「君も人の世話を焼くのがよっぽど好きなんだな」
「何言ってるんですか。事務所なのに、こんなに汚くしてちゃダメだと思います」
「事務所兼自宅でもあるんだよ」
「自宅も兼ねているなら尚のこと、ゴミ出しくらいはしなきゃ」
「……良い嫁さんになるよ、君は」

 そんな相手がいればいいですけど。と満更でもないのが窺えるほどに、なまえの声は弾んでいた。なまえが居住スペースである畳の上で、辺りに散乱している無数のアルミ缶を片っ端からゴミ袋に詰め込み、桑名は事務机の前にある椅子に腰掛けてゆっくりと電子タバコの煙を吐いた。しかし、それを面白く思わなかった者が一人いる。その人物は桑名の近くにやって来ると、手に持っていた電子タバコをさっと取り上げた。

「良い嫁さんになれるとか、そういうのはいいので手伝ってください」
「じゃあ、最後まで吸ってから……」
「これで何本目ですか?」
「……二本目、かな」
「四本目です」

 桑名の苦しい嘘を手早く切り捨てたなまえはため息混じりに、取り上げたタバコを返した。桑名もそれが意外だったらしく、戻ってきたタバコを中々吸い出せないでいた。
 吸わないんですか?いや、まさか、こんなにすんなり返してくれるとは思わなくてね。まだ吸えるんですよね?ああ。じゃあ、それ吸い終わったら手伝ってくださいね。わかった。なんだかんだ言いはしても、結局は甘やかしてくれるなまえには敵わないとタバコを咥える。


 なまえと桑名はこの異人町で出会った。初めは便利屋に依頼人として、次はたまたま街で再会し、最後はすっぽかされたデートの代役として。顔を合わせる回数が増えて行く度に二人は親密になっていった。ゆるやかに築かれていく二人の友人のような関係は、デートの代役を桑名が引き受けたことを最後に一変する。
 その時のなまえは酷く落ち込んでいた。寂しさを引きずりながら、相手に急用が出来たのだと話していた。いたたまれない心情に桑名も思うところがあり、今回だけはお代はいらねえ。と前置きし、彼女を夜の異人町へと連れて行った。それから、二人の関係は友人という枠で収まらないほどに近く、大きなものになってしまった。桑名自身もまさかこうなるとは思っていなかったのだ。

「じゃあ、この缶を潰しておいてください」
「そのままでもいいんじゃないか?」
「まだこんなに缶があるんですから、少しでも多くまとめて捨てたいんです」
「まあ、そりゃあそうだな」

 お願いしますね。となまえはまだ畳の上で寝っ転がっている空き缶をかき集め、他にないかと辺りを見回していた。なまえが桑名の事務所に上がって物を片付けるのは珍しいことではなかった。過去にも何度か同じ経験をしている。なまえが桑名に会いに来る時は大抵、事務所にいるものだから、なまえもこの惨状を目にする機会が多い。それに耐えかねたのもなまえだ。それに甘んじているのは桑名だ。
 しかし、あまり良いことではないが、こうして自分の為に甲斐甲斐しくされると、妙に満たされる部分がある。良くないと分かっている上でそう感じているのだから、意外にタチが悪い。


「あれ、桑名さん」
「どうした」
「桑名さんって、こっちの煙草も吸ってるんですか?」

 なまえが差し出したのは、ライターが入れっぱなしになっている紙タバコのパックだった。彼女は知らずの内に桑名の抱える真実に触れていた。しかし、それを彼女が手にしたところで真実がこぼれ落ちてしまうことはない。目の前に露呈することはない。だから、ごく自然になまえからタバコを受け取ると、自分の事務机にそっと置いた。これは彼女の傍にあっていい代物ではないのだ。

「こういう仕事してるとな、たまにガツンと吸いたくなるもんだ」
「ふぅん、そうなんですね」
「なんだ、怒らないのか?どっちかひとつにしたらどうなんですか、って」
「怒りませんよ。だって、いつも灰皿だけは綺麗にしてるみたいですし」
「よく見てるな、本当に」

 みえているようでみえていない。みえていないようでみえている。なまえは桑名にそう思わせる一面があった。先程の煙草や灰皿のこともそうだ。桑名が密かに紛れ込ませた翳りの傍に彼女は度々近づくことがある。桑名はその度に彼女の手を引き、自分の翳りに踏み込まぬように遠ざけて来た。まだ彼女に本当の姿を見せる勇気はない。臆病者だった。他人から見れば、便利屋などという気楽な職業に就き、自由気ままに振舞っていても。自身の闇を暴かれるのが恐ろしい。そして、彼女が暴かれた真実に耐えられるとも思っていない。

「なあ、みょうじ君」
「はい?」

 辺りが汚れても構わない玄関先で集めた缶を並べ、端から端へと一缶ずつ体重を乗せて潰していった。缶は面白いように変形し、歪に潰れていく。

「もし君の大切な人が一人で、今いる街から出ていかなきゃならなくなった場合、君はどうする?」
「……なんですか、急に」
「ただの雑談さ。難しく考える必要はない」
「雑談、ですか。それならいいですけど、」
「それで?君はどうするんだ?」

 うーん、と頭を抱える彼女の姿にありきたりな質問をしてしまったと、桑名は幼稚な自分を恥じていた。この質問の答えを聞いたところで、自分はどうするつもりだったのだろう。期待通りの答えだったなら、勝手に満足して浅はかな欲を満たすのだろうか。期待外れのものなら、恐らく勝手に気落ちするのだろう。自分はなまえを使って何をしようとしているのか、分からなくなっていた。今は慰めも労いも、何も必要としていないくせに。欲しいと思っていながら、本当は欲しくないのに、誰かの手に渡るのだけは許せない。そんな自分勝手な人間なのだ。

「要するに、その人についていくか、ついていかないかってことですよね?」
「そうだな、その方が分かりやすい」

 なまえは片付けをしていた手を止めて、畳の上にすとんと座り込む。そして、暫く黙り込んだ。桑名はなまえの思考が深くなるのを読み取っていた。でなければ、このような他人事には思えない質問を投げ掛けたりはしない。単純に知りたかったが五割、しかし、残りの五割は全て諦観で埋め尽くされている。世の中と言うものは訳ありの人間に優しく出来ていない生き物で、ドラマや小説のような、逃避行が何の犠牲もなく許されることはない。選ぶからには切り捨てなければならないものがある。選ばれなかった他の選択肢のように。

「……残念ながら、私はついていきません」
「ほう。意外だな、俺はてっきりついていくと思ってたよ」
「いえ、まっぴらごめんです」
「ちなみにその理由は?」

 そうですね。と頭の中を整理するようになまえは話し出す。まず、街から出ていかなきゃならない状況は緊急性が高いのではないかと考えたそうだ。次に、一刻を争う事態に何の準備も、覚悟もない自分がついていくことで、足でまといになってしまうのではないかと。そして、無事に逃げ仰せても自分が大切な人の重荷になり、結果として逃げる時よりも追い詰められてしまったら嫌だと口にした。

「私のせいでその人が危険に晒されるなら、私はいない方がいいって思いませんか?」
「確かに一理ある。君がここまでしっかりとした考えを持ってるとはな」
「……薄情だって言われるとばっかり」
「いや、そんなことはない。選ぶのはみょうじ君だ、それにどうこう言う資格なんて誰にもありゃしない」

 ただ、と言いかけたなまえはいつの間にか絡ませていた両手の指先に視線を落とした。その瞳は少しだけ頼りなく見える。先程口にしたことだけが全てじゃないのだろうと、桑名はなまえの吐き出した心に耳を傾ける。

「待ってると思います。その人と別れて、どんなに時間が経っても」
「相手の生死が分からなくてもか?」
「……いえ。良い縁があれば乗っかってしまうかもしれないですけど、出来れば待っていたいですね」
「君ってヤツは思ってた以上に一途なんだな」
「だから、住所も変えないです。そうすれば、また街に戻ってこられた時に、その人が会いに来てくれるじゃないですか」

 本心を話すのに慣れていないのか、照れくさそうになまえは笑った。桑名はなまえの答えに概ね満足していた。行くか、別れるか。正直、どちらにおいても桑名は自分が満足する答えではないと思っていただろう。だが、なまえの出した、待つという答えがやけに腑に落ちる。無関係である事実があれば、深い闇の中を歩いていく逃避行の先にいつか光が見えてくるだろう。それだけで良いと思えるのだから、不思議だ。


***


 だから、不思議で仕方なかった。顔や名前すら偽ると決めた自分の手元には、いつ受け取ったかも分からない鍵があった。追われる身でありながら、何故かこの鍵だけは置き去りに出来ない。これはなまえの、彼女の部屋の鍵だ。約束の場所に向かう前に、自然と足は彼女に続く道を選んで歩いていく。最後になるかもしれない。油断や寄り道してられないのは分かっている。分かっていても、彼女にもう一度だけ会っておきたい。このまま行ってしまえば、きっと暫くは会いに来れない。例え、この鍵を持っていても会えはしないだろう。これが最後のやり残したことなのだと悟った。

 なまえのアパートに到着した桑名は二階の奥から二番目の部屋の扉の前で足を止めると、ずっと握り締めていた鍵をドアノブに押し付けた。そしてくるりと回せば、カチッと解錠音が聞こえ、中へと入り込む。すると、なまえは台所に居るようだった。鍋の煮込む音が聞こえ、ほのかに良い香りが漂っている。手短に済ませようと桑名は勝手に上がっては台所まで出向き、夕飯の支度に忙しいなまえに声をかけた。

「みょうじ君」
「……鍵のこと、ちゃんと気付いてくれてたんですね」
「ああ、君がまさかあの煙草に鍵を忍ばせてたとは知らなくてね」
「よかった。気付いてもらえなかったらどうしようって」

 台所の蛍光灯に照らされたなまえは嬉しそうにはにかんだ。その笑みを見ていると不意に胸の奥が苦しくなった。これから別れを告げなければならないと覚悟して来たはずだった。しかし、その覚悟が大きく揺れている。桑名は台所で立ち尽くしたまま、中々本題に入れずにいた。そんな桑名の姿になまえは感じるものがあった。それはあの報道を見てから感じていたものと全く同じだった。

「……先生、だったんですね。昔は」
「隠すつもりはなかった。だが、もう既に抹消された人間だ」
「大丈夫です。私は桑名さんが犯人だなんて思ってません」
「君の勘違いかもしれないんだぞ」
「だって、本当にそうならそんな顔して会いに来ませんよ」

 そんな、苦しそうな顔して。
 なまえの瞳はまっすぐ心を見ているようだった。すぐに手元に視線を戻してしまった彼女の横顔に手繰り寄せたくなった。最後の衝動だ。最後の逢瀬だ。最後の戯れだ。これが最後の。


「……桑名さん」

 こちらに気付いたなまえは手を止め、桑名と向き合っていた。手繰り寄せたのは衝動的になりたかった桑名で、なまえはその衝動を受け入れる形で懐に抱かれる。顔が見えない桑名の背に手を回せば、微かに震えていると知る。黙って上下に撫でることしか出来ないが、なまえは桑名の抱えた何かが収まるまでそれを続けた。

「桑名さん、前に私にした質問覚えてますか」
「奇遇だな。俺も今その話がしたかったところだ」

 待ってます。ずっとここで暮らして待ってますから。だから、私のことは忘れてください。未練も不安も、心残りも忘れて行ってください。
 無理に弾ませた声は密かに震えていた。なまえの最後のお節介が酷く目に染みる。もう少しだけ強く抱き締めれば、苦しいです、桑名さん。と自分の懐から聞こえてきた。

「みょうじ君、最後にお願いがあるんだ。聞いてくれないか」
「なんでしょう?」
「……アイツのことも呼んでやって欲しいんだ」

 なまえは桑名の言葉に全てを察すると、背中を撫でていた手を止め、深く息を吸い、心を落ち着かせた。そして、ぽつりと故人の名を口にすれば、抱き締めている桑名から嗚咽が漏れて聞こえてきた。今、自分を抱き締めているのは誰だろうか。なまえが良く知る桑名だろうか。それとも、なまえの全く知らない喜多方という男だろうか。きっとこの瞬間から離別が始まっているのだろう。離れたくない。離れたくないが、運命に手を引かれた彼を行かせてやらなければ。


「ありがとう。もう行かないと」
「またいつか、この街のどこかで」
「俺もそれを願ってる」

 部屋から出て行こうとした桑名の腕を捕まえて、手前へと引っ張った。そして、振り向きざまにつま先立ちで軽く接触する。軽く奪われ、桑名は目を見開いていたが、すぐになまえの後頭部に手を這わせ、奪い返す。唇が苦味を覚えた頃、それは音もなく離れていく。本当の別れの時間だった。

「ったく、こんな土壇場で困らせるんじゃねえ」
「ごめんなさい。でも、少しは嬉しかったんじゃないですか」
「そうだな。予定さえなけりゃあ、今ここで押し倒してたよ」
「……ちょっと、桑名さん!」

 いつものように言葉を交わして、男は女に背を向け、女は最後の別れを感じさせないように振舞っていた。

「行ってくる」
「いってらっしゃい」


 それだけを最後に二人の関係は断ち切られた。これから深い闇に身を沈めていく人間の弱みにだけはなりたくなかった。それは今も尚、変わらないのだが、たった今おかしなことがあった。差出人不明の小包が届いたと思えば、中身はいつか欲しいと話したことのある万年筆と一枚の紙切れのみ。達筆な文字を目で追えば、今年一度きりの誕生日を祝う文面が書き記されていた。まるでよく知った人の筆跡のようで、指先でなぞってみる。すると、視界は潤んでいくのに顔は笑いたがっていた。きっとあの人も笑っているに違いない。もしかしたら、再会は思っていたよりも近いのかもしれないと思うと、突然携帯が鳴り、画面に表示された名前を見たなまえは急いで外に飛び出して行った。



| 勿忘草に紫苑 |


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