「八神探偵事務所はこちらで間違いないですか?」

 突然、耳に入ってきたのは男の丁寧で柔らかそうな声だった。入口にはスーツを着た男が首を傾げて立っている。咄嗟に依頼人だと思った、このような場所に来るのは大抵何か困り事を抱えた人間ばかりだからだ。

「はい。今、八神は不在ですが、よければ掛けてください」
「ここの探偵さんは多忙なようだ」
「ええ、最近はありがたいことに依頼が多くて」
「そうですか。それは何よりですね」

 では。と近くのソファーに腰掛けた男へ、お菓子や飲み物の用意を始めると、お構いなく。今日は少しお話がしたかっただけですから。と言われ、なまえは男の正面にある椅子に腰掛けた。

「お話とは、八神にでしょうか」
「ええ、まあ、そのつもりだったんですが、」
「どう言ったご依頼でしょう?差し支えなければ、私の方から八神に申し伝えておきますが」
「ああ、良いんです。大した話でもないので」

 男は事務所をゆっくりと見回すと、最後になまえの目をしっかりと見つめて、ここの探偵さんは良い趣味をされてますね。と口にした。確かにここの内装や飾ってあるものは皆、ヴィンテージ感があり、どことなく洒落た雰囲気を放っている。特に八神の好きそうな空間であることは一目瞭然だ。

「はい。私もここで働かせてもらってますが、こんなにお洒落な職場は初めてです」
「あなたも探偵業を?」
「いえ、どちらかと言うと事務業務の方を」
「そうでしたか。確かに危険な場面が多いご職業ですからね、探偵も」
「全く同じことを言われました、ふふ」

 まさか同じ言葉を聞くとは思わず、口元が緩んでいく。男も終始物腰柔らかな口調で、気付けば他愛もない話ばかりをしてしまっていた。急いで話題を戻そうとすれば、構いませんよ。と更に気遣われ、恥ずかしさに顔が熱くなる。しかし、男は涼しげな顔でこちらを見つめていた。これがなまえと、とある男の出会いである。


***


 その日、八神の姿は事務所にあった。常に無言で重苦しい雰囲気を漂わせながら、椅子にかけるでもなく、佇んでいる。三日ほど前から、ある従業員と連絡が取れなくなっており、彼女の痕跡がないかと事務所内を見て回っていた。もう何度、それを見つけようとしたことか。しかし、現実は彼女の居場所を簡単には教えてくれない。だからと言って、諦める訳にはいかなかった。彼女も八神にとっては大切な同僚なのだから。
 何故、連絡がつかなくなってしまったのかは検討もつかない。神室町に事務所を構えていると、嫌でも不吉な想像をしてしまう。何らかの事件に巻き込まれたのではないか。この街では日常的に大なり小なり事件が起きている。もし、そうであるなら、と暗い想像に走ろうとした思考を振り切る。そんなはずは無い、大丈夫だと根拠の無い励ましを呪文のように唱えながら、八神は消えてしまった従業員である、みょうじなまえのことを探し続けていた。

 すると、不意に扉が開く音が聞こえ、反射的に振り返れば、そこには探していた彼女ではなく、威圧感を放つあの男が立っていた。ここ最近、何かと接触の多いその男は不敵な笑みを浮かべて、無断で中へと入ってきた。途端に空気が張り詰め、八神も眉間に皺を寄せる。あからさまな態度の変化に男は歯を見せて笑っていた。

「よぉ、八神。相変わらず、シケた面してんなあ」
「ここに何の用だよ、警察ってのはそんなに暇なのか」
「お前の安い挑発に乗ると思うか?」
「どうせアンタのことだ、乗らねぇだろうよ」
「分かってんじゃねぇか」

 はは、と軽い笑みを挟みながら、自分勝手にソファーに腰掛ける男のことを八神は睨み付けていた。他人の神経を逆撫でしておきながら、自分は飄々としているのだから気に食わない。特に今は余裕がないことも相まっていた。彼女の手がかりを探すことに躍起になっている日々だ。恐らく、彼女の話も既に知っているのだろう。この男も警察関係者なのだから。


「そういや、お前のところの従業員が一人居なくなったんだってな?」
「……なんで、そんなこと組対の黒岩さんが知ってんすか」
「そりゃあ、日頃から世話になってる八神探偵事務所のことだ。俺が知ってたっておかしくねえだろ」
「それで彼女は見つかったのか」
「さあね、俺の担当じゃねぇんだ」

 背もたれに深く体を預け、こちらの様子を窺っている男に酷い怒りを覚えた。事の顛末を知っているくせに、何も明かそうとはしないその態度に拳を握り締める。分かり切っていた、相手がそんなに優しい人間ではないと。だが、彼女のことに関してはなりふり構ってられなかった。この街に精通していて、行方不明者の情報を一番早く掴める組織の人間だからと、藁にもすがる思いで打ち明けたのに。

「偉くご執心じゃねえか、お前」
「当たり前だろ、ウチの大切な従業員が居なくなってんだぞ」
「……随分と上司思いの良い子だったってか、その彼女。俺んとこにも欲しいくらいだよ」
「俺のこと、引っ掻き回しに来たんなら帰ってもらえます?」
「嫌になっちまったんじゃねぇか?過去に殺人鬼を野放しにした奴の下で働くのが」

 俺ならとっくに辞めてるね。と皮肉めいた言葉だけに留まらず、遂には何かを閃いたかのように口を開く。

「もしかして、お前やっちまったか?あの弁護士の先生みてえによ」

 ま、証拠さえ出てくりゃあ、全部分かることだ。だよな、八神?と黒岩の鋭い瞳がせせら笑っている。何を考えているのか読ませない程に暗く、深く、それは眼光を放っていた。この男からは常に嫌な何かを感じ取っていたが、この時遂にそれが気のせいではないと知る。激昂するべきだった。しかし、目の前の男の得体の知れなさに畏怖してもいた。
 静まり返る事務所の沈黙が体に突き刺さる。八神も黒岩もただ視線をぶつけ合うだけで、何も口にはしなかった。八神は沈黙と黒岩から放たれる威圧に喉を潰されていたが、果たして黒岩はどうだったのだろうか。これ以上は時間の無駄だと言うように席を立ったのは黒岩だった。

「最近は何かと物騒な事件ばっか起こってるからな、気を付けねえと。俺も、お前も」
「……ご心配どうも」
「その子も今流行りの『モグラ』ってのに引き摺り込まれてねえといいがな」

 じゃねえと、今度はひでぇもん見る羽目になるぞ。と癪に障るような笑みで事務所を出て行こうとした。だが、黒岩はドアノブに手を掛けると立ち止まり、最後にこう言い残した。

「そんなに大切な従業員なら、ちゃんと首輪着けておくんだったな」

 じゃあな。と薄情な一言を挨拶に、ようやく黒岩は事務所から出て行った。好き勝手に掻き乱された静寂の中で八神は、自分の無力さに苛まれながらも、消えた彼女のことを忘れられなかった。


***


「神室町で殺人事件が多発しているのはご存知でしょうか」
「えっと、あの、……目を抉られてっていうやつですか」
「ええ。先日は八神さんの同僚だった、新谷弁護士が亡くなっています」
「……はい、知ってます」
「そこであなたのことについて、八神さんから相談を受けまして」

 この会話が交わされたのは、なまえが失踪する前日のことである。場所は八神探偵事務所、室内で話をしていたのはなまえと黒岩だった。神妙な面持ちで黒岩が彼女に持ちかけたのは、しばらくの間、雲隠れをする必要があるという話だった。彼女も黒岩の話を信じて疑わなかった。何故なら、あの八神の頼みであると言われてしまっては断る理由がなかったからだ。

「八神さんはあなたが次の標的になるのを危惧しています。そこで私の方に声がかかりましてね」
「確かにこんな状況なら、いつ狙われてもおかしくないとは思います」
「ヤツの尻尾すら掴めていない我々でも、あなたの身を守ることは出来る。ですから、当分の間は神室町を離れて、こちらで手配した場所に隠れていただきたい」


 彼女の返事は想像と違わなかった。それから、とんとん拍子に事が進んでいく様は、黒岩にとって気分のいいものだった。正直な話、例の件などどうでもいい。だが、彼女だけは違うと踏んでいた。これは被検体よりも価値のあるもので、特にあの目障りな奴から奪ってやりたかったのだ。彼奴はこれから先も見えぬ泥濘の中を手探りのまま、懸命に探し続けることだろう。八神の焦燥し切った顔が目に浮かんでは笑みと共に消える。
 さて、どうしてくれようか。と考える度に、愉快で仕方ないと喉を裂くように笑いが込み上げてくる。一度埋めた棺を掘り返す者など居はしない。彼女は既に暴けない場所へと連れ去ってしまったのだから。黒岩は神室町の人混みに紛れながら、やがて街の闇に溶けていった。



| 聖者の埋葬 |


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