「ちょ、ちょっと海藤さん!」
「なんだよ、杉浦。ンなでけぇ声出すんじゃねえ」
「大変だよ!」
「何がだよ」
「なまえさん!なまえさんがかっこいい人と一緒に歩いてた!」
「え、それって……」
「ター坊まで騒ぐんじゃねえっての。だから、それがどうしたんだよ」
杉浦は怪訝な顔をして海藤を見た。突如、八神探偵事務所へと駆け込んできた杉浦が告げたのは、海藤と恋愛関係にあるなまえが別の異性と仲睦まじく街を歩いていたということだった。この話に対して驚きを隠せないのは、杉浦と八神の二人だけで、肝心の海藤は眉根一つ動かしもしない。それを疑問に思うのは当然のことで、杉浦は怪訝な表情のまま問いかけた。
「……海藤さんは心配じゃないの?」
「どこを心配すりゃあいいんだよ」
「だって、自分の彼女が別の男と歩いてたら、なんか嫌じゃない?」
「同僚かもしれないだろ」
「そう、だけどさ。ちょっとくらい、驚いてもいいんじゃないの?」
「驚くも何も、仕事中の人間とっ捕まえて驚けってのは無理があんだろ」
いや、必ずしも仕事とは限らないんじゃない?と不安そうな面持ちで八神が呟く。相手はどんな?と杉浦に訊ねると、海藤さんとは真逆のタイプかな。と返す。線も細く、目鼻立ちもくっきりとしている典型的なイケメンだそうだ。その話を聞いた八神は表情を曇らせ、杉浦は相変わらずと苦々しい様子で海藤を見た。
「何見てんだよ、杉浦が見たっていうソイツと比べてんのか?」
「僕的にはあっちの方がお似合いな感じがするけど、」
「まだ何も分かってないんだし、ちょっと調べてみる?」
「おい、お前ら!人の女、つけ回す気じゃねぇだろうな?」
「いや、ちょっとだけ……」
「いいか、そんなことしてみろ。俺がお前らの相手になってやる」
「やめとこっか、八神さん」
「俺もその方が良いと思う」
「じゃあさ、海藤さんが聞いてみなよ」
あ?なんで俺が?と前のめりに座り直す海藤に杉浦は続ける。気になってるのは僕達だけど、なまえさんがトラブルに巻き込まれてたらどうする?もしそうなら、ほっとけないよ。その言い分には一理あると八神も頷いている。要は安全かそうじゃないかを知りたいだけ。だって、海藤さんの大切な人なんだし。と言われては海藤も無闇に首を横に振ることは出来なかった。 しかし、こうも思うのだ。今回はただの杞憂に終わるのではないかと。そう思えるだけの材料が海藤の手元にあることをこの二人は知らない。
***
窓の外は薄暗いオレンジの夕焼け。海藤の姿は既に自宅にあった。杉浦からの一件で早々に帰され、寝るだけの自宅で退屈と戦っていた。遂には体を横にし、眠気に誘われてうとうととしていると、玄関から扉の開く音が聞こえてきた。そこで海藤の眠気は消え、どたどたと大きな足音で玄関へと迎えに行けば、そこには丁度脱ぎ終えた靴を並べているなまえの姿があった。こちらに気づいたらしく、すぐに振り返り満面の笑みで口を開く。
「ただいま」
「おう、おかえり」
なまえは海藤の革靴の隣に自分の靴を並べると、今日は早いんだね。と問いかけながら、海藤の懐に潜り込む。まあな、色々あってよ。と濁しては自分の胸に顔を寄せるなまえの頭に触れる。
「お疲れさん。今日も大変だったろ」
「うん。大変だった」
「ん?なんだお前、またこれ着けてったのか?」
「だって、初めて貰ったプレゼントだから」
なまえの胸に輝いているのは、小ぶりなジュエリーがついたネックレスだ。海藤がなまえと関係を持った際に贈ったプレゼントで、なまえは常日頃から最低でも一つは海藤からの贈り物を身に着けるようにしていた。
「ったく、言ってくれりゃあまた買ってやるのに」
「だめ。こういうのはたくさん買えばいいってもんじゃないの」
「そういうもんかい?」
「そう」
「なまえがそう言うなら、そうだな」
互いに少し笑い合った後、暫しの沈黙が訪れた。見上げる視線と見下げる視線。その二つがぶつかる頃には海藤の手はなまえの後頭部へ、なまえの足はつま先立ちに。じわりと肌が触れ合う瞬間、さっと身を引いたのは突然何かを思い出したなまえだった。
「ごめん、ちょっと待ってて」
ばたばたと海藤の腕の中から離れて行った彼女を目で追い、……焦らすねえ。と呟く。間もなく聞こえてきた水音に真面目な彼女の一面をしみじみと思い出す。慌てて戻ってきた彼女はもう一度と言うような目で懐に収まっている。ぐいっと背が伸びた彼女の後頭部へ手を添えると、ようやくおかえりのキスを済ませたのである。
嬉しそうに微笑む彼女を見ていると、杉浦の言っていたことが霞んでいく。こんなに頬を染めて笑うなまえの姿など自分以外に知っている男はいない。自惚れだとは自負しているが、それほどまでに彼女に抱く信頼は厚い。だからこそ、彼女にこのような話をするのは心苦しいと思いながらも、その話を持ちかけるとまずはきょとんとした顔が返ってきた。次に、杉浦くん達に何も言ってないの?と口にした。
「何もってなんだよ」
「その、私達がどういう関係か」
「付き合ってんのは知ってる」
「それだけじゃなくて、どうして付き合ったのかとか。普段からどう思ってるかとか」
「……そんなん恥ずかしくて言えるか」
そう?とくすくす笑うなまえに言えるはずがないと言葉を飲み込んだ。実を言うと、八神や杉浦にはなまえと『付き合った』ことしか伝えていない。例えば、既に同棲を始めていることや日々の熱愛っぷりなどは全くだ。
「心配しなくても、私はずっと海藤さんだけですよ」
「……可愛いこと言ってくれるねえ、この子は」
「海藤さんは違う?」
「んな風に見えるか?わざわざ、こうして出迎えてるのは、可愛いなまえちゃんに一刻でも早く会いたいからだよ」
「ふふ、それ本当?」
「じゃなきゃ、今こうしてねぇだろ?」
そうかも。だが、もし今日一緒にいた男が変な動きを見せて来たらすぐに言ってくれ。……海藤さん、顔怖い。そりゃあ、なんたってなまえは俺の……。俺の?なに?……なんでもねえ。
「とにかくだ!やっと仕事から帰って来たんだ。メシにするか、風呂にするか。それとも、」
「海藤さんがいい」
「んじゃ、そうしとくか」
一番に自身が良いと言ってくれた彼女をひょいと抱き抱え、所謂お姫様抱っこの状態でリビングへと連れて行く。腕の中の彼女は海藤のこういう所が好きなのだと、何度惚れ直したことか。
***
翌朝、暖かい懐に潜り込んだ彼女は朝の支度に取り掛かろうと布団から出て行こうとしていた。しかし、途端に大きな腕に体を抱き寄せられ、出られなくなってしまった。
「もう、行っちまうのか」
「今日もお仕事だもん。海藤さんもでしょ」
「こっちは仕事探しから始めねぇとだからなぁ」
「ふふ、私も何かないか探してあげるから。ね?」
「わかった。あんま無理すんなよ」
「うん、ありがと」
ちゅ、と海藤の頬に唇を押し当てた彼女の胸元に薄らと大きな斑点が浮かんでいる。不意に視界に映りこんだそれを無視することは出来ず、分厚い指でその紅潮する肌に触れた。
「これ、昨日のヤツか?」
「えっと、……ああ、うん。そう、昨日の」
「悪い、加減したつもりだったんだが……」
「ううん、大丈夫。それに部屋も暗かったし、」
実は未だに肌に吸い付いた時の感触を覚えていた。彼女の薄皮をそっと唇の肉で啄み、弄び、愛おしむ感触を。若気の至りにすら勝る独占欲に触発されたのだ。昨夜ほどなまえを自分の下に敷いていたいと思ったことはない。だが、それを告白するほどの勇気はなく、昨夜の粗相を詫びる言葉を並べていた。
「本当に大丈夫。嫌じゃないし、それに」
「それに?」
ちょっとだけ嬉しいから。と言い残して、早々に布団を出て行ったなまえの後ろ姿に、これだから信頼しちまうんだよなぁ。とこぼす。そして、一晩経った自分が杉浦達に説明出来るのはこの熱愛っぷりしかなく、どう誤魔化そうか考えるのは寝起きの頭には厳しかった。
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