
「……で、話はそんだけか?」
「そんだけって、今の話聞いてたでしょ」
「おう、ばっちりな」
「気持ち悪くないわけ、」
「どこが」
「だから、あたし、」
「気持ち悪いとこなんかねえよ。それに少し丈夫に産んでもらっただけだろうが」
よかったな。と一言添えられ、ようやく目には見えなかったしがらみのようなものから、逃れられたような気がした。父もこんな気持ちだったのだろうか。今なら、母と結ばれた父の胸の内が理解出来る。
「自信持てよ。ここは神室町だ、誰が何しようと、結局は力ある奴だけがのし上がれる街だ」
「じゃあ、好きになってくれる……?」
「そんなもん聞くまでもねえ」
するりと手を取られ、連れ歩かされる。大きな手の内に自分の手がすっぽり収まってしまう。初めてこの街の景観が好きだと思った。今まで掃き溜めの一区画にしか思えなかったこの街が、今は不思議とお気に入りの一つに変わる。
「ありがと、阿久津さん」
「やめろよ、堅苦しいのはナシだ」
「……なら、大夢くんって呼んでもいい?」
「おう、それでいい」
こうして、みょうじなまえと阿久津大夢は運命的な出会いを果たす。力を持て余す彼女と力こそが全てである彼が、この街で出会い、結ばれるのは必然的な仕掛けの一つなのかもしれない。そして、二人の顔はより神室町の住人に知られていくことになるが、その後の冒険譚はまだ明かされない物語である。
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