ねえ。僕、本気だよ。
 あどけなさの残る彼が真面目な顔をして、こちらを見ていた。ビルの屋上で話し込むクセを止めたかった、それだけだったはずなのに。人知れずに下りた夜の帳の中で、足元のネオンを見下ろしながら彼と話し込むのが好きだった。もっとはっきり言うとすれば、他愛もない会話ばかりの時間を彼と過ごすから好きだった。ただ傍に長居したいだけの口実。それでも、彼はいつでも時間を作って付き合ってくれた。
 寒い日の夜はお互いに温かい飲み物を持ち寄り、暖を取りながら思いつくままに話していた。雨の日の夜は濡れて風邪を引いたら嫌だからと電話を繋いでいた。暑い日の夜は薄着でアイスを齧りながら、花火を見ていた。四季が巡っていくのを一緒に見守っていたし、なんてことない日々が積み重なっていくのが嬉しくもあった。出会ってからの一年はあっという間だった。自分にとっても、きっと彼にとっても。そうでなければ、ここで話し込むのを止めようだなんて思わない。

「なまえちゃんはさ、どう思ってるの」

 茶髪の前髪の隙間から切ない瞳が待っていた。問い掛けた答えを。どう思ってるの、だなんて、すぐに聞かれて答えられるほど、自分は大人になり切れていない。慎重に言葉を選んでいた。何が自分の気持ちに一番近いだろうか。どれが彼によく効く意味を持つ言葉なのだろうか。この先の展開は誰かが思っているほど、悪いものにはならないという事だけはよく分かっていた。

「僕はこうして二人きりでいられる時間が好きだよ」

 やんわりと胸の奥が苦しくなる。ハートの形にくり抜かれた胸に、彼の優しさや言葉がゆっくり流れ込む。くすぐったくて、熱くて、まともに目も合わせられないくらいに鼓動を乱してしまう。ずるい、人の気持ちも知らないで。ハートの奥の、本当に臆病な部分に触れようとしているのだろう。だが、自分は蕾が花開くのを待つような人間じゃない。寧ろ、待ち切れないからと花弁を一枚捲ってしまうような人間なのだ。そう思うと、熱の冷めない頬で彼を見た。

「拗ねた顔、してるよ」
「してない。これはちょっと、……顔が強ばってるだけ」
「悲しい話をしに来たんじゃないの」
「じゃあ、僕は安心していいのかな」
「ただ、ちょっと勇気のいる話」

 それは僕が?それともなまえちゃん?多分、どっちも。でも今は私かな。自分で口にした言葉の通り、不安から密かに腕を抱く。代わろうか?涼しい顔で彼は言った。それじゃあ、今日のために準備してきた決心がぐらついてしまうから、と首を横に振れば、そっか。とだけ返される。ああ、心地いいなあ。彼はいつもそうだ。心地いい言葉を選んで、ちょっとくらい気持ちが甘ったれていても許してくれる。
 許されることの嬉しさや気恥ずかしさ、照れ臭さ。そして、何より嬉しいくせに切ないとも感じてしまう、この感覚を知ってから自分の中で何かが変わったような気がする。流れた時間をあっという間だと零してしまうのも、他の誰より傍にいるのにもっともっとと欲張ってしまうのも、全て彼のせいであり、自分のせいだった。

「あの、さ、」
「うん」
「……えっと、」
「なまえちゃん、いいよ、ゆっくりで」
「うん……」

 胸が張り裂けそうなほど、心臓が暴れている。ありったけの血を体中に巡らせて、体温を上げていく。鼓動だって黙ってはいない。どくんどくんと高鳴っては一歩踏み出せない自分を急かしている。決心が、思いの丈が、この口から出て行きたがっているだろうと、叱られているような気がした。だから、もう引き返せないのだと自分を奮い立たせ、まずは一欠片吐き出してみることにした。


「好き、だよ」

 それは予想していない言葉だった。まだ吐き出すつもりのない欠片が真っ先に出て行ってしまった。唇は狼狽えている。体は急に寒気を覚えた。だが、たった一欠片を吐き出しただけで、胸の奥に隠していた思いが次から次へと顔を覗かせた。

「……ずっと前から。二人でここで会うようになってから」
「そうだったんだ」
「一緒にいると楽しくて、嬉しくて、……その、」
「なに?」
「もっと近くに行きたいなとか、会えない日は声が聞きたいなとか」

 自分の言葉が何故か頼りなくて足元を見た。つま先も不安そうに内側に向いており、最悪の結末を匂わせている。誰もが不安を抱くに決まっている、誰かに自分の本当の気持ちを伝えることは。怖かった。拒絶や謝罪を聞いてしまったら、もう戻れやしないと分かってしまうから。怖かった。繋いだ糸が切れてしまう理由になってしまうのが。沈黙があまりにも恐ろしくて、彼の方を見れば口元に手を置き、俯いているようだった。
 沈黙を縫うように風が吹き、彼の髪がふわりと弄ばれる。その隙間から見えたのは、彼の余裕のない表情だった。初めてだった、彼が余裕なさそうにしている姿を見るのは。これが初めてだったのだ。

「……なまえちゃん、」
「杉浦くん」
「僕、まさか一言目に好きだなんて来ると思ってなくてさ」
「わたしも、」
「少しびっくりしてる。でも、今はなまえちゃんの隣に行きたい」
「いいよ」

 今までは許可を取る必要も、それに対して了承する必要もなかった。数分前の自分達とはもう違うのだろう。関係が変わってしまった時、人は慎重になる。彼は隣に立つと、手の甲に暖かな感触を覚えた。意図せず、彼の手がぶつかってしまったのだろう。しかし、ぶつかってからと言うもの、夜の静寂に鼓動が流れ込んでくる。少なくとも、自分は目を逸らしていた。どんな顔して、彼のことを見ればいいのか分からなかったから。
 また手の甲が触れる。もどかしい。本当は手の甲だなんてよそよそしい場所じゃなくて、その手の内に触れてみたい。そう思った刹那、遂に何かが絡まり合い、そして、優しく包み込まれる感覚がした。答えが知りたいと彼の方を見れば、彼もまたこちらを見て狼狽えていた。

「手、嫌ならほどいていいから」
「ううん、嫌じゃない」
「本当は僕だって同じこと言いたかったんだ」
「同じこと……?」
「そう。僕もなまえちゃんのことが好きだよって」

 でも、先を越されちゃった。といつものように笑う彼からも、自分と同じ気恥ずかしさのようなものを感じる。わかるよ、その気持ち。と夜風に言葉を攫われていても、彼は頷いていた。手を優しく握れば、どうしよっか。これから。と返され、返事に困ってしまった。

「まだ他の人には会いたくないなあ」
「だね。僕もこんな状態じゃ無理かな」
「それじゃあ、もう少しだけここにいようよ」
「いつも通りに?」
「今日から特別」
「なら、僕のことも杉浦くんじゃなくて、名前で呼んでよ」

 僕はいつも、なまえちゃんって呼んでるでしょ。そ、そうだけど。今日から『特別』だって言うなら、なまえちゃんも、ね?
 絡んだ指先を解けないようにぎゅっと握り直し、控えめな声量で文也くんと口にした。すると、自分から言い出したくせに面食らって、何も言い出せないでいる彼の姿があった。どうしたの、と問えば、思ってた以上に良かったって言うか……。と顔を逸らしている。しかし、耳まで真っ赤になっていては、顔を逸らしても意味がないのだと、この時初めて知った。

「落ち着いたら教えて」
「そうだね、少しだけ時間くれる?」
「大丈夫。待ってるよ」
「ありがと」

 早く夜風が彼の頬の熱を奪い取ってしまえばいいのに、と思った。やっぱり、こんなところで話し込んでいては駄目だ。今更、やって来るかどうかも分からない人の目を気にしたり、越えてしまいたい一線を越えられずにいたり、好きな人の照れた顔をまじまじと見ることが出来ないのだから。もう少しだけ困らせてもいいだろうか、もう少しだけ我儘になってもいいだろうか。もう少しだけ、彼に本気であると示してもいいだろうか。
 特別な名で呼び、彼が振り向く瞬間に爪先で立ってみた。数センチだけ世界が低くなる。低くなった世界より背の高い自分が彼の頬に唇を押し当てたのは、ある意味故意だったのだ。



| 故意に、落ちる |


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