彼女には記憶が無い。とは言っても、完全な記憶喪失ではなく、彼女が生きてきた内のたった三年ほどが彼女から抜け落ちているそうだ。一部的な記憶喪失を患っていることに対して、彼女は多少不便だと笑っていた。だが、その話を耳にして腑に落ちることがいくつかあった。自分との関係、彼女に起きた出来事を鑑みれば何らおかしいことではなかったのだと。
「やっぱり、桑名さんって誰かに似てる気がするんですよね」
「俺みたいに良い男がいるのか?この世の中に」
「芸能人じゃなくて、私の知ってる誰かに」
「君の知ってる誰かだと?曖昧にも程があるな」
「私もそう思います。でも、なんか妙に懐かしく感じることがあるんですよね」
「懐かしくってのはおかしいな。みょうじくんとはここ最近出会った仲だ」
だから、不思議と言いますか。と思い悩んだ様子で唸っているなまえは解けない問題に挑んでいるようで、そんなもの思い出したところで何の役にも立たない。と言い切ってやれば、……ですよね。と弱々しい声が返ってくる。
「そういうのは忘れた頃に思い出すもんだ」
「そうですね。うん、自然に思い出せるのを待ちます」
「みょうじくんも賢くなってきたな」
「何言ってるんですか、私は元々良い学校の出なんですから当然です」
「聞こえなかったか?賢くなってきたなと言ったんだ」
「い、意地悪ですよ……!今の言い方……!」
恥ずかしいところを突かれたのか、なまえは顔を真っ赤にしている。当時、彼女は国語の苦手な学生だったこともあり、成長した今でもその片鱗を覗かせている。彼女との会話では、意味を間違って覚えている言葉や熟語、脈絡のない話し方が目に付いた。その度に正しく教え直しては、難しいですね……。としょげた彼女の顔をこれまでに何度も見て来たのだ。
「悪かった。少し意地悪だったよ」
「……私、多分国語苦手だったって話したじゃないですか」
「ああ、そうだったよ。すっかり忘れてた」
一目見ただけで彼女が不機嫌であるとわかった。眉間に皺を寄せ、口を堅く閉ざし、頭はそっぽを向いている。だが、自分も自分で、相手が成人女性だと言うのに、子供っぽいその仕草に自然と手を頭に置いていた。懐かしい感覚は雰囲気や手のひらを伝ってやって来る。彼女は覚えていないのだ。過去にもこうした経験があったことを。
彼女が失った期間は三年。それは全て、とある人物と深い関わりのあった期間だ。寂寥が滲む。真っ白に塗り潰された記憶の細部はもう二度と戻らないことだろう。希望を抱いてもいい。だが、現実的な話をしようとすれば、諦めも併せ持っておかなければならないと、今まで散々なくらいに思い知らされた。彼女は気まずそうな顔でこちらを見ている。何か言いたそうで、言い出せないのだろう。まずはこちらから声をかけた。
「どうした」
「あの、私そこまで怒ってませんから……、」
「ああ、そうだろうな」
「変に気を使わせるのは良くないかなって」
「君は昔からそうだな、人のことばかり気にして」
「……昔からって。私、桑名さんとは最近知り合ったんですよ」
さっきは桑名さんがそう言ってたのに。ふふ、変なの。と彼女は何も知らない顔で笑っている。面影が胸を掠めた。彼女がまだ学生だった頃の、幼い面影が淡く浮かび上がり、重なって映る。どれほど時間が流れていても、変わらないものは少なからず存在する。それは仕草であったり、癖であったり、好きなものであったりと、個人によって多岐に渡るが、なまえの場合は笑顔だった。笑う瞬間にぐいっと上がる口角、ぎゅっと細まる瞳、肩を揺らして笑う姿。それは彼女が制服を着ていた頃から、何一つとして変わっていない。
自分と同じ学び舎に通う子供をそのような目で見ることは一切なかった。どこにでもある、熱心な指導の国語教師と国語が苦手な生徒という関係に収まっていた。だが、あの一件のせいで教職を追われることになり、彼女との関係は破綻してしまった。最後の別れを告げることもせず、行方を眩ませた後に待っていたのは、彼女にとって残酷な現実だったことだろう。高校生と言えども、まだ成熟していない子供だ。信頼していた大人が突然何も告げずに姿を消したらどう思うだろうか。そして、その理由が受け持つクラスで起きた事件のことだと知ってしまったら。
「正直、みょうじくんとは初めて会った気がしないんだ」
「いつも言ってますよね、それ」
「ああ、こう見えてロマンチストだからな」
「ギャップとか狙ってます?」
「今の子はそういうのに弱いんじゃないのか?」
「うーん、私は今の子ではないですし、」
「なら、聞かなかったことにしてくれ」
失ってしまった記憶の欠片を掻き集めようとはしていない。彼女も初めは良くしてくれたとある教師のことが思い出せなくなり、次は徐々に高校生活に関する記憶が失われていったそうだ。そして、もう今ではあの三年間は存在しなかったものになっている。なまえは親友だった子の名前も、楽しかった思い出や嬉しかった出来事すらも抹消されているのだ。その引き金を引いたのは紛れもなく自分だ。だが、それでも彼女は異人町で生活している。こうして、時々顔を出しに事務所へとやって来るくらいのだから、彼女が記憶喪失を患っていることなど一目では判断出来ない。
「……もしかしたら、桑名さんは私の初恋の人に似てたのかもしれませんね」
「初恋の人だと?みょうじくんもロマンチックなことを言うじゃないか」
「もう思い出せないから分からないですけど、きっといたんですよ。そういう人が」
無理にでも記憶を取り戻すようなことをすれば、彼女は三年間の大切な思い出を取り戻すだろう。友人や同じクラスの仲間、良くしてくれた恩師、青春の全てを。しかし、その輝きにとどめを刺すのは自分の存在なのだ。夢や希望だけでなく、彼女が忘れていた、忘れたがっていた事実も呼び起こしてしまえば、もう一度絶望を味わうことになる。それだけはさせたくなかった。繰り返したくなかった。なまえを他の教え子達のように、自分と離れた世界に追いやってしまいたくなかった。
果たし続けている贖罪に間違いはないと言い切れるくせに、なまえに対して抱いている複雑な感情や選んだ選択肢が本当に正しいかは分からないでいる。分かろうとしていないのか、この関係に甘んじているのかは、言わずもがなだ。もしかしたら、いつか全てを暴かれる日が来るのかもしれない。そうなってしまう前に打ち明けられたなら、どれほど良いだろうか。今に甘んじている自分は頑なに口を開こうとはしない。
「どんな人だったんでしょう、その人」
彼女は抜け落ちた記憶をなぞれはしない。慕っていた相手の顔や声を思い出すことはない。積み重ねた時間の中で、自分が確かに生きていたという証を知ることはない。故意に欠けたままを強要し、その相手を傍に置いておく男の心理など、到底理解されないだろう。救いや報いがないのなら、そんな冷酷な現実などあってはならない。そんなものは必要としていない。
「意外と顔を見たら思い出したりして」
「その時は俺にも教えてくれ。相手の素性調査くらいはタダにしといてやる」
「あ、桑名さんもちょっと気になってるんじゃないですか?」
「何処の馬の骨とも知れない奴に、君を任せておけないからな」
「今のちょっとかっこいいですよ、桑名さん……!」
「ウチはリップサービスもやってるんでな」
リップサービスって言わないでくださいよ。と肩を落として見せるなまえに、過去を見ているのかもしれない。無垢が無垢のままでいることに縋り付いているのかもしれない。僅かに手が震えた。しかし、それを悟られぬように再び彼女の頭を撫でれば、心地の良い声で自分を呼ぶのが聞こえてきた。
みょうじなまえは黒河学園の卒業生である。在学当時、とある事件をきっかけに、過度なストレスによる突発的な記憶喪失を患い、現在に至る。ほんのひと月前に、伊勢佐木異人町に移り住み、便利屋である桑名と出会った。記憶喪失を患っているだけでなく、よそ者である自分に良くしてくれる桑名に対して、形容出来ない感情を抱いてはいるものの、その正体は未だに見つけられずにいる。彼女は桑名のことを何も知らない。
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