みょうじなまえが八神の元を離れてから、一週間が経つ。その間にも黒岩はなまえと幾度となく接触していた。仕事終わりの遅い時間帯や生存確認を兼ねた顔出しと、彼女を自分の懐に置いている感覚に浸りたいが為の行動だ。いっそ八神に打ち明けてしまおうかとも考えることがある。お前が血眼になって探している女は今、俺が代わりに面倒を見てやっているのだと。
 黒岩も表向きでは真摯な刑事を演じてはいるが、なまえを匿った理由は八神に対する抑止力だった。いざと言う時の為の切り札として、真っ先に彼女を拘束し、後ろ手に隠したのだ。だからこそ、先日の焦燥し切った八神には心底愉快で堪らなかった。何故なら、自分の考えが何も間違ってはいないのだと証明された瞬間だったからだ。なまえの居場所を知っているのも、その部屋の合鍵を持っているのも自分だけ。可哀想に、と呟いた口元は酷く歪んでいた。


「まだ神室町では、あの事件が続いてるんですか」
「ええ、残念ながら」
「そうですか。黒岩さんは何か危ない目にあったりしていませんか?」
「神室町で警察をやっていると、自然と慣れてしまうようで」
「でも、用心だけはしてくださいね。黒岩さんが危ない目にあって悲しい思いをする人がいるはずですから」

 彼女の言葉に疑問を覚えた。果たして、本当にそうだろうか。この稼業についてからというもの、敵は増えていく一方で味方など存在しないものだと割り切っていた。役に立つのなら利用すればいいが、味方であっても邪魔になるようなら消すくらいにしか考えていなかった。それ故になまえの言葉に疑問を覚えたのだ。

「それはみょうじさんのことですか」
「え、あ、えっと、わたしは……、」
「違いますか?」
「……いえ、心配です。神室町にいる八神さんも、その、犯人を追っている黒岩さんのことも」

 本当は黒岩さんが毎日顔を見せに来てくれて嬉しいんです。今日も無事だったんだって分かりますから。
 やけに素直で馬鹿正直なことを言う女だと思った。普段から決して手の内や素性を明かすことのない黒岩からすると、容易く何もかもを明かすなまえは異質な存在でしかなかった。それ程までにみょうじなまえという女は黒岩を欺いたり、邪険にすることのない善良な一般市民だった。だが、その積み重ねが新しい心変わりを呼び起こしてしまうとは知る由もなく。いつしか黒岩はなまえのことを身近な存在として扱うようになった。そして、黒岩の思いと比例するようになまえも心境の変化を迎えていた。


 それは黒岩が八神と対峙し、惜しくも敗北した日の出来事だった。なまえは部屋を訪ねた黒岩の姿に驚きを隠せなかった。いつもとは違い、明らかに黒岩の様子がおかしいこと。そして、口の端にうっすらと血が滲んでいることに気付くと、急いで駆け寄る。何があったのかと問い掛ける声はか細く震えており、必死にこちらを見上げる瞳は今にも涙しそうだった。この時、黒岩も八神への怒りにかまけていたせいで、いつもの善人面した口調を忘れていた。

「関係ねえだろ、お前には」

 その一言になまえは言葉を失ったものの、何事もなかったかのように黒岩の手を取り、部屋へと連れていく。彼女の手は冷たく、小さく震えていた。

「痛かったんですよね、殴られて」
「ああ?」
「大変なお仕事だって、いつも思います」
「同情してんのか」
「そんなんじゃありません……!」

 なまえは振り返ると目に涙を溜めながら、黒岩を睨み返していた。初めて見る顔に黒岩も目を丸くする。唇を噛み、取り乱すまいと必死に自分の感情に歯止めをかけている姿に、二の句が続けられずにいた。それはなまえも同様で、涙交じりの呼吸音だけが部屋に響く。

「私、今物凄く腹が立ってるんです。こんな所で安穏としている自分に」

 胸の奥に引っかかっている何かを吐き出そうと、なまえは強く目を閉じ、俯いては唇を震わせた。

「……分かってます。私がいたところで何にもならないって。でも、私だって黒岩さんの為に何かしたいんです……!」

 だから、関係ないなんて言わないでください。と力なく発せられた言葉に、胸を切り付けられたような衝撃が走った。彼女の腕をほどけないのも、彼女の独白をくだらないと吐き捨てられないのも、自分の中で何かが起こっている以外に考えようがなかった。だが、同時にひとつ分かったことがある。八神が懸命になって彼女の痕跡を探していた理由だ。確かにここまで献身的である人間も珍しい。それなら尚のこと、八神の元へは帰せないとなまえの手首を掴んで、その指先を切れた口の端に触れさせた。

「ここは思いっきり殴られた。あと他にも何発かもらったよ」

 震える指先が何度も跳ねては、体に残る暴力の爪痕をなぞる。彼女は終始、怯えていた。今まで散々、他者の怯えた顔を目にする機会はあったが、今回ばかりはいつもと同じとはいかなかった。何かが傾倒していく、彼女の方へと。
 これは所謂、リマ症候群と呼ばれる現象だった。犯人が人質と長い時間を共に過ごすことで、いつしか人質に対して親近感を覚えるというものだ。確かにみょうじなまえを匿ったのは、八神を脅かす為だった。しかし、こうなってしまっては抑止力として利用するのではなく、自分の支えとして彼女を匿い続けるべきだと考えた。

「なあ、お前は不満じゃねえのか。こんな窮屈なとこで」
「それは私を危険から遠ざける為だって」
「もう一週間も経つ。そろそろ、ほとぼりだって冷めてるとは思わねえか?」
「それは、そうなんですけど……」
「じゃあ、何考えてんだ」
「こんなこと言うのも変な話ですけど、何だか黒岩さんって、その、放っておけなくて」

 耳を疑った。決して彼女には分かり得ない事情を自分だけが知ってるとは言え、彼女の言葉には虚を突かれてばかりだった。自身を放ってはおけないと言い切ったなまえの手を離すと、不安そうな瞳が次を待っていた。何か下手なことを言ってしまったのではないかと不安に揺れている瞳を射抜きながら、黒岩はなまえに近付いていった。何も言わず、ただ目だけは逸らさず、着実に距離を縮めていく。
 彼女の背中はやがて壁に接触し、その歩みも止まる。小柄な体格をすっぽりと覆うように自分の影が彼女と重なる。沈黙が辛いのだろう、彼女の動揺は瞬きの多さから見て取れた。気付けば、その姿に触発されていた。

 呼吸を止めるような、不格好なものだった。互いに目を開いているせいでムードもクソもない。先に目を伏せたのは顔を背けようとしたなまえで、それを逃がさなかったのは黒岩だった。恥じらいだろうと、嫌悪だろうと、逃がしてやるつもりはなかった。胸元を押し返す両手は弱々しい。試しに肉の隙間に舌先を滑り込ませてみれば、あれほどまでに距離を取りたがっていたのに今ではスーツを力一杯に掴んでいる。皺になっては困ると、片手だけでも壁際に押し付ければ、今度は身を捩りながら抵抗していた。

「これでも放っておけねぇってか」

 彼女のじっとりと濡れた唇は無口なままだった。ただ、酷く体が熱い。なまえの言葉の真偽を見極めようとした行為だが、思っていた以上に自分も毒されていたようだった。

「……放っておけないです。突然、こんなことをされて許せないですけど、きっと理由があるって」
「へぇ、寛大な心をお持ちで」

 なまえは口元を手の甲で隠しながら、するりと横を抜けていった。流石にもうそれ以上、追い詰めるなんて真似はせず、彼女の好きにさせてやろうと思った。しかし、未だに唇は焼けるように熱いままだ。彼女をこの腕の中に閉じ込めた時の感覚が皮膚に、目に、指先に留まり続けている。



| 愚者の妄執 |


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