真っ直ぐに立っていられない。ぐわんぐわんと視界そのものが歪んで、ぼやけて、揺れている。前後左右、更にはバランス感覚が途端に分からなくなり、倒れるように尻もちをついた。自分の体を支えているのが辛いと、壁に背中を預ければ多少は楽になった。しかし、頬に伝わった衝撃は抜けておらず、じんじんと痛みは加速していくばかり。殴られたのだ、彼に。目の前で顔色一つ変えやしない、この男に。

「大丈夫?ま、でも軽めにしといたから」

 彼女は密室にいた。いや、密室に閉じ込められたの方が適しているかもしれない。現状、殴られた女は正面の男に呼び出され、こうして身動き取れない状況を強いられている。男の一撃は女の頬を捉え、油断していた女の脳を揺らすのに最適な衝撃が頭部へと駆け抜けた。そして、脳を揺らされて壁にもたれ掛かる女と、その女を見て薄っぺらい笑みを貼り付けている男がいる状況を生み出した。

「こっちも女の子相手に加減するの難しいんだ。男ならもう少し痛めつけたりすんだけど」

 飄々として、馴れ馴れしく話しかけて来る男の手には物騒な刃物が握られていた。その刃物で何をするか、想像は容易い。だが、その男はただのチンピラではなかった。まずは距離を縮めていった。女の傍で身を屈め、じっくりと弱っている様子を観察する。次に自身が殴りつけたばかりの頬に触れた。顎に近い部分に男の一撃をもらい、今に至る。そして、最後に男は女の口を無理矢理こじ開け、だらしない舌先を指でしっかりと摘んでいた。たらり、と生暖かい唾液が口の端を伝っていく。

「スプリットタンって知ってるか?蛇みてぇに舌を真っ二つにするやつ」

 あれ、見てるだけでも痛そうだよな?と男の片手に握られた刃物が嫌な光り方をしている。体に力は入らない。抵抗しようにも体の機能が強制的に停止させられており、男を押し飛ばすことも悲鳴を上げることも出来ない。かろうじて僅かに思考することが出来るくらいで、しかし、それも一時的なもので危うさを孕んでいた。

「俺の下には、ピアスだの、タトゥーだの、そういうのが好きなヤツが多いんだ。でも、流石に舌を真っ二つにしてるのはいなくてさ」

 お宅の八神先生はそういうのに興奮するタイプか?それとも、海藤の方か?
 一定のトーンを保ったまま、男の口からおぞましい言葉がゆっくりと突き刺さる。ぼんやりとしている自分にしっかりと聞き取れるように、ゆっくりとしたスピード、はっきりとした声音で。その間も男の舌先を掴む指は離れなかった。だらだらと唾液が手に伝っているのに、それすらも気に留めていない。このようなことは些細なものなのだろう、肝心なことは自分の目の前にいる女から知っている情報を聞き出すことなのだから。その為なら冗談だろうと本気だろうと、柔い肉に刃を突き立てることは厭わない筈だ。

「痛いって怖いよな。それが真っ当な感覚だ。分かるよ、その気持ち」

 分かると共感しておきながら、黒目の奥では今でもしっかりと息の根を掴んでいて、小さな口に自分の指を突っ込んで収まっていた舌を逃がそうとはしない。ちぐはぐだった、言動と行動と思惑が全く噛み合わない。さっきから何度も恐怖してばかりだ。それなのに恐怖の波は留まることを知らず、寧ろ、より大きな波を連れて来る。諦観が覗き込む最中、女は僅かにだが回復した体の力で、逃れようとした。まずは無情にも舌を捕まえている指先から。すると、動けることが意外だったようで男は目を丸くする。

「へえ、ちょっとは力入んのか。思ったより元気なんだな」

 しかし、状況は何も変わらない。逃げる手段のない女とそんな女に詰め寄っている男。手にした刃物は鋭利に光る。頬を熱い涙が伝っていった。自分ばかりが追い詰められてしまい、どうすればいいのか分からなくなっていた。

「今、必死に逃げようとしてるでしょ。さっきから舌が暴れてるから分かる。でもさ、最初から言ってるじゃない」

 君は俺に嘘をつかずに話をしてくれればいい。それだけで君は帰れるんだ、無理することないって。と男は女の目を覗き込み、口に突っ込んでいた手を下ろした。女は肩で息をしている。男は女の視線を捉えてはその度に頷いて見せた。


「……な、何も知らないんです。あなたに、お話するようなことは、何も」

 すると、男の目から光が消えていった。そして、底の知れない真っ黒な瞳でじっと両目を貫いている。背筋が凍るような笑い方をする男だと思っていたが、それ以上に無表情でいる方が恐ろしかった。まるで興が醒めたと言わんばかりの鋭い目つき、寡黙な口元が女の言葉の信憑性を確かめている。女は二の句が続けられない。

「ふぅん、そう。それは残念」
「……ですから、お話することはありません」
「えらいよ。ちゃんと言われた通り、嘘をつかなかったのは」

「でも、これで君は無事に帰れなくなった」

 男の言葉を聞き終わる前に、左腕に鋭い痛みが走った。鋭利な刃先は赤く染まり、そして自分の左腕からもその赤が滲み出していた。悲鳴は口を手で塞がれ、出ていくことは無かった。じゅくじゅくと切られた患部が痛み出す。傷の度合いは分からない。それよりも痛みの方が勝ってしまい、女は苦痛の表情を浮かべている。はっきりとしなかった意識を無理矢理、痛みで呼び戻されたのだ。

「何か知っていれば、無事だったかもしれない。逆に何も知らないなら、アイツらを追い詰める道具になってもらう」

 大丈夫だって。殺さない、約束する。酷くならないように浅く切ったし、ちゃんとこの傷も手当てしてやるから。……でも、その前に。と男は女の傷を携帯のカメラに収めると、その写真を誰かに向けて送信したようだった。

「だ、誰に、写真を……」
「それは教えられないね。秘密主義なもんで」
「……どうして、こんなこと」
「それは八神を恨まなきゃ。アイツが君から目を離したせいで、こんなことになった」
「……あなたは誰なの、」
「あれ、まだ教えてなかったっけ」

 男が自分の名を口にした時、女は、なまえは血の気が引いていくようだった。一変した顔色に男も、相馬も気付かないはずが無く、首を傾げた。相馬はまた、あの光の飲み込まれた真っ黒な瞳でなまえを凝視している。なまえは男の名に心当たりがあった。数日前に八神が自身の置かれている状況について説明をしてくれていた。脂汗が額に浮かぶ。切られた傷の痛みも相まって、なまえは脈が早まっていくのを感じていた。


「あ、もしかして、何か思い出してくれた?」

 早く逃げなければ、と衰弱した体に鞭を打ってでもなまえは部屋から逃げ出そうとした。しかし、壁際にいる自分が相馬を出し抜いて逃げ出せる訳がなく、行動に移すよりも先に牽制された。顔の真横に突き立てられたナイフ。躊躇いなく、挙動も読ませない動きで相馬はなまえに恐怖を植え付けていく。

「駄目だって。怪我してるんだから、安静にしてないと」

 植え付けられた恐怖が首をきつく締め上げる。声が上手く出せない。突き立てられたナイフは相馬がしっかりと握りしめている。ギリギリ、と相馬は力を込めて、壁に突き刺さったナイフを真下へと下ろしていく。ガリガリと壁に深い傷を残しながら、ゆっくりと太い血管のある首筋までナイフを下ろしてきた。

「ここで俺が間違って手でも滑らせたら、危ないよな?首には大切な血管がある。そんなもんが切れちまったら、大変だろ?」

 だから、俺にそんなことさせないでくれよ。と耳元で囁き、相馬はナイフを引き抜くと鋭利で真っ赤なそれをそのままに、部屋を出て行った。部屋を去る直前、待ってろ。すぐに手当てしてやる。と言い残した男の名が呪いのように耳にこびりついていた。
 ──── 相馬和樹。それは八神隆之の追い求めている敵であり、対立は避けられないと言っていた人物だった。そして、自分が八神の足枷になってしまった事実に、切り裂かれた傷口が酷く痛み、体は悴んでいくようだった。



| 命を使って尽くしてくれよ |


back