半月ほど前、神室町のとあるカフェで強盗が押入るという事件が起こった。当時、その強盗は近くにいた女性従業員を人質に金銭の強奪、及び逃走を図った。しかし、通報を受けた警察の手により人質は無事救出。犯人を取り逃したものの、事件から一週間後に謎の不審死を遂げた犯人の遺体が発見された。遺体には酷い暴行の痕跡が残っていたものの、死亡してからそれなりの日数が経過しており、辺りに凶器も見つかっていないことから、それ以上の捜査は行われなかった。



「最近になって、顔色のいい日が増えてきましたね」
「そう、でしょうか?」
「ええ。私からすると、以前のように明るい表情が見られるようになったと思います」
「自分じゃ、あんまりわからなくて」
「きっともうすぐ普通の生活に戻れるはずですよ」
「あなたがそう仰るのなら、そうかもしれませんね」

 『黒岩さん』と呼ばれた男は柔和な笑みで彼女と話をしていた。終始物腰柔らかな態度に、事件の被害者であった彼女も次第に心を許すようになった。初めの頃は当時の出来事がフラッシュバックしてしまい、精神的に取り乱してしまうことも多かったが、黒岩による定期的な訪問の甲斐もあり、今では滅多に取り乱すことはなくなった。そう言った理由もあり、彼女は今でも黒岩の訪問を突っぱねることなく、受け入れている状況だった。

「本当はね、門前払いされると思っていたんです」

 黒岩は手元に置かれたカップを片手に彼女、なまえへと話を続ける。どこか申し訳なさそうな目を伏せ、痛々しい胸の内を明かしていく。

「もっと早くに駆け付けていれば、みょうじさんが怖い思いをしなくて済んだのかもしれない、と」
「そんな、気になさらないでください。黒岩さんが駆けつけてくれたから、私は今もこうしていられるんです」
「ありがとうございます。ですが、自分の不甲斐なさを痛感した事件でもありましてね」
「いえ、黒岩さんは犯人がナイフを持っている危険な場面から、私を助けてくれました」

 ですから、そんなこと言わないでください。私からすれば、感謝しても足りないくらいなんです。
 なまえの言葉に強ばっていた表情を崩し、微かに口元に笑みを浮かべる。その笑みを見たなまえも切なさを忘れ、微笑んだ。

「すみません。本職の刑事でありながら、甘えたようなことを」
「そういう時もありますよ。刑事さんだって、一人の人間なんですから」
「励ましに来ているつもりが、励まされるなんてお恥ずかしい話です」
「ふふ、黒岩さんのそういうところ初めて見ました」
「どうか他には内密に。……あまり良い話ではないので」
「他の方はここになんて来ませんから、大丈夫ですよ」

 あ、あの、皮肉とかじゃないですからね……!と自らの口元を押さえて弁解し始める彼女に、遂に黒岩も破顔する。限られた僅かな時間を心地良い時間に変えてくれるのは、いつも彼女だ。これではどちらが精神的な支援をしているのか、分からなくなる。しかし、彼女だけがこうして自分を出迎えてくれる現状に満たされているところはあった。

 彼女との出会いは、何気なく立ち寄ったカフェでのことだった。事件が起きる三ヶ月前、そのカフェでなまえと出会った。その時も彼女はレジに立っており、伝票処理に手間取っていたのを今でも覚えている。働いてまだ日が浅いと謝罪をされたのが印象的だった。それから、彼女のいるカフェに立ち寄る度に簡単な会話をするような関係になっていた。初めの頃の不手際を再度詫び、コーヒーをサービスでつけてくれた時もあった。そんな些細なことがきっかけで二人は親しい従業員と客という位置に落ち着いていたのだ。

「黒岩さんだけです。こんなに親身になってくれる方は」
「私も本当なら犯人に罪を償わせてやりたかった。みょうじさんや被害に遭われたお店の為にも」

 ですが、果たせなかった。それを思うと、刑事である私がみょうじさん達を蔑ろにするのは間違っている。そんな気がして。
 苦悶に満ちた表情を目にした彼女はすかさず黒岩の傍にやって来ると、何も持たない手をぎゅっと握り締めた。私、来月からまたお店に戻るんです。と彼女は前向きな瞳でこちらを見つめている。私をここまで大切に扱ってくれたのも黒岩さんだけです。と今にも泣き出しそうな瞳が揺れていた。黒岩は何を言うでもなく、彼女が泣き出してしまう前に小さな体を抱き締めた。言葉も何も無い時間だったが、今までで一番かけがえのない時間だったような気がした。


***


 それから黒岩はなまえと別れ、無人の住宅街を一人で歩いていた。別れ際の後ろ髪を引かれる思いは何度味わっても辛いものだと、ため息を逃がしながら。しかし、ため息を吐いておきながら、その表情は酷く冷めており、なまえの前で見せていた柔和な表情は鳴りを潜めていた。
 黒岩の中で多くの割合を占める人物がいる。それはあの事件の被害者である『彼女』だ。正直、偶然入った店で彼女と親しくなれるとは考えもしていなかった。そもそもが視界にすら入っていなかったのだから。だが、人間という生き物は不思議なもので、自分に良くしてくれる相手のことを次第に好意的に捉えてしまう。初めは彼女がそうだと思っていた。けれど、日が経つにつれ、彼女と似た感情を抱いている自分に気付かされた。そのような状況に陥った場合、次に何をするのが人間的だろうか。

 半月ほど前に起きた事件。犯人は神室町で軽犯罪を繰り返していた半グレ一味の一人だ。特に組織の末端に所属する彼が何故、今回の犯行を企てたのか。それは、単純に手引きした人間がいたのだ。この事実は自分以外の人間は知らない情報だ。秘密裏に捜査した訳じゃない。初めから知っていた。初めから、あのカフェで彼女が人質にされると、知っていたのだ。
 先述の問いだが、自分自身が他者に好意を抱いた時、大体の人間が相手に意識してもらいたいとアプローチを仕掛けるだろう。黒岩にとって、そのアプローチがカフェで起きた強盗事件だった。至極真っ当に好意を積み重ねることも容易かったが、その間に他者につけ入られては困ると判断したが故の選択だ。酷く冷めた顔をしているくせに、その内心の満たされ様は異常とも言える程だった。


『な、何で……っ!オレはアンタに言われた通りにしてたのに……!それで、今までのことはチャラにしてやるって…………!』

 事件の全貌を知っている人間は自分だけである。それが意味するのは、犯人の最期を知っているのも自分だけということである。遺体には酷い暴行の痕跡が残っていた。だが、凶器は見つかっておらず、更にその暴行を目撃していた人間もいない。黒岩は不気味に口元を歪ませる。
 今回も楽な案件だった。相手が甲斐性なしだったことも加えて、普段から世間様に迷惑をかけているグループの一人だったのだから、粗探しをする物好きもいない。ほんの少し手加減をしていたのに、呆気なく死んでしまった。本当に時間のかからない相手で助かったと、歪んだ口元をゆっくりと真一文字に結ぶ。

 実は強盗犯から彼女を保護した時、彼女の頬は赤く腫れていた。これは想定外の不都合で、恐らくなまえが抵抗した際に、犯人が手を出したのだろうと理解した。だが、それが非常に腹立たしかった。言われた通りに事を運んでいれば良いものを、彼女に暴行を加えたという事実が黒岩の逆鱗に触れてしまった。だからこそ、相手が虫の息になるまで肉体的に追い詰め、最終的に殴り殺してしまったのだ。何度も何度も拳を顔面の肉に、骨に捩じ込んだ。鼻や口からはとめどなく血が溢れていた。

「でも、あの子の方がよっぽど怖くて、辛い目に遭ってたよなあ?」

 そうだろ?なあ?と返事を待たずに硬い拳の骨で顔面を砕いていく。その時、既に返事はなかった。ただ自分の気が済むまで、あの子の為にと意識も命もない肉体を痛め付けていた。後の始末は慣れたものだった。徹底的に不自然な箇所を消して激しい暴行の末の死を偽装する。そして、遺体はあまり人目のつかない所へ破棄し、日がそれなりに経った頃合いを見て、と事件の収束すら思い描いた通りになっていった。そして、望んだ結果が待っていた。

 彼女が自分だけだと口にする度、異様なほど高揚感に包まれる。何せ、自分は彼女の命の恩人だ。こちらへと向けられる眼差しも心地良い。彼女の為に払った犠牲もこれで報われ、背徳感が心を満たしていく。優しい声色で接すれば、彼女は黒岩が心底欲していた言葉を与えてくれる。それが酷く愛おしい。彼女の中には自分がおり、自分の中にも彼女がいる。もどかしい均衡が崩れる日は、そう遠くないだろう。その時にやっと、この穏やかで満ち満ちた胸の内を明かすのだ。この世は案外、童話のように容易く運命が用意されているのかもしれないと思うと、馬鹿馬鹿しくて笑みが溢れた。



| 予定調和 |


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