ほんの数分前、同じ店で働く先輩から連絡を受けて、職場であるシャルルへとやって来た。数日前に今日は休んでいいと言われ、休みをもらっていたのだが、先輩の口調や店の事情を知ってしまっては居ても立ってもいられなかった。地下一階へ続く階段を駆け抜け、入口に差し掛かったところで全てを悟った。
ガラス扉の向こうにある店内は酷く荒らされ、ここで何があったのかを物語っていた。恐る恐る扉を開け、中へと入るとすぐ近くの床に座り込んでいる人物がいた。その人は自分の雇い主であり、今日は休むように言いつけた人物だった。
「……みょうじ。お前、何でここに」
「さっき連絡があったんです。店で喧嘩騒ぎがあって、東さんが怪我してるって」
小さく舌打ちが聞こえたが、なまえの意識は荒れた店内と彼の痛々しい顔に向けられていた。殴られた、のだろう。赤と紫が斑に浮かび上がっている頬は内出血のそれで、口の端からも僅かに血が滲んでいる。すると、途端に体が強ばって動かなくなってしまった。日常だった場所が暴力によって非日常に塗り替えられてしまったからだ。怖い。彼の身に起こった出来事も、荒れているこの店内で起こった諍いも。カラーレンズの奥の瞳が自分自身を責めているように見えた時、なまえはやっと動けるようになった。動かなくてはいけないと思った。彼の自責の理由の一つになりたくない。
「まずは手当てしますから、そこの椅子に座りましょう」
「いや、いい。帰ってくれ、片付けも俺がやっとく」
「ここまで来たら、私もやってから帰ります」
「今日は休みだろうが」
「そういう日もありますよ」
「……意地でも帰らねえって顔だな」
頷き、手を差し出せば、節々が赤らんだ手が重ねられる。しっかりと握り締め、体を引っ張り起こしてやれば、少しふらつきはしたものの、大きな怪我はなさそうだった。なまえは控室に置かれている救急箱を持ち出すと、東のすぐ傍にある椅子に箱を置き、蓋を開ける。素人ではあるが、肌に付着した血を落としたいのと傷口の消毒だけでも済ませておきたい。濡れたタオル、消毒液、脱脂綿、ピンセットを慣れぬ手つきで用意し、まずはタオルを肌に当てがった。
「体は大丈夫なんですか」
「ああ」
「よかった、あまり酷い怪我じゃなくて」
「そうだな」
当てがったタオルの先端が徐々に赤く染まっていく。少しずつ元通りに綺麗になっていく肌に、なまえも少しずつ落ち着きを取り戻していた。顔に付着した血がタオルで優しく拭き取られていくと、自分の抱いた不安も薄れていくようで。翳る瞳を見ないふりしては、早くこんな時間が終わってしまえばいいのにと苦い思いを抱えていた。弱い。今、ここに流れている時間は弱味をまざまざと見せつけてくるような嫌味な時間なのだ。仕方ないという便利な言葉のおかげで面倒事の殆どは鳴りを潜めている。しかし、今だけはそんな便利な言葉を使って欲しくも、使いたくもなかった。
「次、傷の消毒しますね」
「悪い」
脱脂綿に消毒液を振りかけ、ピンセットでつまみ上げると、痛々しい暴力の痕跡にそれを重ねた。時折、消毒液が染みて痛いという反応をする東に、ごめんなさいと大丈夫ですか?を口にしては素っ気なく大丈夫だと返される。早くこの怪我が治りますように。早くこの痛々しい時間が過ぎ去ってくれますように。早く元通りに戻りますように。祈るようになまえは怪我の消毒を進めていった。そして、全ての処置を終えたなまえは東を控え室で休ませようと思ったのだが、当の本人がそれを断固として拒否する。
「みょうじにだけ片付けさせる訳にはいかねぇだろ」
「でも、東さん怪我してますし、体だって……」
「気にすんな。こんなもん、ほっときゃ治る」
「大丈夫ですから。私にやらせてください」
無理に笑って見せた。平気であると、気にしていないのだと。本当は胸の内に悲しみが渦を巻いており、余裕も欠片すらないほど消耗し切っていた。だが、彼がもし何らかの責任のようなものを感じているのだとしたら、それを払拭したい。ただそれだけだった。すると、彼は黙り込んだ後、分かったとだけ言い残し、再び椅子に腰かけた。
「悪いな、てんで使い物にならなくて」
「さっき、」
「あ?」
「さっき、ほっときゃ治るって言ってましたよね」
もう限界だった。これ以上は堪えられなかった。弱いが故に本音を告げようとすると、涙が溢れた。昔からの悪い癖だ。
「そうやって自分を蔑ろにしないでください。ほっときゃ治る怪我も、いつかはそうじゃなくなるかもしれない」
その日が来てしまったら、私は酷く後悔すると思うんです。まつ毛の間を大きな水の塊がぼろっと崩れるように落ちていく。声が震えていると唇を噛む。彼は自分が涙していることに驚いているようで、レンズ越しの瞳が微かに揺れている。
「私、ここが好きなんです。ここに来る人も、ここに居る人も」
なまえがここで働くことになったのは偶然だった。いや、とある人物の計らいがあって、シャルルで働くことになった。本当は足りているくせに人手が足りないから、強面の男ばっかじゃ客が怖がるからと理由をつけて、ここに自分の居場所を用意してくれた人物がいた。その人のことを考えると、この状況はとても苦しく辛いだけのものだった。
「だから、そんなこと言わないでください」
止まらぬ涙を急いで手の甲で拭った。何度も何度も、拭う度に次のそれが溢れて落ちていく。本当は知っている、何もかもを。その人物だけじゃなく、ここの店員も、ここにやってくるそれらしい風貌の男達も全員、ヤクザの人間だと。それでも自分に対して気を遣って接してくれていることも。彼が不定期で休みをくれるのは、危険から遠ざけるためだと言うことも分かっている。自分を取り巻く環境は全て彼の優しさで出来ていて、いつだってあの腕の中で守られていた。
「泣くな、泣くなよ」
その声はとても身近なところから聞こえてくる。顔は見えない。抱き寄せられていたからだ。胸が詰まって言葉が出て来ない。見上げようとすれば、頭に手を回され、優しく引き寄せられた。そして、繰り返し頭を撫でては、泣くんじゃねえ。と静かに口にした。腕だって回していいのか分からない。このまま縋り付いていいのかさえも。なまえがどうすればいいか分からないでいると、引き寄せたくせに、彼も遂にどうしようもなくなってしまったようで静かに呟く。
「……ひっぱたいたっていいんだぜ、俺もそれくらいは腹括ってんだ」
「……しません、そんなこと」
「ったく、まだ泣いてんじゃねえか」
「だ、だって……」
あの指先が頬に触れ、親指で涙を拭っていく。すると、今度は酷く申し訳なさそうな声でこう言った。悪いな、泣かせちまって。心配だったんだろ、店や俺もこんな状態だって聞かされて。まるで心の内を読まれているかのように、必要な言葉が与えられたような気がした。決して知るはずない、行き場のない感情を見つめているような。
「私、東さんに何かあったらって、ここがなくなっちゃったらどうしようって思って来ました」
「そうか」
「それぐらいこのお店も、東さんもとても大切なんです」
「……そうか」
「だから、東さん、」
また今度も危ない目にあったら、遠慮なんてしないで、すぐに呼んでください。そうしたら、私いつだってすぐにやって来ますから。
涙混じりの声だった。揺らいでばかりの声音だった。それでも、今言わなければいけないことのように感じられて、少しずつ心の欠片を吐き出していった。彼はどんな気持ちで聞いてくれていたことだろう。彼はどんな面持ちで聞いてくれていたことだろう。人ひとりの顔も見上げられない弱さに打ちひしがれていた。
「なあ、」
すると、突然切羽詰まった声が聞こえてきた。か細い声で返事をすれば、次の言葉も同様に返ってくる。僅かに切ない匂いがした。
「……やっぱ、一発くらいは殴っといた方がいいぜ」
その言葉の意味は後から理解出来た。背に回された腕、肩にかかる些細な重み、より近くに感じる誰かの体温。鼻を掠めた切ない匂いに手を引かれたのかもしれない。彼も、自分も。縋り付きたかったのはどちらも同じだった。同じだったからこそ、ようやく彼を抱き締め返せたのかもしれない。
この街では、不意に傷付いても喧騒に紛れて消えてしまうだけだ。だが、出来るのなら喧騒に紛れてしまうその手を握っていられるような人でありたいとも強く思う。優し過ぎる人間にこの街は決して優しくない。
| 無知がこの首を締めるのなら |back