辺りは夜闇に包まれた静寂時。町では道端に置かれた行灯や店の軒先にぶら下がるいくつもの提灯が夜闇を照らす。冬と呼ばれる季節は日が沈むのが早い。冷ややかな風に耳を、頬を、鼻先を冷やしながら、道行く人々を追い越し、町を抜け、一人薄暗い夜道を急ぎ足で歩いて行く。橙色だった空も今ではすっかり夜の顔をしており、なまえは白く息を千切りつつ、帰路を急いでいる。
出先の用事がこれほどまでに長引くとは思っておらず、草履が土を踏み締める度に聞こえる音はやはりどこか忙しない。冷たく吹く風の中を進んで行けば、もう直に家に着く。場所は伏見、住処は町から少し外れた所にあり、次の角さえ曲がってしまえばこの足も多少は落ち着くことだろう。
「もうここまで来れば、駆け足やなくてもええね、」
この角の先にはまた一本の道がある。道端には密やかに伸びる雑草と誰の邪魔にもならない小石、そして静かに地蔵が佇んでいる。虫の音すら聞こえないその道でなまえは足を止めた。今日の自分が無事に家へ帰れたことに対して、手を合わせておきたかったのだ。
近頃の京は物騒だと皆が口を揃えて噂している。自分の都合で他者を脅かす不逞浪士、過激な思想を抱く勤王浪士。それら浪士達をいとも容易く斬り捨てる新選組。最近は人斬りと呼ばれる者まで現れ、京は美しくも恐ろしい町へと変わってしまった。
「今日は買い出しやないから、たくさんは供えられへんのやけど、堪忍してな」
なまえの手には一つの風呂敷包みが握られていた。その結び目を解き、ゆるゆると風呂敷を広げていくと中からつやつやと光る橙色の丸いものがごろごろと並んでいた。艶やかな橙は皮、深緑は小さなヘタ。その実は甘酸っぱく、白いスジごと食べられるそれは。
「お蜜柑。よく行く八百屋さんが持たせてくれたんです。そのおかげで、こうしてお地蔵様にもお裾分け出来るんやから、ほんまにありがたいことやわ」
風呂敷から取り出した蜜柑を供えると、なまえは手を合わせ、目を閉じる。自身も静寂の一部となりて、夜の闇に意図せず紛れていた。目を閉じれば視界は闇に包まれ、聴覚が研ぎ澄まされていく。本来なら拾うことのない音をなまえの耳は聞いていた。静寂に馴染めない慌ただしい足音、それはこの道のどこかにあり、何を考えているのかまでは分からない。
「だ、誰かおるん……?」
不安に駆られ、なまえはその場で立ち上がり、辺りを見渡した。不穏な人影はなく、自身の問い掛けへの返事すらない。気のせい、やろか……?と心細さに独り言を零す。今まで静かだった風景が変化し始めていた。冷たく吹く風の音は何かの足音を隠し、灯りのない道の闇が深ければ深いほど恐怖を煽り、たった一人でこの夜道に立っていることに恐ろしさを覚えた。
なまえが目に見えぬ何かに怯えている頃、それは遂に姿を表す。砂利を踏む音が次第に大きくなり、なまえとその何かの距離が縮まっていると悟る。家屋と家屋の細い裏道から、漂う闇から這い出でるように姿を見せたのは、黒い着物を身に付けた男だった。腰に刀を差した、異様な恰好の男の目がこちらを刺す。
「なんや、変わった恰好のお侍様やね……」
男は依然として黙り込んだままだった。口元に寡黙さを匂わせ、こちらを見ている。少しの間、貫く視線に刺されていると、男はようやく口を開いた。
「……おまんはただの通りすがりやき、こがな場所でわしを見ちょったことは忘れるが身の為ぜよ」
京では聞きなれない訛りだった。なまえが男の言葉の意味を理解しようと返事がおざなりになっているのを良いことに、男は目前から消えようとしていた。すると、突然どこからか殺気に満ちた大声が響く。何人、何十人もの人間の足音を連れて何かを必死に探している。そんな物々しい大声がなまえの意識を奪い、男の足を止めさせた。
「……まっことやかましい連中じゃ、」
チッ、と舌打ちを一つ。この黒ずくめの男は追われている身なのだと理解する。確かに浪士相手に新選組は容赦をしない。疑わしければ斬る、疑わしくなくとも斬る。それが新選組だ。例え相手が新選組でなくとも、大人数で囲まれてしまえば、この男は命を落とすことになる。男はなまえをただの通りすがりと言っていたが、なまえにとって男はただの通りすがりではない。
「……お侍様、追われとるんやろ?せやったら、こっち来たってください」
「そげなことをして、おまんに一体何の得が?」
「得なんてものは何も。……ただ、ここで会ったのも何かの縁や思て」
「縁?」
「せや。それに丁度ええとこ知ってます。あまり綺麗な場所やないけど、」
お侍様がええなら、案内します。なまえの言葉に瞬きを返した。なまえはそれを良しと判断し、急いで包みをきつく結ぶと、空いている手で男の手を掴んで足早にその場を去った。向かう場所は初めから一つである。この一本道の先にある自分の住処へ、なまえは男と共に駆け出す。
***
入口の戸は静かに閉められる。辺りを窺う瞳はもうやめにして、なまえは何食わぬ顔で戸を閉めた。戸の内にはなまえの他に黒い着物の男の姿もある。男は灯りのない室内で履き物も脱がず、畳の縁に腰掛けていた。横顔は相変わらず無愛想で恐ろしいままなのが難点だが、なまえは安堵から男の隣に腰掛ける。膝の上に蜜柑が包まれたあの風呂敷を置き、また結び目を解く。
「お侍様も良ければ一つ、」
蜜柑は再びなまえの手の内にあった。男へ差し出せば、いらん。と返され、貰い手のない蜜柑を逆さまにひっくり返し、自分で食べてしまおうと橙の皮を剥く。蜜柑の皮はやがて花となる。それは花びらのように開かれ、千切れることなく、橙の花を咲かせる。
「これなら、食べてくれるやろか」
「……何を考えちょる。おまんがわしを助けたところで何になるがじゃ、」
「見て見ぬふりが出来んかっただけです。私はあそこでお地蔵様に手、合わせとったんよ。お地蔵様の前で見て見ぬふりなんてしてもうたら、私バチが当たるわ」
「地蔵に祈った手前やき、わしをここに連れて来ちょった、と」
男の問いに頷いて答える。手のひらに咲く橙の花の実は一つ減っていた。既に剥いてしまったのだ、食べてやらねば、無駄咲きで終わってしまう。口に広がる甘酸っぱい味に次の一つを含む。こんなに美味しい蜜柑を一人で食べているのが、どうにも勿体なくて、なまえはもう一度だけ訊ねた。おひとついかがです?と。男は帯びた刀を畳に寝かせてから、もう一度眼光鋭いままになまえを見た。
その刹那、背中に衝撃が走る。驚きに瞑っていた目を開けば、なまえの視界には暗色の天井が見えた。そして、男のこちらを見下ろす姿が見え、自分が押し倒されたことに気付く。手の内の蜜柑はどこかへ落としてしまった。
「……わしがおまんを襲わんと思っちょったがか?」
下腹部に圧迫感を覚えたのは、横たわる自分に男の声が降り注ぐのと同時だった。黒鉄色の瞳が降る視界で男は前屈みに畳へ手を付いた。なまえに覆い被さるような姿勢で淡々と話を続ける。なまえの動揺や怯えは一切関係ないと言うように。
「……男は斬り捨て、女ならただでは殺さん。丁度わしも女には飢えとったき、」
そう簡単にはおまんを殺さんぜよ。男の声が重く低く鼓膜に響き、戦慄する。遂に刺す瞳のその理由を覗く。あの目が冷たく鋭いのは、両の目の黒鉄から漂う殺気のせいなのだと。殺気から逃れるように、これから行われる仕打ちを知りたくないと目を瞑れば、男の胸元を精一杯、力の限りに叩き続けた。虚しい抵抗であった。男がそれを目障りに思えば、なまえの両手を掴み、畳へと押さえ付ける。
「お、お侍様……!」
「どうじゃ、恩を仇で返される気分は?」
「……とても、恐ろしゅうてかないません。せやから、お侍様、どうか、」
懇願、後に失せる。自分に重なる影と男の気配、そして腹部の圧迫感。それら全てがなまえの上から引いていく。恐る恐る目を開ければ、男の姿は自分の上にはない。急いで体を起こし、視界の隅で刀を抱えている彼を見た。剥奪されてしまうのだと思っていた、あのように押し倒され、抵抗すら意味を成さない状況下では。
「……お侍様、御容赦くださり、……ありがとうございます、」
「わしには見ず知らずの女を手篭めにする趣味などないきに、」
「せやったら、なんで……、」
「……こげなこと、まさか想像しとらんかったがか?だとしたら、……随分とおめでたい女じゃ」
冷淡に吐き出された言葉は鋭利的ではあったが、無性に腹立つことも、悲しくなることもなかった。なまえは少しだけ乱れた着物を直し、押し倒された弾みで畳の上に散らばった蜜柑を拾い集めた。集めたそれらはまた風呂敷の中へ戻り、きゅっと口を結んでおく。そして適当な所に置き、畳の端に座り、背中を丸くなった男を見た。石のように動かないその背中に何かを添えてやりたいと、箪笥から丹前を引っ張り出し、真っ黒な背中にそっと被せた。
本当は、……いらん。と止められるものだと思っていたが、密かに顔を覗き込めば、そこに答えがあった。黒鉄は閉ざされ、静かな寝息を立てている。刀を懐に抱いたまま、男は眠っていた。険しい顔をする男だが、こうして眠っている様を見ると自分と何ら変わらない一人の人間なのだと思えた。
「……ほんまは、ようわからん人間を匿ったらあかんて、教えてくれはったんやろ、」
おやすみなさい。そう言い添えてなまえは男の傍を離れた。背中に掛けられた丹前をより深く羽織ろうと手繰り寄せる男の行動に気付きもしないまま。
***
冬の日の朝。白い靄、仄かに暖かい朝の光、ひんやりとした空気がゆっくりと充満する居間でなまえは目を覚ます。布団も敷かずに眠ってしまった体は固く、しかし、昨日は、と思い出したところで男の姿を探した。よく見てみれば、彼に掛けた筈の丹前が自分に掛けられている。
きっと先に出たのだろう。朝靄の中を彼はまた一人で紛れて消えたのだ。彼は、あの男は決して良い人間ではない。分かっていた、関わるべき人間でないことも。それでも、放っておけなかった。
「……こういうところが良くないって、昨日教わったばっかりなんやけどねぇ、」
朝日を浴びようと入口の戸を開け、徐々に温もりを失いながらも身を光に当てる。深呼吸、ささやかな日光浴、漂う冷たい空気。そのどれにも朝特有のすっきりとした気持ち良さがある。人の目を気にせず、思い切り背伸びをすれば、凝り固まった疲労が体から抜け出ていくようで。新しい今日の日の始まりを確かめ、家屋に戻ろうとした時だった。
コツン、と足先に触れる冷たくて固いものがあった。咄嗟に足元を見れば、見慣れない瓶が一つ置かれている。白い陶器の酒瓶を手に取ると、中からちゃぽん、と液体の動く音がした。そして瓶に描かれた土佐と言う文字になまえはあの男を知る。
「……あの人、土佐の人。せやけど、私ひとりでこないに飲めへんわ。どうしたらええやろか、」
ため息の寸前、不意に閃く。自分も美味しくいただくつもりだが、その前にこの酒を飲ませなければならない相手がいると。なまえは瓶を抱えたまま、男と初めて出会った場所へと向かう。地蔵の佇む一本道へと。
草履の音は一つ、酒瓶を抱えた女は一人、道に佇む地蔵も一つ。なまえは手や足先が冷えるのもお構い無しに、あの道へとやって来た。日の当たる場所も徐々に広がっている、町はもう直に活気に溢れることだろう。働き者の町人や元気な子供達の声で。ちゃぽん、ちゃぽん、と揺れる酒瓶を手になまえはようやくその場でしゃがみ込む。供えた蜜柑はそのまま残っており、あとは小さな小皿が空っぽのまま置かれていた。
「お地蔵様、これはきっとおいしいお酒です。一口召し上がってください」
小皿に酒を注ぐ。そして手を合わせ、目を閉じた。胸いっぱいに朝の空気を吸い込みながら、ひんやりとした暗闇に祈る。
「……おまんはまっことおかしな女じゃ。わしなら勿体のうて地蔵にはやらん」
「私はお侍様のことはよう知りまへん。けど、お侍様も私のことはよう知らんやろ?」
「知る必要がないき、」
「ほんなら、次は教えてくださるやろか」
"このお酒には何がよう合うんです?"
瞑っていた目を開き、その場に立つ。辺りは相変わらず白い靄に包まれており、そこにあの男の姿はなかった。地蔵の傍に置いた酒瓶を再び抱えると、なまえは朝靄の中へと消えて行った。
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