薬指に括った糸が千切れる音を聞いた。今の今までしっかりと結わえてあったつもりの糸は、とうの昔に千切れていたのだとも知った。きっかけはかつてのクラスメイトである彼女からの手紙だった。そこに記されていたのは、桑名仁と言う男の素性についてだ。どうして今更、自分の元に手紙を送ってくれたのかは分からない。ただ、その告白を読んだことで、無理矢理に塞いだ傷口が開くのを感じていた。
最初は混乱して手紙の全文を読むことは出来なかった。しかし、ゆっくりと読み進めていく中で、ぼんやりと頭の奥で浮かんでくる情景があった。学校の教室、図書室の机、顔の見えない誰かの姿。その答えが知りたくて、手紙を読み進めたものの、最終的に辿り着いたのは目を背けたくなるような過去だった。徐々に甦る記憶はかけがえのない大切なものばかりではなかった。当時、話題になったあの事件のことを思い出してからは、全ての大切な思い出が一変して酷く辛いものへと様変わりしてしまった。懐かしい声はつい最近、傍で聞いた覚えがある。優しく頭を撫でる手はこの間、あの人がしてくれていた。真っ黒に塗り潰された誰かの正体を本当は知っている、くせに、信じたくないからとひとりで駄々を捏ねている。
「誰かがきみに俺のことを話したんだな」
その一言で全てが真実なのだと突き付けられた。偽りで、夢で、幻で、勘違いであって欲しかった現実が本当に正しかったのだと、目の前に突き出された気分だ。なまえは桑名の事務所を訪れていた。自分に届いた手紙のこと、そして、手紙に書かれていた桑名仁の正体について、話しておかなければならないと思ったのだ。黙ったままではいられなかった。胸の傷が深くこじ開けられたことで、そこから溢れ出る血がこの喉にせり上がってくる。吐き出してしまいたい、この血が止まるまで。
辺りは惨劇の後と同じく静寂が広がっていた。切り裂かれた胸から血を滴らせる女と、かつて彼女の胸に深い傷を残した男が向かい合い、寡黙でいることを選ぶ。しかし、そうしていられないと彼女が口を開くと、男は痛みに耐えるように真っ直ぐ彼女を見つめていた。
「私は、今のあなたが誰かわからないんです」
あなたは誰なんですか。私の前から居なくなってしまった喜多方先生ですか。それとも、こっちに来てから良くしてくれた桑名さんですか。
漂う沈黙が悲痛で仕方なかった。自分の目の前にいる男は桑名仁の姿をしていて、しかし、かつては思い慕っていた教師である喜多方悠なのだ。どうすれば、いいのだろう。どうやって踏ん切りをつけ、どう決別すればいい。記憶が交錯する。幼い自分に教鞭を執り、学ぶことの大切さを説いてくれたあの人はもう居ないのだろうか。自分とは無縁である土地で融通を利かせてくれたあの人はもう居ないのだろうか。目の前の男の素顔が知りたいと強く心が訴えかけている。避けられない、避けたくない瞬間だった。胸から溢れる血の量は増していく。止められない、止めようがない。出来ることなら、悪い血の全てを出し切ってしまいたいのだ。
「あなたは誰なんですか……?」
「きみが納得するような答えは用意できない」
違う、欲しいのはそんな他人行儀な答えじゃない。なまえは取り乱したくなる気持ちを抑え、もう一度問い掛ける。目の前に佇む男は誰なのかと。答えは、ない。慟哭、喉が潰れそうな程に心が泣き叫んでいた。まるであの日と同じだ。たった一つの答えもないまま立ち去って、ただ時が過ぎるのを待っている。なまえがあの日から、あの頃から待ち続けていたのは『答え』だけだった。何も言わずに去ってしまった背中を、記憶が薄れて消えてしまうまで待ち続けていた。だから、なまえはあの頃の自分に、去って行った喜多方を許してやれるよう、『答え』を聞きたかったのだ。
「私は知りたかったんです。あの一件のせいだって分かってました、でも、直接聞きたかった」
「……酷なことを言うんだな。それは若さ故の行き過ぎたエゴだ」
「今となっては、私が事情を説明してもらえる義理なんてないって理解しています」
──── でも、それくらい喜多方先生は大切な人でした。
なまえは吐血する、切なさと共に。男は狼狽えた様子で見つめている。もし、目の前の男が喜多方悠であったなら、過去の自分と決別するつもりだった。もし、桑名仁だと言うのなら、過去に囚われず今を生きようと覚悟を決めるつもりだった。だが、彼が何者でもないと言うのなら、自分は変わることのないまま、ただ行く末に向かっていくしかない。変わりたかった、記憶を取り戻したからには。記憶の全てが呪いだった訳じゃない。初めて恋をした時の感情は今もまだ鮮明に残っているのだ。だから、全てを終わらせて次に進みたかった。
「俺はきみを都合良く利用していたんだ」
恨まれても、何らおかしくない。
桑名の言葉は普段とは違い、鋭利で冷たく、無感情で刺々しかった。なまえは自分に突き刺さる棘を一つずつ抜きながら、男に歩み寄る。
「それには何か事情があったんです。そうでもしなきゃいけない理由が」
「きみにそんなことまでわかるのか?きみがそこまで聡い人間だとは思ってなかったよ」
「どうして、突き放そうとするんですか、」
「俺だってお人好しじゃない。出来が悪ければ、例え、教え子だろうと突き放すさ」
本心で言っているのではないと思った。両手を力強く握り締めて、震える手を隠しているのだと知っていたからだ。それに記憶喪失を患っている自分と重ねた時間が教えてくれる。優しい瞳で見守っていてくれたのは、紛れもなく桑名本人だったのだと。そこに偽りがあるのかもしれない。だが、それら全てが偽りだなんて悲しいことを喜多方がするはずがないのだ。出来の悪かった自分に根気強く寄り添ってくれ、懸命に励ましてくれていたあの人がそんなことをするはずがないと。しかし、もう今日は疲れてしまった。これ以上、摩耗してしまうのは耐えられなかった。
「……今日はもう、帰りますね。長居してすみませんでした」
「なら、送っていこう。もう辺りも暗い、何かあっちゃ困るからな」
「ひとりにして下さい。ひとりが良いんです」
「駄目だ、みょうじくんをこんな遅い時間に一人で帰せない」
ひとりになりたいんです。と逃れるように出て行くつもりだった。桑名が最後に投げ掛けた言葉に足を取られるまでは。
「なら、勝手にさせてもらう。ただ、俺が勝手に着いていくだけだ」
散々、突き放すようなことを言っておいて、どうしてそうしてくれるのだろう。涙が落ちる前になまえは外の夜闇に溶け込んでしまいたかった。泣き顔なんて見てしまったら、あの人はきっと傷ついてしまうと。だからこそ、急いで夜に飛び込んでいく。通り魔のような冷たい風が頬を切りつけていても、お構いなしだった。悪血はまだだらだらと垂れ流しのままだ。
いたい、いたかった。でも、それ以上に自分が頼りなかった。強引であったなら、彼を丸め込めたのだろうか。いや、何枚も上手である彼にそれは通用しないだろう。だとしても、何かは変えられたのだろうか。答えも明日も見えない夜道には二人の足音だけが響く。
***
居た堪れない距離感の中、自宅に着くまでになまえは過去を振り返っていた。ようやく思い出せた三年間という膨大な時間を一つ一つ、取り出しては胸の奥にしまい込んでいく。変哲のない学園生活だったと思う、喜多方悠と出会うまでは。苦手だった科目を頑張ろうと思えたのも、良い結果を出したいと思えたのも、いつも喜多方という存在がいたからだ。ある時、綺麗な字だと褒められたことがあった。それは密かに努力していた自分が報われるような瞬間だった。その時から初恋は始まっていたのかもしれない。しかし、初恋は実らない呪いにかけられており、なまえもまたその内の一人でしかなかった。
一つを取り出せば、更に一つが繋がって取り出される。どうして今、他人行儀で接しているのだろう。悔しかった、答えがなければ前に進めないと足踏みをしている自分が。出来ないのなら、終わりにしてしまえばいいのに、それすらも出来ないと嘆いている。今ほど強く叱って欲しいと思ったことはない。先生、と名を呼べない自分は、後ろを黙って着いてきてくれる彼に甘えている気がした。
それから、二人はその距離を縮めることなく、帰路の終わりを迎えた。なまえは家の扉の近くで足を止めると、桑名に礼を告げて振り返りもせず、ドアノブに手をかける。桑名もなまえの言葉を聞き終えると、即座に踵を返し、遠ざかって行った。足音は二つ。一つは帰路についたもの、もう一つは歩き始めて直ぐに立ち止まってしまい、足音は聞こえなくなっていた。扉の前で桑名の背中を黙って見送っていた。まだ家に入りたくないからとレザーの背中を見えなくなるまで、見つめていた。
「先生、」
意図せず唇が裂けたのだと知った。ずっと胸の内で抑えていたものが一人になって初めて、顔を覗かせる。よく頑張ったと労ってやりたいが、今は溢れる涙に急いで口元を強く押さえることしか出来ない。聞かれたくなかった、弱い自分を。学生の頃から何も変わっていない、幼い自分を。ぼろぼろと涙だけは饒舌にこぼれ落ちていく。止め方を知らなかった。嗚咽すら飲み込み、肩を震わせて目を閉じる。酷く震えが止まらないのは、一人きりになってしまい、今頃になって風に切られた傷が痛み出したからだろうか。
「何やってんだろうな。俺も、きみも」
顔を見上げるより先に引き寄せられる。硬いレザーの胸元に収まり、寂しげな外の香りを嗅いだ。そこに居たのは、自分を無理に突き放そうとする誰かではなく、よく知る優しい誰かだった。
「本当にきみは昔から何も変わってないんだな」
他人のことばかり気にして、自分のことを後回しにするのは良くないと教えただろうに。切ない声を聞いた。もっと自分に正直になるんだ、その方がずっと楽だぞ。優しい教えを聞いた。もう相手の正体に固執する悪血は抜け切ったのかもしれない。かつての人は消えてしまったかもしれないが、こうして自分の泣き顔を隠してくれるこの人が『答え』なのではないかと思えた。
「やっぱり放っておけない。どんなに突き放そうとしても、自分の大事な教え子が苦しんでいるのに放ってなんかおけない」
懐かしい手のひらが頭を撫でる。過去の過ちを悔いているのが感じ取れるが、なまえはその手のひらがとても優しく繊細なものであるような気がして、密かに彼の背中へと腕を回し、抱き締めた。すると、彼の頭を撫でる手が鈍る。何を思っていたのだろうか、またすぐに同じことを繰り返しては平静を装っているのだろうか。しかし、その手が何度も撫でる度になまえには押し寄せる感情があった。満潮のように水位を高めては両目からとめどなく感情を逃がし続けている。
「行かないでください」
何年越しの悲願だろうか。あの日、言えなかった言葉をなまえはようやく吐き出せた。胸の奥に鋭く突き刺さって、簡単には抜けなかった幼さの欠片をようやく。縋り付きたい、この腕の中にいる分にはきっと何処にも行ったりはしないだろう。だが、恐ろしいのだ。離れてしまった隙に、ほどけてしまった隙に、彼が居なくなってしまいそうで。約束は聞こえてこない。腕の中にいることだけを良しとされている。
「……もう、ひとりで行かないでください。何も言わずに、」
──── わたしを、置いていかないで。
女の言葉に男は酷く狼狽していた。今までで一番深く突き刺さった言葉だったのだろう。男は悲痛な表情で女を抱き締める。もうここまで来てしまったのなら、と思う心境はある。だが、それは共に救いのない地獄に至る道を歩かせるのと同じことだ。だからこそ、男は女を無理矢理にでも突き放し、縁を断ち切りたかった。しかし、男は女の回した腕を解けずにいて、このまま連れ去ってしまいたいとさえ思ってしまった。
「俺と一緒じゃあ、幸せにはなれないと言うつもりだった。でも、結局言えず終いだ」
全く酷い教師もいたもんだ。きみもそう思うだろ。嘲笑する、まるで自らの行いが無意味であったかのように。初めて男は人間味のある泥臭い笑顔を浮かべた。一人の教え子にすら良いところを見せられない己を恥じるように。男は問いかける。三度、口を開き、彼女の答えを待つ。
「置いていかないでと言ったな。なら、きみは突然何もかもを捨てることになっても構わないか」
暗闇に泣き濡れた瞳が男の話を聞いている。
「俺のしたことを知らない訳じゃない。それでも、きみは一緒に歩んでいくことを厭わないか」
涙がぴたりと止む。濡れ羽根色の睫毛が僅かに揺れる。
「そして、どんな結末になっても、きみは俺を信じてくれるか」
次に男が彼女の顔を見た時、男は息を呑んだ。今まで自分の腕の中で子供のように泣いていた彼女が凛とした瞳で自分を見ていた。幼さの翳りは鳴りを潜め、みょうじなまえという女が自分を真っ直ぐに見つめていた。その顔を見てしまった以上、男にとって答えは不要だった。もう一度きつく抱き締めると、今度は男が縋り付くように呟く。
──── 中華街の波戸通りにセイレーンというバーがある。もし、きみが望むなら、明日そこに来て欲しい。
そこでもう一度、話がしたい。と添えた男に女は返事をした。僅かな抱擁も寒空の下ではただただ頼りない。男は女を、女は男を愛おしいと思っているが、どちらもそれを伝えることが出来ない。だが、女は先に進もうと決意する。その名を呼んだのだ。今まで掴めずにいた男の存在を。名前を呼ばれた男は、女にそれで良いのかと訊ねる。すると、もちろんです。桑名さん。と今の自分をなぞってくれた彼女に桑名は真っ直ぐに吐き出した。
「もう、どんなことがあっても置いて行ったりはしない。きみに火の粉が降りかかろうものなら、俺が必ず振り払ってやる」
だから、明日、セイレーンで待ってる。きみが、みょうじくんが来るまで待つ。と最後になまえの両肩に手を置き、凍える唇を重ねた。涙の匂いのする彼女の悲しみを拭えればいい。例え、気休めであっても。桑名の思いに順応するかのように、なまえも凍える唇を重ね、悴む夜を繋ぐ。すぐに奪われてしまいそうな熱を分け合い、二人は明日への帰路に着く。桑名と別れた後のなまえは喜多方への思いを飲み干し、体の奥底に眠らせようと試み、桑名はなまえから与えられた温もりを掠め取られてしまわぬよう、足早に夜の中を通り過ぎていく。
翌日、無事にセイレーンで落ち合った二人はいつか来る未来について話し合った。決して平穏と安寧の約束されたものではないと承知の上で。何処までも果てしなく続く茨の道を行く覚悟を決めなければならないと。二人はセイレーンで互いの将来を結ぶことにした。その瞬間をマスターに立ち会ってもらい、特別にと出された日本酒を三度、口にする。なんて粗末な婚礼だろうか。しかし、二人にとってはそれで充分だった。
もう人並みの幸せを望むことは出来ない。もう人並みの人生を生きていくことは出来ない。もう人並みの家庭を築き上げることは出来ない。諦めや犠牲にするものが多い将来にどれほど価値があるのだろう。すまない、と桑名は言った。なまえは首を横に振り、今日は人生の中で一番良い日です。と桑名の手を握り締めた。マスターは人知れずに席を外すと、彼らが歩かねばならない常闇に、この世の中の残酷な仕打ちに、ただ胸が詰まりそうになった。
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