街の素知らぬ風に髪を靡かせ、弾むような足取りで闊歩する彼女はやけに清々とした顔をしている。物騒な街である神室町を自由気ままに、ご機嫌に通り過ぎていく様に隣にいた東は困惑していた。普段見る顔と全く違う彼女の変化に、困惑しながらも胸の奥がほんのりと暖かく染まっていく。初めて見た、なまえが無邪気にはしゃぐ姿は。
「東くん、次公園のブランコに乗りたい」
「ったく、あちこち連れ回しやがって……。次はブランコか」
「でも、付き合ってくれるって言ったのは東くんでしょ」
「誰がここまで連れ回されると想像出来たよ」
「今日だけだから、ね?お願い」
なんで俺も断れねぇかな。と肩を落とした東の顔を覗き込むと、……見んな。と顔を背けられ、なまえは不安そうに名を呼んだ。すると、その不安そうな声に引っかかったのか、東は急いで視線を元に戻し、ダメとは言ってねぇだろ……!と慌てた素振りで口にした。しかし、いざ目の前にあるきょとんとした顔のなまえに、東は自分の思い込みだったと更に落胆していた。
「もしかして、私が泣きそうだって思った……?」
「……うるせえ、紛らわしい声出すな」
「優しいね、嬉しくなっちゃうくらい」
「勝手に嬉しくなってろ」
「じゃあ、東くんも私がうれしがってるって勝手に思っといて」
なんだそりゃあ。とにかく、さっきのが嬉しいってこと。わからねぇ理屈だな。感情で生きてますから。フッ、そうか。
二人にしか分からない関係がある。それは傍から見れば、恋人のようであり、友人のようであり、兄妹のようであり、幼馴染のようであり。利己的な都合が良いだけの関係ではない。互いの変化は些細なものでも読み取れ、その関係は東が極道からカタギになったことで更に軟化していた。元ヤクザ上がりのゲームセンター店長を連れ出していたのは、昔からカタギであるみょうじなまえという女だった。
それは突拍子のないもので、初めは東を酷く困惑させた。だが、店長一人を連れ出したところで何ら痛手はない現実に、東は重い腰を上げてなまえに付き合うことになった。理由は聞かなかった。だが、彼女が突然シャルルに現れ、今から付き合ってと子供が駄々をこねるように誘いに来たこと自体が初めてだった。あとは彼女の勢いにたじろいでしまい、聞けず終いのままだ。
なまえが東の手を取り、どんどん先に進んでいく。普段の彼女は年相応の大人びた雰囲気の女性だ。だとしても、東と会う時には多少砕けた態度をとったりもする、ごく普通の女性だった。それが何故、突然普段の仮面を剥がして自分と一緒にいるのか。そして、どうして自分だったのか。ヤクザ上がりの自分よりまともな堅気の人間など、彼女の周りにはたくさんいるだろうに。疑問は底なしだ。だが、結果として自分が選ばれた事実はどことなく気分が良かった。つまりは、何処の馬の骨とも知れない輩に彼女を任せておけないのだ。正しくこれは優越感そのものである。
「ブランコ乗ったら、ご飯食べに行かない?」
「おい、マジでどこまで付き合わせんだ」
「すぐ近くの牛丼屋さんは?」
「馬鹿、お前にそんなもん食わせられっか」
「え、私、牛丼好きだし、普通に食べるよ」
「そうかもしれねぇが、」
「じゃあ、東くんはどこに連れてってくれるの?」
そりゃあ、M SIDE CAFEとかだろ。東くんの口からそのお店の名前が出てくるなんて、意外。あのなぁ……。でも、そういう場所に連れていきたい相手ってことでしょ?なんか照れちゃうな。……変な深読みすんな。
東の意識は常に繋いだ手にあった。細い指であるのに、しっかりと自分の手を掴んで離さない。力いっぱいにではなく、ただ重なっているだけなのに、それはまるで磁石のように離れ難いのだ。だが、彼女が自分に意外な一面を見せる度に、複雑な思いを抱いていた。彼女の今日はいつもと、どこかしら食い違っており、それが作用して彼女に現実逃避をさせているのではないかと。
「どこほっつき歩こうが、今日はちゃんと付き合ってやる。だから、遠慮すんじゃねえ」
「じゃあ、やっぱりブランコじゃなくてカムロシアターに行きたい」
「なら、別の道行かねぇとな」
「怒らないの……?突拍子もねぇこと言うんじゃねえ、って」
「帰りたくねぇってんなら、付き合うしかねぇだろ」
「か、帰りたくないとは言ってないよ……!」
「こうやって時間稼ぎしてるっつうことはそうだろうが」
不意に彼女の心を叩いた気がした。開かずの扉を数回ノックするのとよく似ている。鍵のかかった扉が開くのを待っている気持ちだった。どんなに目の前ではしゃいでみせても、分かるものがある。言葉では上手く説明できないが、翳りには匂いがある。寂しげな匂いだ、一人きりで夕暮れの中を歩いている時の風の匂いのような。雑踏で溢れかえる街であろうと、個々の抱えるものまでは隠し切れない。
いつの間にか繋いでいた手を引いていたのは、彼女から自分に変わっていた。カムロシアターに行きたいと言っていたのに、足取りは重たいように感じる。それでも、カムロシアターの正面入口から中に入ると、すかさずエレベーターに乗り込んだ。手前に喫煙所があると知っていながら、今は彼女を優先したくて仕方がなかった。寂しい匂いを煙草の匂いで誤魔化したくない。二人きりで乗り込んだエレベーターは窮屈だった。周りに誰もいないのに、重たい静寂がそのスペースを埋め尽くしている。ただ、手だけは離さなかった。仮に誰かとすれ違おうとも、この手を離すつもりはなかった。
屋上に人の姿はなかった。中央に位置する噴水が悠々自適に水音を立て、壁沿いの緑はライトアップされているお陰で鮮やかなままだ。せせらぎが静寂の夜に流れて行く。中庭に立ち入り、二人は誰のものでもないベンチに腰掛けると、背もたれに背中を預ける。
「で、今日は何があった」
「何がって、なに」
「お目当ての場所に来たってのに、全然嬉しそうじゃねぇからな」
「それは、」
「言えねえってんなら、無理に聞くつもりはねぇけどよ」
でも、他人じゃねぇんだぞ。お前と俺は。
なまえは瞳を揺らす。この一言が彼女の心をより強く叩いているが、感情の機微までは読めない。しかし、彼女が何かを伝えたそうにこちらを切羽詰まった目で見たのを東は見逃さなかった。
「たまに、あるの。なんとなく落ち込む日が」
「じゃあ、今日がそうなんだな?」
「うん。だから、勝手に東くんを連れ回しちゃってごめんって思ってる」
「まあ、流石に何も無いとは思ってなかったからな」
「でもね、明日には」
──── 明日には元気になるから、だから、もう少しだけ付き合ってください。
切実な声が彼女から聞こえて来た。無理矢理くっ付けていた無邪気さはとっくに剥がれ落ち、彼女は不安な素顔をさらけ出した。その素顔があんまりにも綺麗だったから、東はそっと水音に紛れてなまえを抱き締めた。抱き寄せられた事実に、なまえは顔をくしゃくしゃにしながら、ありがとうと呟く。
「他人じゃねぇんだ、俺達は。なら、頼ることの何が悪いってんだ」
誰も居ない空間が心地よかった。人の目を気にせず、泣くことが出来、相手を思う存分抱き締めてやれる。こんなに大切な時間は滅多に訪れないものだ。だからこそ、東はどんなに時間がかかろうともなまえが立ち直るまで傍を離れず、なまえもまた情けないくらいに縋り付いては胸中を吐露する。頭を撫でても、頬に触れても、彼女はまだ立ち直れない。自分だって彼女の支えになりたいとは思う。しかし、本当に自分で良いのかと迷う心もある。
「俺のことは気にすんな。俺だって、女の涙を受け止められるくらいの器量はあるつもりだ」
「東くんってさ、すっごく優しいからつい甘えちゃうんだろうなって思ってる」
「別に悪いことじゃねぇ」
「そう、かな。誰彼構わず甘えられたら、嫌じゃない?」
「俺だって相手くらいは選ぶ。でも、今はそんなの気にすんな」
今は自分のことだけ考えてろ。と顔を胸に押し付けられ、不意に心臓の音を聞いた。寄り添いながら、耳を当て目を閉じる。とくん、とくん、と繊細な音を立てて、心臓は命を刻んでいた。心音を聞いていると、まるで通じ合えたような気分になり、なまえは穏やかな気持ちで涙が止まるのを待った。その間、東はどんなに辺りが冷え込もうと、人の姿を目にしようとも、彼女を抱き締めるのをやめなかった。東が見たかったのは、彼女の綺麗な笑顔だった。その為なら、取り留めのない話にだって耳を傾ける。無意味に時間を潰されようとも、彼女に付き合う覚悟だ。こういう所がヤクザに向かないと散々言われてきた理由なのかもしれない。
「ごめんね、たくさん泣いて」
「すっきりしたんなら、それでいい。謝んな」
「あの、ね、」
「ああ?」
東は自分の耳に届いた声に目を丸くする。泣き濡れた女はやや腫れた目でこう口にしたのだ。ありがとう、庇ってくれて、と。あどけなさの残る素顔には大人の余韻が残る。所々剥がれた化粧さえ気にならないほど、なまえは綺麗な素顔をしていた。それが男の役目ってもんだ。と返せば、困ったように笑っていた。しかし、どことなく嬉しそうにも見えるのだから、酷く情が移っている気がした。
「次からは電話の一本くらい寄越してから来い」
「今日は少し強引だったね、ごめん」
「そうじゃねえ。事前に連絡くれりゃあ、俺だって何かしてやれるだろ」
「……私のために?」
そう言い直されてしまうと弱い。だが、今は変に強がる気分ではなかった。誰も居ないのを良いことに、自分でも歯の浮くような言葉ばかりを選んでしまった。東となまえは決して他人ではなく、こうして呼ばれれば付き合う仲だと言うこと。そんな関係を築いているのだから、弱味くらいいくらでも見せればいいと言うこと。そして、最後になまえが立ち直る為なら、自分に出来ることは何でもしてやりたいと思っていること。言い終えた後、東は口を閉ざしていた。勢いにつられて、たくさんのことを打ち明けてしまったからだ。まともになまえの顔が見れないでいる。
「ねえ、東くん」
名を呼ばれて振り向いた。息が止まる。瞬きを忘れて、穏やかな彼女の匂いが鼻先をくすぐるのを黙って受け入れていた。すぐ触れて離れたのに、未だに動けずにいる。彼女は伏し目がちに黙り込んでおり、遅れて同じように接する。下から触れて、どこにも行かないように頭に手を添え、今だけは自分勝手でいたかった。すぐに触れて、すぐに離れる。
「馬鹿、そういうのはそういう奴としろ」
「それは東くんも同じでしょ」
「……俺ぁ、いいんだよ」
「そっか」
せせらぎの間に小さな笑い声が響いた。泣き濡れていた顔が一気に喜びに染まっていく。もう、大人だもんね。私たち。おう、言い付け通りにしなきゃいけねえ歳じゃねぇよ。……それじゃあ。なまえは柔らかな唇で紡ぐ。
「いつか、東くんとそうなりたい」
「……え?」
「いつか、東くんの彼女になりたいってこと」
「……えっ?!」
そんな驚かなくてもいいのに。と笑って流そうとするなまえの両肩を掴み、マジで言ってんのか……?!と迫れば、……え、本当に驚いてるの?と困惑した返事が返ってきて、何とも言えない空気が広がる。
だって、キスまでして何にもならないなんてこと、ないでしょ?え、あ、いや、これは……。まさか、勢いだけでしたなんて言わないよね……?あ〜……、っと、悪ぃ。ひ、東くんって軽い人だったんだね、信じられない!ンなわけねぇだろ……!確かに勢いでしちまった部分はあるが、俺だって本気で……!……本気で?
売り言葉に買い言葉の末に、二人は再び黙り込んでしまった。どちらとも顔を真っ赤にしながら、自分の言った言葉の意味を何度もなぞらえて、確かめている。湿った空気は一変し、やたらと気まずい雰囲気が流れていく。もうここには長居出来そうにない。
「……この後、どうしよっか」
「とりあえず、メシでも食いに行くぞ」
「そう、だね。お腹減ったし、」
「……下のM SIDE CAFEでいいよな?」
うん、と頷いたなまえと目を合わせると変に恥ずかしさに駆られ、先に席を立ったものの、手を引こうかどうか迷っていると、なまえの方から手を重ねられ、二人は静かにその場を後にした。エレベーターの中では焦れったい沈黙に包まれたが、それ以上の進展は見込めなかった。そして、店に着いても尚、まるでデートのようだと意識してしまえば、もうその後は何をやっても同じだったのである。
| ならば、雑踏に消えてしまおうか |back