「そう言えば、なまえちゃんがこの間、弟さんに会ったって話してたわよ」
須崎は贔屓にしている亜天使のママの発言に目を丸くしていた。なまえと言うのは、最近になって親しくなった女性のことで、この店にやって来ると須崎の隣に並んではよく話しかけてくる人物だ。須崎はなまえのことを邪険にしたことはなかった。彼女と話している内にまるで自分を慕う妹のように思えたからだ。だからこそ、彼女が悩んでいれば相談に乗ってやり、困っていれば持て余している時間を都合して助けになったりしていた。しかし、そんな彼女が弟に会ったと聞き、須崎は内心焦っていた。
「なまえは何もされなかったのか?弟はヤクザやってるっつうのに」
「ええ、手荒なことはされなかったけど、」
「けど?」
「一緒にお茶したって」
「なっ……?!」
須崎には弟がいた。いつも自分の後をくっ付いてくるような、兄に憧れている弟が。その弟は自分とは真逆の人生を生きている。自分は自由気ままな放浪者、弟は裏社会に生きるヤクザ。そんな彼が彼女と共に人並みの時間を過ごした事実に驚きを隠せない。
「フッ。アイツ、俺を出し抜こうとしているのか……?」
「なまえちゃんも大変ねぇ、二人の男の間で揺れ動いてるなんて。まるでドラマみたいだわ」
「一人の女を取り合うことになるとは。……やっぱりアイツは俺の弟だな」
「やだっ、燃える展開じゃない」
だが、結末は既に分かり切っている。俺の勝利がな。と丸く削られた氷の浮かぶグラスを傾け、冷ややかに喉を潤していった。決して取り乱すようなことじゃない、いつだって双子の兄は弟を負かしてきたのだ。今回も兄の勝利という日常に終わるだろうと、須崎は彼女が不在の席に視線を投げた。
***
「なまえ、大丈夫か」
「……はい。だ、大丈夫です」
「そういう割には顔がいつもより赤いが」
「ああ、えっと、ちょっとふらふらします。ちょっとだけ、へへ」
「おいおい……」
「亮さんは、この後もお店にいるんですか?」
「いいや、送ってく。俺も珍しく不安だ」
隣の席でやわらかく笑っている彼女に危機感を覚えたのは須崎だった。元々、表情豊かな彼女が頬をほんのりと赤くして、目尻を下げながら笑っているのだ。そんな状態の彼女を一人、神室町に放り出して平気でいられない。ふわふわとした受け答えをするなまえは、じゃあ一緒に帰れますね。へへ。とふにゃふにゃに笑っている。本当ならば、今夜誘うつもりでいた。弟に負けていられないと、彼女と予定を立てるつもりだった。だが、そんなことよりも今は彼女のことが心配だ。
「それじゃあ、なまえちゃんのことお願いね」
今日はツケといてあげるから。とこの時ばかりは亜天使のママに甘えさせてもらい、二人は店を出た。そしてふらふらとした足取りの彼女を連れて、須崎は近くのタクシーを探した。その間もなまえは終始嬉しそうに笑ってはご機嫌な様子で須崎の隣を歩いていた。やはり一人にしなくて正解だった。隙があり、警戒心のない人間に集ってくる相手は腐るほどいる。だからこそ、自分のような人間が今の彼女には必要なのだ。手を引き、安全な場所まで連れて行けるような人間が。
「一緒に帰るなんて初めてですね」
「ああ。こんなに酔ってる状態も初めてだ」
「そうですか?ただちょっとふらふらするだけですよ」
「ちょっとどころか、それなりにだ」
「う〜ん、亮さんが言うならそうなのかなあ」
「そうだ。いいか、手を放すなよ」
こくりと頷いた彼女と繋いだ手を握り直し、人の群れに足をとられないよう、はぐれてしまわないよう、彼女の歩幅と速度に合わせる。すると、この街がいかに慌ただしい場所かを実感していた。彼女の目線で見る街はこうも騒々しく、決して安全とは言えないのに、何故彼女は神室町へとやって来るのだろうか。そう言えば、一度も聞いたことがないと考えている内に二人は遂に路肩に停車しているタクシーを見つけ、すぐに乗り込んだ。
なまえのふやけた声を聞き取り、運転手に家の近くまでと告げると、車はゆっくりと動き始める。彼女の自宅は神室町からあまり遠くない場所にあり、タクシーが二人をそこまで連れて行くのに時間はかからなかった。車中の彼女はぼんやりと窓の外を見たり、須崎の方を見たりと大人しくしていた。だが、車の振動に心地よく揺られている内に瞼が重たくなってきているようだった。
「眠いか?」
遂には口を開くより、首を振る回数の方が増えてしまい、なまえがそうなっては須崎も、より彼女のことを気にかけていた。座席に深くもたれ掛かり、なんとか眠気に耐えている横顔が幼く感じられ、その都度声をかける。はっとして目を丸くし、すこしだけ。と苦笑するなまえに、あともう少しの辛抱だと言い聞かせるだけで何かが満たされていた。まるで自分だけが彼女の内面に触れているようで、弟のことが霞んでしまうほどに自分の独占欲が満たされている。本来ならば、酔っている相手に抱くべき感情ではないと分かっていながら、その心地良さを無視することは出来なかった。
そして、車は彼女の家の近くに停車し、支払いを済ませて二人はタクシーを降りる。今にも睡魔に負けてしまいそうな彼女を連れ、玄関先で足を止めた。なまえに鍵を頼めば、ごそごそと漁った鞄からそれを取り出し、鍵穴に差し込む。酔っていることもあり、多少手間取ってしまったが、無事に鍵は開いたようだった。ここで須崎はなまえを室内に連れていったが、その後の彼女の言葉で踵を返せなくなった。
「ほら、もう家だ。ここまで来れば一安心だろ」
「ありがとうございます」
「じゃあ、後は大丈夫だな?」
須崎の問いになまえは顔を曇らせた。さっきまで見ていたふやふやの笑顔は次第に薄まり、今では寂しそうな表情に変わっていた。なまえは続きを口にしなかった。出来なかったのかもしれないが、ただ押し黙ってばかりで須崎の顔を見ることもしない。
「どうした?」
「もう行っちゃうんですか」
「ああ。なまえも早く休んだ方がいい」
「あの、……わたし、さみしいです」
ここまで一緒だったこと、なかったから。となまえが俯く。彼女の髪が曇った表情を覆い隠してしまう。がらりと変わった部屋の雰囲気に須崎は身を屈め、なまえの髪に触れた。革手袋の指先が目元を覆う髪を逃がしていく。
「それは帰って欲しくないってことか」
言い方は違えど、意味は同じだった。ストレートな言い回しに彼女も初めは目を泳がせていたが、やがて拙い唇で、そうです。とだけ答えた。自分で聞いておいて何だが、内心酷く狼狽していた。弟の件があったとは言え、誰がこんな状況を予測出来ただろうか。これ以上踏み込むのなら、何が起きてもおかしくない。全て自分の判断に委ねられてしまうだろう。
「お願い、きいてくれますか……?」
掻き分けた前髪の隙間から切ない瞳が覗いている。何かを試すように、何かを待っているかのように。ここにいる彼女はいつもの、妹のような存在のなまえではない。背筋を何かが駆け抜けていく。おぞましい感覚のそれに抗うか、屈するか。須崎は既に答えを出している。
「ったく、世話のかかる奴だ。弟に比べりゃあ可愛いもんだが」
頭をわしゃわしゃと撫で回し、なまえの意表を突く。すると、先程まで全くの別人のものだった切ない瞳が姿を消し、黒目を丸くして驚くなまえが居た。……え?とまだ状況が飲み込めていない彼女に、ここで寝られちゃ困るからな。と先に部屋へと上がれば、なまえも後からふらふらとついてくる。
「寝るなら寝る準備だ。他にやりてぇことがあるなら、それをやらねえと」
「あの、ほんとに」
「どうせ、いつも時間を持て余してんだ。今日ぐらいは許してやる」
目の前で革手袋を取り、ジャケットを脱いで見せれば、なまえはまた俯き、その場で固まっていた。寂しいからと懇願した次は俯いて動かなくなってしまったのだ。
「なまえ、今度はどうした」
「……あの、なんか途端に酔いがさめて来まして、」
「ほう、」
「我ながらちょっとワガママだったかなって」
「そうだな」
「それで、亮さん」
……今日はこの後、どうされます?
そう恐る恐る聞いてきたなまえに返す言葉は一つだった。今更、遅い時間帯に住宅街へタクシーを呼ぶのは近所迷惑で、それに自分で決めた答えを変えるつもりも毛頭なく。
「そりゃあ、泊まって帰るさ。なまえには俺を足止めした責任をとってもらわねえと」
「せ、責任、ですね……」
ごくりと喉を鳴らした彼女には悪いが、想像しているようなことは何一つ要求しないつもりだ。ただ今夜、一晩寝床を用意してもらってそれで終わる。だが、どぎまぎとしているなまえの姿を見ているのも悪くないと、須崎は敢えて何も言わず、近くの椅子に腰掛けた。
しかし、彼女が想像以上のものを差し出そうものなら、その時は覚悟しなければならないとも思うのであった。真に戦うべきは弟ではなく、彼女なのかもしれない。
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