初めは浮気の調査だと話していた。長年関係を築いてきた彼を疑うのは今回が初めてだと。それは決して自分に対して告げられたものではなく、探偵業を営んでいる八神に明かされたものだった。自分はと言えば、事務所から出て行く彼女とすれ違っただけの人間だ。まるで部外者、しかし、彼女とすれ違う度にあの横顔が忘れられないでいる。彼女はあと何度、ここへ通うのだろうか。あと何度、すれ違うことになるのだろうか。

 最初は目線も合わず、ただ横を通り過ぎ。二度目になれば、ふと視線がぶつかりそうになる程度。三度目はこちらを見て、軽い会釈を交わすように。それからは少しだけ立ち止まって挨拶をすることが多くなった。まるっきり赤の他人だった彼女と微弱ながら縁を深めていることが不思議で、雑踏に呑み込まれていくような日常のささやかな喜びだった。
 だが、そんな喜びも長く続くはずがなく、遂に男側の揺るがぬ証拠を八神が持って帰って来た。それは彼女にひとつの選択を迫ると同時に、もう二度とここを訪ねる必要がなくなるということだ。いつものような笑顔や接し方を出来なくなっていたのは自分だけだった。彼女は動揺も取り乱しもしなかった。ただいつものように、落ち着いて笑って見せた。

「それじゃあ、もうここには来ないってことだよね」
「ええ、私の気持ちを後押ししてくれるものをたくさん集めてくれましたから」
「彼の浮気の証拠、出て来たんだ」
「嫌って言うほど。彼の脇が甘いのか、それとも八神さんの腕が良いのか」

 うん、きっと後者ですね。と笑いかける彼女の笑顔が痛々しかった。たった数回しか顔を合わせていないような自分が『いつも』を語るのはおこがましいことなのかもしれないが、彼女はもっと自然に笑える人間なのだ。

「そっか。寂しくなるね、僕も君も」
「あ、でも、明日また来ます。依頼のお礼に伺うつもりなんです」
「明日が本当の最後なんだ」
「はい。杉浦さんや八神さんに会えなくなるのは寂しいですけど、これ以上私が頼めるものなんてないですから」
「わかった、明日も出来るだけ顔出すよ」
「ふふ、最初の頃はたまたま通りかかっただけって言ってたのに」
「い、いいでしょ。僕だって会えなくなっちゃうんだから、挨拶くらいはしておきたいだけ」

 一度頷き、彼女はまた明日と言い残して階段の手すりに手をかけた。靴の鳴る音が徐々に遠く、小さくなっていく。自分は彼女の行先も知らなければ、何をしたら喜ぶかさえも分からない。この前まではまだ他人だったから、と言い表せない苦々しい気持ちを無理矢理飲み込んだ。憂鬱だった。突然の別れも、彼女に委ねられた関係の後始末も。彼女に非は何もなかった、非があったのは男の方じゃないかと何度も喉の奥でつまらない言い分を捏ねくり回している。
 不正も、偽りも、欺瞞も、裏切りも、全て『悪』だ。無意識に過去の出来事を引っ張り出そうとした、見えない自分の手を止める。自分の短所は自分が一番よく分かっているのだから、いかなる時も中立的であるように振る舞うと心掛けているはずだ。そこまで誰かに肩入れ出来るほど、僕は優しくないのになぁ。と彼女の居なくなった事務所前の廊下で佇んでいる。手すりに体を預け、明日の別れの挨拶を考えるでもなく、彼女の新しいスタートを応援する言葉さえも今は考えられなかった。


***


 翌日、彼女は颯爽と事務所へやって来た。いつもとは違って爽快な足取りで。一晩が経ち、ここまですっきりとした顔をしているのだから、面倒事は案外簡単に片付いてしまったのかもしれない。それほどまでに手際のいい、最後の挨拶だった。事務所にいる人間は皆、そう思っていたことだろう。少なくとも自分自身も同じようなことを考えていたのだから。
 感謝の言葉を置き去りに彼女は事務所を出て行った。もう少し話をしたくて、その後を追う。今日が最後ということを惜しみながら、ビルから出て行く彼女の姿にふと違和感を覚えた。彼女が大通りに出る前に声をかけたかった。大通りの人混みに紛れられては見つけることはおろか、素直に話しておきたい言葉さえも伝えられなくなる。それらしい背中に近づき、その名を呼んだ。振り返った彼女の顔に次の言葉を言い出せなかった。

 止まらない何かを必死に抑え込んでいるのが見て取れた。口元があからさまに狼狽えている。瞳が今にも逃げ出したいと瞬きをしている。杉浦さん、と名を呼ばれるまで声が出せなかった。こんな、彼女の表情を見たのはこれが初めてだった。当たり前だ。長年付き合っていた相手に裏切られて、平気な人間など存在するはずがない。想像することは容易かったはずなのに、彼女のこの表情を見るまで全く考えもしていなかった。

「どうかしましたか、」
「ねえ、この後どうするの」
「……この後、ですか」
「変なこと、考えてないよね?」
「ごめんなさい」
「……っ、駄目だよ!」

 普段、滅多に上げない大声に目の前の彼女は驚いていた。自棄になっちゃ駄目だよ、絶対に。と肩に触れると、彼女は困った顔して笑っていた。これが杉浦さんのしたかった最後の挨拶ですか。と聞かれ、ううん、違う。と返し、彼女の手を引いて再び歩き出す。どこへ行くかなんて考えちゃいなかった。ただひとりにしておけなくて、強引に手を引いただけだった。


「結構歩くよ、いい?」

 ただ頷いた彼女の手を解けないよう、握り締め、お互いがクールダウン出来るまで神室町の人混みの中を歩き回ることにした。喪失感を拭うように、喫茶店やショップ、ゲームセンターなど寄れるところは全て寄った。酷く必死だった。美味しいものを食べよう、気分が変わるかもしれない。服でも見に行こう、似合うものがあるかもしれない。面白いゲームで遊ぼう、好きなものがあるかもしれない。
 全て、彼女の何かを埋めたい、塞ぎたいと思った自分の身勝手だった。最初は俯きがちだった彼女もいつの間にか、明るい表情をするようになった。食べたことの無いケーキを食べては瞳を僅かに輝かせ、普段買わないような服や靴を見て回っては、より瞳を輝かせる。今流行りのシューティングゲームに二人で挑戦してみれば、思いの外晴れる気持ちがあったらしく、楽しいね。と言ってくれたほどだ。

「自棄になって、じゃないけど」
「え?」
「家のもの、全部捨ててやろうって思ってた」

 ぽつりと彼女が呟く。今まで語ろうとしなかった悲しみを少しずつ溶かそうとしているようだった。無理して聞くものでもないと思っていた矢先、彼女が今それを話したいのなら、耳を傾けるべきだと思った。今の彼女の横顔はとても澄んだ表情をしている。

「全部とはまた凄いね、生活に困らない?」
「よくよく考えてみたら、すごく困ると思う」
「だよね。全部はやりすぎだもん」
「要らないものだけ捨てようって」
「うん、その方がいいね」

 すっかり毒が抜け切ったのだろう。ようやくいつもの彼女に戻ったような気がして、嬉しさから不意に表情を緩めると、真っ直ぐにそれがぶつかる。しかし、次の瞬間にはその目線が自分以外の誰かに向けられることになった。後を追えば、その先に見知らぬ男女の姿がある。まさか、と思った時には既に手を伸ばしていた。
 頬に手を添え、そっと優しくこちらへと振り向かせる。見ないで。と乞えば、翳る瞳に動揺が滲み出ている。もう赤の他人だよ、大丈夫。忘れてやろう。と口にしたのは、目の前で彼女の心が沈んでいくのを黙って見ていられなかったからだ。

「ね、ひとつ聞いてもいい?」
「いいよ」
「どうして、そんなに優しくしてくれるの」

 そりゃあ、今にも泣きそうな女の子を放っておけるほど、僕は薄情なヤツじゃないし、何よりああいう奴が嫌いなんだ。昔からね。
 この言葉を聞いた彼女は一度深呼吸をし、そっか。と返した。正直、まだ不安だった。彼女の生活の中にあの男は溶け込んでいて、今の自分はその名残りを消してしまおうと躍起になっている。彼を赤の他人と言いはしたが、自分もまた赤の他人でしかない。悔しかった、たった一瞬の内に視線を奪われたことが。

「あのね、杉浦さんにお願いがあるの」
「さん付けなんてしなくていいから」
「時々でいいから、またこうして会ってくれる……?」
「そんなの聞く必要ないよ。僕だって本当は今日を最後にしたくなかったし」
「ありがとう。杉浦くん」
「遠慮しないで言ってよ。断捨離でも気晴らしでも、何でも付き合うからさ」

 別れを先延ばしにする言葉をずっと考えていた。今日を最後に、彼女が神室町に来なくなってしまうと思っていたから。真面目で面白みのない、諦め切った礼儀正しい挨拶は急遽取り止めにする。再び彼女の手を取り、通り過ぎて行った男女とは反対の道を選んだ。

「でも、今日はまだ付き合ってくれるでしょ?」
「うん。まだ杉浦くんと一緒にいたい」

 突然、彼女の口から予想もしていなかった一言が発せられ、不意に顔が熱くなる。さっきまで泣きそうな顔をしていた女の子が笑うと、どうしてこうも魅せられてしまうのか。……それは反則じゃない?と零したくなるほど、なまえとの縮まった距離に頬の熱は取り除けなかった。



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