急遽、上司である八神から依頼の連絡が入り、なまえは異人町にあるガールズバー『Girl’s Bite』に来店していた。八神からの連絡は以下のようなものだった。バーのキャストである女の子が二、三日ほどシフトに入れなくなるらしく、更に別の女の子も同日に穴を開けてしまうとのことで、店の常連客である八神に相談を持ち掛けられたそうだ。
八神からその依頼が来た時は驚いたものの、なまえは快く了承した。実質、何でも屋のような一面を持つ八神探偵事務所の名を、遠方の地である異人町に残しておきたかった。つまり、それは今後の顧客獲得に繋がると見越してのことである。
「しかし、驚いたな。まさかこんな可愛い子と酒が飲めるとは」
「……ありがとうございます」
「ここには初めて来たが、どうやら俺は運が良い」
なまえが初出勤を果たしたガールズバー店内によく知る相手の声が響いた。カクテルグラスを傾けるその男は異人町の便利屋を名乗り、八神だけでなく、なまえとも面識のある人物だった。他の席が盛り上がっているのに対して、その席は大人しい印象を受ける。無理もない、なまえが接客しているのは異人町を縄張りとする桑名なのだから。
桑名の態度から察するに、他人のフリをしてくれているのは分かった。しかし、互いを知らないという体で過ごすこの時間はとても気恥ずかしいものだった。他人を装って名を聞き、初対面のような反応をするだけでなく、桑名からもリップサービスが飛んでくるのだ。同じように応えなければならないのも、気恥ずかしさを加速させていく。
「そんなに緊張しなくてもいいんじゃないか」
「今日が初めての接客なので、」
「まあ、その初々しい感じは嫌いじゃない」
「そう言えば、どうして今日はここへ?」
「風の噂だ。もしかしたら、今夜は可愛い女の子と飲めるかもしれないってな」
「そ、その、さっきから言ってるのって……」
気恥ずかしさに沸騰してしまいそうだった。だから、何かにつけて耳にする『可愛い』の持ち主を聞いておきたかった。そして、もうやめるように言い付けるつもりだった。他人でもない、面識のある人物にそう何度も持ち上げられては仕事にならないと。しかし、なまえが予想していたのと、実際に桑名が見せた反応は全くの別物だった。
「俺は君と飲んでるんだ。他に誰がいる?」
飄々とした様子で、何らおかしいことはないと言いたげな雰囲気だ。すっかりなまえは言葉を失っていた。桑名という男が、こんなにも歯の浮くようなことをすらすらと言える人物だっただろうかと、脳内でぐるぐると思考が巡り巡っていく。その間にも桑名はグラスの中身を飲み干し、次を頼んでいた。酔っている、とは思えない。あの海藤に付き合って飲める相手なのだから、可愛いカクテルグラス数杯分の酒では決して酔わないはずだ。こちらはまだ微量しかアルコールが入っていないのに、妙な熱っぽさがまとわりついている。
「そんな正直に照れてくれるのか」
「真面目な顔して、変なこと言わないでください」
「こっちはからかってるつもりも、冗談のつもりもない」
驚きに言葉が口を突いて出て行った。しかし、相変わらず桑名と言う男は余裕たっぷりに真っ青なグラスを傾けている。
「本気でそうだと言ってるんだ。酒の席だからじゃない、八神が傍にいない今だから言ってるんだ」
桑名の言う通り、なまえは何かと八神や海藤らと共に行動することが多く、滅多なことでもない限り、こうして桑名と二人きりになることはない。なまえの視線が桑名から外れるのを許さない人物がいた。本人以外に他ならない。
「なまえ……、『ちゃん』と呼べばいいか?この店じゃあ」
「はい、それでお願いします」
「もういっぱいいっぱいって顔だな」
「……だって、どう反応していいか、」
「なあに、ただ『ふふ、そうですね』って言って笑ってくれりゃあいい」
「ほんとうですか?」
「ああ、じゃあ試しにやってみてくれ」
わかりました……!と髪を軽く整え、なまえは一度咳払いをし、桑名が言っていた通りに返事をしてみせた。桑名も初めは軽い気持ちでそう言っただけのつもりだったが、いざ本番で彼女にそうされると予想以上に弱かったらしく、ついさっきまで饒舌だったのが鳴りを潜めてしまった。
「……桑名さん?」
「やれば、できるじゃないか」
「へへ、そうですか?」
「ああ、上出来だ。だが、」
俺以外の客にはしないでくれよ。と釘を刺され、なまえは首を傾げる。なんでですか?そりゃあ、俺が教えてやったからだ。じゃあ、別に他の人にも……。それは駄目だ、何かあったら困る。何かあったらって、何があるんですか。それは君だってよく分かってるだろ。
まるでのらりくらりと躱されている会話は程々に、なまえは空っぽになっている桑名のグラスを見て、次はどうかと訊ねた。すると、次の一杯で最後にするつもりだと言われ、なまえは頷いた。
「でも、桑名さんに来てもらえてよかったかもしれないです」
「そうか?どうしてそう思うんだ」
「ちょっとこの仕事に慣れてきた気がするので」
「お役に立てて何よりだ」
「ありがとうございます、桑名さん」
さっきまでの初々しい君の方が良かったんだがな。と笑いかける桑名になまえは、ふふ、そうですか?と返した。最後のグラスは淡いイエローで満たされ、なまえも同じカクテルを一口流し込む。口当たりの爽やかな炭酸の後にフルーツの甘味がじんわりと広がる。このカクテルが好きだと言っていた彼女の気持ちがわかった気がする。
「美味しいですね、これ」
「ああ、そうだな。最後にこれを頼んで正解だった」
「私も同じのにして正解でした」
「君にそういう良くない一面があるのは知らなかった」
それじゃあ、別のヤツを勘違いさせるだけだぞ。といつの間にか飲み干されたグラスがカウンターの上に置かれていた。帰りの気配がしていた。桑名が席を立ち、なまえはそれを目で追っている。
「寂しそうだな」
「帰っちゃうんだなって思ったら、つい」
「ああ、この後少し用事があるんだ」
「それじゃあ、気をつけて」
「君も飲み過ぎには気を付けろよ」
「ありがとうございます」
「またな」
後ろ手を振りながら、会計を済ませた桑名は店を後にする。なまえは名残惜しさを引きずりながら、桑名の残したグラスを片付けようと手を伸ばす。すると、グラスの下に桑名の名刺が一枚挟まっていた。以前、八神から見せてもらったものと同じものだ。初対面という体で話をしていたからだろうか、意外と役者なのかもしれないと名刺を手に取った。何気なく裏返してみれば、裏の余白に達筆な文字でメッセージが記されていた。
『店が終わったら連絡してくれ』
呆気にとられていると、同じ店で働くキャストの子にそのメッセージを覗き見られてしまい、閉店後の展開を期待しているようで、その後はただただやりづらかったのである。
***
キャストの子が期待した閉店後の展開は想像通りのもので、律儀になまえも桑名に電話をかけるものだから、店の外で愛飲している電子タバコに口をつけながら待ち時間をやり過ごしている桑名の姿があった。夜風は冷たい。なまえは駆け寄り、声をかける。
「別に連絡くれなくったってよかったんだぞ」
「じゃあ、私タクシーで帰りますね」
「い、いや、是非送らせてくれ。是非」
「桑名さんがそこまで言うなら」
本当は嬉しいくせに正反対を選んでみる。不敵な笑みをして突っつく素振りをする桑名から余裕が消え、なまえはつんとした表情が今にも崩れてしまいそうなほどに、ささやかな喜びが顔に出ていた。それとなくじゃれ合い、二人は帰路に着く。ぽつりぽつりと言葉をこぼし、時にはまたぽつりぽつりと返し、静かな横浜の街を歩いていく。ため息も吐息も真っ白に滲んで消える。憂鬱な感情は何も無かった。ただ、やけに気恥ずかしい気分だった。
「君があそこにいたのは、あのガールズバーに八神の探偵の勘が騒いだのか?」
「いえ、特別そう言ったことは、」
「そう言う訳じゃないなら、どうして君が」
桑名さんには少し言い難いことなんですけど……。ほう、俄然興味が湧いた。お、怒りません……?俺が怒るようなことなのか。その可能性があるかもって。
なまえは表情を曇らせて、あの店にいた動機を話した。一時的な人手不足であるのと、遠方の地である横浜で『八神探偵事務所』の名と実績を残しておくこと。それが今日なまえがガールズバーのキャストとして働いていた動機だ。桑名は険しい顔で、なまえの両目を射抜いている。
「それは君がそうしたいと思ったからか」
「そ、そりゃあ、お客さんが増えてくれたら、……その、私のお給料も増えるので……」
やっぱり明かすべきではないことだったのかもしれない、となまえは控えめに桑名を見た。桑名は未だ険しい顔でこちらを射抜いたままだ。だが、この重たい沈黙を破ったのは、意外にも桑名本人だった。ぷっ、と吹き出すように笑う様子になまえは反射的に桑名を見ていた。おかしいと言うような顔で体を小刻みに震わせて笑っている。
「そうか、そうか。君は素直なんだな、」
「わ、わたし、てっきり桑名さんを怒らせちゃったかと……」
「相手が八神ならそうなってただろうな。確かに、こういう稼業はあまり大した金にはならない」
俺だって、いつも同じ思いをしてるよ。と滅多に見ることのないような、人懐っこさを滲ませた顔で笑いかけられた。そして、今日はよく頑張ったな。と冷たい大きな手が降ってきては、わしゃわしゃと頭を撫でられた。
「最初は良くない想像をしてた。君が八神のところを飛び出したんだとばかり」
「だから、来てくれたんですか……?」
「ああ。もしそうなら、みょうじくんを引き取って、アイツに逃がした獲物はでかかったと思い知らせたくてな」
「ごめんなさい。変に気を使わせちゃって、」
「気にするな、俺も今日はうまい酒が飲めた」
八神や海藤といる時には見られないような顔をしていた。こんなにも桑名と言う男は柔らかく笑ったり、優しげな視線を向けてくれる相手だったのだろうか。白い息を散らしながら、人の少ない通りを行く。なまえが仕事をしていたガールズバーから横浜九十九課まではそこまで遠くはない。距離が短ければ短いほど、やって来る別れも早く、二人は既に事務所の傍まで歩いて来ていた。そして、事務所一階にあるエレベーターの前で二人は足を止める。
「桑名さん、今日は色々とありがとうございました」
「もうお別れか。名残惜しいな」
「……あの、一応明後日までのお仕事ですから」
「どうした、また一緒に飲みたいのか?」
はい。と返事をすれば、桑名はどこか嬉しそうに笑い、分かった。顔出させてもらうよ。と再びなまえの頭に手を添えた。そして、誰も見ていないと思った桑名はひとつ、思い切った行動をとった。なまえとしては先程のように頭をやんわりと撫でられるものだと思っていた。ぐっと引き寄せられ、小さな温もりが額に触れる。離れた隙に見上げれば、このことは八神には話さない方がいいな。と口止めされ、なまえは暗がりの中、紅潮する頬で頷いた。
「それじゃあ、杉浦くん達にもよろしく言っておいてくれ」
体、冷やすなよ。と最後に髪をごわごわと撫でて、桑名は街の喧騒に溶けて行ってしまった。唇の触れた額をそっとなぞってみれば、今頃になって心臓が臆病に高鳴り始めた。とりあえず、今分かることと言えば、いつまでもエレベーターの前にいては体が冷えてしまうと言うことだけだった。
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