「今日は悪かった」
薄暗い部屋で黒岩の声が響く。暗闇にまだ目が慣れていないせいか、黒岩の表情が読み取れない。しかし、不思議と視線はしっかりと相手を捉えているようで、なまえは口を噤む。強引であったことは決して許される行為ではない。だが、ことを荒立てるつもりもなかった。
「その言葉が聞けただけで充分です」
「……お前、本当にそれでいいのか?お人好しも程々にしとけ」
「初めはすごく怖かったです。でも、もう謝ってもらいましたから」
そう言い切ってしまえば、不思議と胸の奥に渦巻いていた不安や恐れが言葉と共に体から抜け出ていった。少しだけ暗闇に慣れた目が、こちらを見つめる黒岩の瞳を捉えていた。
***
壁際での接触の後、黒岩は時間の遅さや帰路の遠さを理由に、今夜はこの部屋で寝泊まりしていくと口にした。どちらも食事は済ませていたことから、就寝までの時間はあっという間に流れて行った。なまえはベッドへ、黒岩はリビングに置き去りのソファーへ。二人は寝床を分けて眠りについたはずだった。だが、やはりそう簡単には眠れはしなかった。寝返りを打ってばかり、閉ざした目をすぐに開いてばかりで、なまえは全く眠れなかったのだ。リビングにいる彼はもう眠ってしまっただろうか。今日触れた彼の怪我のことも、強引に迫られたことも忘れられない。
寝付けないことを理由になまえは台所の冷蔵庫の前に立っていた。なるべく音を立てぬように冷蔵庫を開け、中の水に手を伸ばせば。
「なんだ、眠れねえのか」
遠くから声が聞こえ、慌てて振り返ると黒岩が眠っているだろうソファーで何かが蠢いているのが見えた。
「まあ、眠れねえよなあ。そりゃあ」
自分に迫ってきた男が居たんじゃあな。と嘲笑混じりに黒岩は口を開く。確かに眠れなかったのは事実で、その理由に黒岩が関わっていることも間違いはない。だから、なまえは正直にそうだと答えた。暗闇の中で黒岩の乾いた笑いが聞こえてくる。
「黒岩さんも眠れないんですか」
「さあな、」
「お水、飲みますか」
「じゃあ、もらおうか」
冷蔵庫からペットボトルを二本手に取り、なまえはぼんやりと見えるリビングへと歩いて行った。まだこの目は黒岩の姿を捉えられてはいない。ソファーの近くに座り、テーブルにペットボトルを置けば、すぐにその一本は暗闇に紛れて消える。自分も後に続いて、ペットボトルの水を口に含んだ。冷たい水が口を伝って体内へと流れていく。眠れないのに変わりはないが、落ち着いた気持ちがあるのも確かだった。
「なあ、」
そして冒頭の通り、口を開いた黒岩はなまえに無理に迫った件について詫び、なまえもそれを許すことにした。誰にだって取り乱したり、普段人には見せないような態度を取ってしまう。それは仕方のないことだ。自分にだってそう言った過去や経験はあるのだから、と自分の中で納得出来る答えを用意してはいたのだ。だが、つまるところ、納得出来る答えがあったから彼を許した訳じゃなかった。本当はもっと単純で、浅はかで愚かなものだった。
この心臓には蔦が巻き付いている。初めて黒岩と出会った日に植え付けられた『種』が、徐々にその手を伸ばし、この心臓をゆっくりゆっくりと締め付けているのだ。黒岩の手によって匿われ、どれほど時間が経ってしまったのだろう。流れた時間の分だけ、この胸に埋められた『種』は育っていった。芽吹き、光を求めて腕を伸ばし続けている。それはまるで恋愛感情を抱いた人間そのもののように思えた。どんなに違うと自身に言い聞かせようとも、結局黒岩の顔を見てしまう度に現実を思い知らされていた。みょうじなまえは黒岩満に好意を抱いていると。
「今日の怪我は、誰にやられたんですか」
「それを知ってどうすんだ」
「……いえ、言いたくなければ、」
「アンタんとこの探偵にだよ」
静かに言い放たれた言葉が耳に突き刺さる。あの八神と対峙するなんて有り得ないことだ。よっぽどの事がなければ、あの人は ──── 。嫌な気配が背筋を伝っていく。八神という男の人柄はそれなりに知っているつもりだが、殴り合いに発展したということはこの黒岩も何か良からぬものを抱えている人間なのだろうか。しかし、頭は体とは裏腹に落ち着きを取り戻そうとしている。本当なら今すぐにでも逃げ出さなければならないと知っていながら。
「ここまで聞いて、逃げ出さねえってのはどういう考えだ?」
ソファーの布地が擦れる音がする。薄暗がりの中で距離を詰められているような気もする。声がより間近なところで発せられる。
「なんだ、おかしくなっちまったか?お前」
「わ、わたしも自分が変だって思います……。だって、黒岩さん、」
──── 八神さんの『敵』なんですよね……?
薄々、気付いてはいたことだった。一度も八神との連絡を許されなかったこと。八神の頼みだと言っておきながら、当の本人達は怪我を負う程度の殴り合いをしていたこと。そして、黒岩の目から滲んでいた執着を予期せず見てしまったこと。傍で誰かが笑いを噛み殺している。黒岩の名を呼ぼうとした瞬間、喉元にそっと何かが触れた。喉頭を軽く圧迫するそれは指だった。細いもんだな、女の首ってやつは。と低い声が聞こえる。
「それで、お前はどうすんだよ」
喉に引っかかる感覚が残ったままで口を開くと、黒岩は満足そうな声音で、そうか。と返した。首に巻き付くその手は未だに離れず、恐る恐る手を重ねてみれば、僅かに首が絞まった気がした。
***
現在、なまえの姿は神室町の八神探偵事務所にあった。少し前までは、例の警察の手配した場所で匿われていたのだが、神室町で多発した殺人事件の真犯人が亡くなったと聞き、なまえは八神達の元に帰ってきた。そして、現実は残酷な事件の詳細を矢継ぎ早に教えてくれた。この街で何が起こっていたのか。『モグラ』と呼ばれる殺人鬼の正体が誰であったのか。突き付けられた真実になまえは取り乱しはしなかった。その様子を皆が不思議がって見ていたが、やがて誰もが気に留めなくなっていった。また元の生活に戻れたのだ、前のように暇を持て余すような日常が始まると。
だが、なまえには一つだけ思い出せないことがあった。黒岩と共に過ごしていたあの部屋で、なまえは『祈り』をよく耳にしていた。『祈り』はいつも眠りと現実の狭間で聞こえてくる、酷く優しげな声だった。たった一度だけ、その内容を聞いた覚えがあるのだが、何故か思い出せない。今でも時折、それが夢に出てくることがある。だから、余計に忘れられなかったのだろうと自分に言い聞かせているが、今頃になってそうではなかったような気がしているのだ。
頭の中ではいつだって明け方の真っ白な部屋が浮かび上がってくる。自分は横になっていて、相手は頬や唇、髪を撫でた後に優しく言葉を紡いでいた。顔は翳っていて見えない。しっかりとその姿を捉えようとしても、眠気に連れて行かれてばかりだった。
しばらく考え込んでいると、ふと窓を叩く小さな音に気を取られた。外した視線の向こうには雨雲が漂っており、窓の表面を少しずつ濡らしていくのが見えた。雨、思えばあの日も雨だった。黒岩が亡くなった日も、雨が降っていた。何かに誘われるように窓際に立ち、外の様子を見る。降り始めて間もないようで、通りに見える人々は慌てたように駆けていく。
そう言えば、八神や海藤は今日傘を持っていただろうか。すぐに止む雨ならいいのだが、と懐の携帯に手を伸ばし、メッセージアプリを開く。二人に傘の有無を聞こうと、画面上にキーボードを表示させたところで、突然視界に眩い光が一閃する。そして遅れて聞こえてきたのは、遠くから響く雷鳴だった。驚いたのも束の間、何かがなまえの意識にフラッシュバックする。
──── ……も……してやる。
何かが語り掛けている。脳裏に忘れていた何かが炙り出される。聞き覚えのある声だ、胸を焦がすまでに好きだった声だ。窓に打ち付ける雨が勢いを増していく。
──── お前も……してやる。
ぼやけていた輪郭がはっきりとしていくように、なくした彼の言葉が声を伴って甦る。心臓が今までにないくらい、うるさい音を立てていた。焦燥感が溢れ出てくる。
──── お前も殺してやる。
目を見開く。たった今、耳元で囁かれたかのような幻聴を聞いた。変わらぬトーンの声で、優しく語りかけてくるのは『彼』だった。生前の彼の声をたった今、この事務所で聞いたのだ。生暖かい涙が頬を伝う。手元に忘れ去られた二人のことなど、とっくにどこかへ追いやられ、彼と過ごした人並みの生活が走馬灯のように駆けていく。
あの日の夜からなまえは手繰り寄せられるように、黒岩の懐に潜り込むことが多くなった。胸に植え付けられた執着が、彼の元を離れるのを許さなかった。それは彼も同じで、逃げる意志のない自分に何度も逃げても構わないと言い放つのだ。それが出来ないことを分かっていて、黒岩だって執着の手綱を手放す気など更々ないと言うのに。何が自分を、彼を駆り立てたのだろう。運命的な出会いなど果たしてはいない。もしかしたら、彼は自分を利用するつもりだったのかもしれない。だが、何がどう狂ったのか、その結末には至らなかったのだ。
触れることも、触れられることも、言葉を交わすことも、同じ場所にいたことも、迎えるのも送るのも、擬似的な恋愛の真似事のようだった。それでも心は確かに喜んでいたし、確かに満たされていた。忘れていなかった、本当は。何も忘れてはいなかった。黒岩が日々、部屋を立ち去る時に囁いていた『祈り』の全貌も知っている。
「もし、俺が死ぬことがあれば、そん時はお前も殺してやる」
震える体をほったらかして泣いていると、背後から階段を上がってくる足音が聞こえてきた。八神か、海藤か。もしくは新しい依頼人だろうか。それなら何故、体の震えが止まらないのだろう。胸を詰まらせながら泣いているのは、この気配が近付いてきてからだ。雨音が喧しく騒ぎ立てる。雷鳴が何度も鳴り響く。雷光に目を潰される。足音が止まり、なまえは反射的に振り返った。
すると、事務所の扉の前には黒いレインコートを着た人物が佇んでおり、こちらを見つめていた。目元は目深に被ったフードのせいで見えない。しかし、あの目元の闇にはしっかりとこちらを捉える視線がある。すると、彼にすら絞められた覚えのない首元がきつく絞まっていく。そんな感覚に襲われた。
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