男性的でありながら、細長い指がそっと自分の手に触れる。そして、適度に整えられた自爪にたっぷりと刷毛にバイオレットを絡ませ、器用に爪を塗っていく。余白を塗り潰していく様はつい見入ってしまうくらいに、相馬はなまえの指先を彩るのが得意だった。サロンで施されるほどのクオリティを求めないなまえからすれば、自分でも出来ることを任せてしまうのはどこか申し訳なかった。しかし、たのしそうに指先に触れてくれる相馬に、最近は遠慮することも減ってきたほどだ。

「なまえさんは綺麗な手をしてる。男の俺でも惚れ惚れするくらい」
「そんなことないですよ、乾燥の時期には荒れちゃいますし」
「へえ。じゃあ、次はハンドクリームでも塗ろうか?」
「いえ、そこまでしてもらわなくても……!」
「いいの、いいの。どうせ俺も今は暇してるからさ」

 相馬となまえは偶然にも神室町で出会った。それ以上、特筆すべきことはない。時折、出会す相手と言葉を交わす機会に恵まれ、気付けば相手に心を許すまでに近い距離感になった。それだけの事だった。なまえは俯きがちな相馬の目線を密かに追う。下向きの睫毛の隙間から、自分の指先を見つめて一心に取り組んでくれている姿を見ると、胸は怯えた。恐怖ではない、脈を少しずつ乱れさせる耐え難い恋の怯え。触れた指先から伝わる体温にさえ、鼓動はいとも容易く乱れてしまう。嵐のようだった、早くこの怯えが立ち去るのを待ち続けている。あまり、悟られて欲しくないもの故になまえは唇を閉ざす。
 相馬和樹は優しい男だった。言葉を交わす度、自分のことばかりを気遣ってくれ、相談にも快く応じてくれたほどだ。そして、疲労した心に労りを注ぎ込むことを欠かしはしなかった。惹かれていた、みょうじなまえは相馬和樹に惹かれていた。相馬は気付いているのだろうか、本当は自分の心中など全て見通していて、甘やかせてくれているだけなのかもしれない。それでも、こうして相馬の部屋に呼ばれるのは嫌ではなかった。寧ろ、と思う感情があるのだ。帰りたくない、と口にするのははばかられた。自分の気持ちを押し付けて迷惑に思われたくない。恐ろしいのだ。恋することも、嫌われてしまうことも。


「そうだ、前言ってたヤツってどうなった」
「ああ、職場の人のことですか?」
「そうそう、それ。なまえさん、困った人がいるって言ってたじゃない」
「えっと、最近は見かけてないですね」

 お休み、されてるだか何だかで職場に来てないみたいです。へえ、そりゃあ何でまた。私も分からなくて。でも、神室町で見たとか言ってる人もいるらしくて。
 なまえの職場にはあからさまに嫌悪感を抱く人物がいた。その人物の過度な誘いや過度なコミュニケーションにうんざりしていたのだが、何せ同じ職場の同僚と言うのだから、さらに厄介だった。ある時、なまえは相馬にその人物の愚痴をこぼしてしまった。疲れからぽろっと口を突いて出た愚痴を、相馬は嫌な顔ひとつせず、なまえの気が済むまで受け止めてくれた。今の自分が気負い過ぎず、やって行けるのは相馬のそう言った細やかな優しさのおかげだと信じている。

「じゃあ、これでなまえさんは気分良くお仕事出来るわけだ」
「そうですね……、ちょっと気にはなりますけど、」

 ふう、と指先を撫でる吐息に、なまえは言葉を失う。マニキュア液を乾かそうと相馬の薄い唇から漏れた吐息がなまえの意識を奪う。寒色の照明に照らされた相馬の肌が青白く浮かび、しかし、薄い唇には僅かに暖色が乗せられ、その色味のコントラストの最後に自分の指先のバイオレットが添えられる。見蕩れていた、俯いた相馬の前髪が視線を遮る様子からも目が離せなかった。相手は自分のバイオレットを丁寧に仕上げようと指先から目が離せず、自分はその相手の愉しそうな姿から目が離せない。

「もし、また何かあれば聞くからさ」
「ありがとうございます」
「俺もなまえさんの助けになれればいいんだけど」
「それじゃ、相馬さんが疲れちゃいますから」
「いいよ、別に。少しくらい疲れたって」

 ぐ、と手をやんわりと掴まれた。引きずり込まれそうな錯覚に陥る。相馬はもうなまえの指先に目もくれていない。ゆっくりと二人の間に垂れた糸を巻き取るように、相馬は見えない距離を詰めていく。初めは余裕のあった糸が次第にギリギリと張り詰めた音を立てて、相馬の手中に収められる。ピン、と張りのある糸はなまえを相馬に近付けさせ、悪戯に至近距離を許してしまった。
 ほら、綺麗に塗れてると思わない?戯れを紡ぐ。艶やかなバイオレットはムラを許さず、なまえの爪に乗せられている。しかし、その綺麗に施したバイオレットを指の腹で乱雑にこそぎ取っていったのは、相馬だった。指が汚れてしまうのも構わず、目を見つめ続ける相馬になまえは名を呼ぶ。相馬は視線を外さず、どうかした?と至って普通に返事をする。ぐにゃりと歪み、中途半端に乾いていたマニキュア液が汚く剥げている。部屋の空気感が変わっていることにようやく気付き、間接照明の寒色がより冷めた色味で相馬を照らす。

「ああ、ごめん。また最初からやり直さないと」
「あ、あの、大丈夫ですから、」
「大丈夫だって言う割には様子がおかしい」
「おかしくなんて、」
「逃げ出したい?」

 逃げ出したいだなんて物騒な言葉を、相馬の口から言わせるつもりはなかった。ただ、肌を伝うじめっとした空気感に違和感を覚え、距離を取りたかっただけだった。でないと、このまとわりつくような空気に飲まれてしまう気がして。切実に訴えかけると、相馬は自分の話を嬉々として耳を傾けていた。何かを推し量るような眼差しに居心地の悪さを感じ出した頃、掴まれていた手を放された。悪いね、なまえさんを怖がらせるつもりじゃなかった。と精巧な青白い肌の顔を曇らせて、近くのサイドテーブルにあるコットンと除光液を手にする。ツンとした香りが鼻につき、相馬は真白を濡らしていく。

「俺が入れ込んでるのはなまえさんだけでね」

 除光液を含んだコットンが剥げた指の爪にそっと宛てがわれる。ひんやりとした感触、独特な匂いを嗅ぎながら、なまえは相馬の言葉の意味を考えていた。時折、サイドに逃がされた前髪の隙間から相馬の瞳がこちらを見ている気がする。俯いている時間が多いせいで、逃がした前髪は下に垂れてしまう。

「じゃなきゃ、こんなことしない」

 コットンの表面にバイオレットが滲む。するり、と表面を拭い取り、置き去りにしていた刷毛でもう一度、なまえの自爪に色を乗せる。さっきのは気の迷いだったのだろうか。だとしても、そのような相馬を見るのは初めてだった。何度、この部屋に通っていても今日この時まで見ることはなかった。何を思っているのだろう。どうして、彼は自分を部屋に呼び、毎回丁寧にこの指先を彩ってくれるのだろう。

「相馬さんは他にこういうことをする人っているんですか」
「いや、いないね。誰にでもやってあげる訳じゃない」
「この部屋に呼ぶのも……?」
「さっきも言ったでしょ。俺は今、なまえさんに入れ込んでるって」
「それって、」
「本当はさ、帰ってほしくないんだよ」

 相馬が何気なく吐いた一言に深く切り付けられた。帰ってほしくないと口にしたせいで、都合のいい恋慕は今にも暴れだしそうで、不覚にも断たれたアキレス腱を喜ばしいと思っているのだから、質が悪い。帰ってほしくない。その言葉はこの部屋を去る時の名残惜しさを感じている自分にとっては甘い囁きだった。もし、そうしてもかまわないのならそうしてしまいたい。だが、この囁きに溺れてしまっても良いのだろうか。足元に押し寄せる波は今にもこの足を掬ってやろうとその手を伸ばしている。

「あの、そんなこと言われたら、私」

 帰れない、です。
 心臓が胸の奥で痛いほどに高鳴る。今はまともに相馬の顔も見れやしない。告げてしまった本心に、逃げ出したい気持ちに駆られていたが、それと同時に知りたくもあった。こう告げたなら、相馬はどんな反応を見せてくれるのか、と。呼吸も僅かながら乱れ始め、なまえは口を噤む。相馬は依然、自分の指先ばかりにかまけている。待ち続けることは出来そうにないと思った。期待と不安が交互にやって来るのだから、大人しく待っていられない。相馬さん、と急かすような声で名を呼んでしまったのは申し訳ないと思う。

「わかった」

 たった四文字を受け入れられる。一体、何を受け入れられたのだろう。相馬はなまえを見ず、爪の出来栄えを見ている。気が付けば、波は膝下まで押し寄せていた。後は攫われるだけなのかもしれない。なまえは深く息を吸う。高く押し寄せる波は、膝から胴体までをあっという間に飲み込んでいく。相馬は涼しげな顔をしている。しかし、相馬がジャケットを脱いでみせた時、なまえは自分の恋慕が臆病に震えていることに気付いた。

「それじゃあ、今夜はゆっくり過ごそうか」

 身軽な装いになった相馬は再びなまえの指先に手を添える。相馬の手は冷たいものだった。それとは真逆で自分は発熱が止まない。この部屋、暑い?と訊ねられ、視線を相馬に合わせた瞬間、両目が鈍く光るのをこの目で見た。遂に潮は満ち、女の体は深い波間に連れ去られてしまった。
 攫われたバイオレットは今宵、蛇の背なに深く爪を立て、深い水底に落ちていく。



| 海蛇と満潮 |


back