今となっては、心配以上に勝るものがなかったと思う。当時は少しだけ荒んでいたのだが、自分より荒んでいた桑名の姿を見てしまってはそうではいられなかった。口元に血を滲ませ、頬や額には大小問わずの生傷を拵えてきた彼は事務所に戻ってきてからも、怒りを完全には抑え切れていなかった。険しい表情と怪我の理由を問えば、きみだ。と言われ、意味が分からず詳細を訊ねた。

「今日、街でアイツに会った。きみをこっぴどく振ったアイツに」
「そう、ですか」

 なまえはこの頃、恋人だった男と関係を解消した。理由は相手都合の自分勝手な理由だった。なまえは勿論、相手のことを大切にしていたが、相手は仕事の忙しさ故に顔を合わせられないと常々言っていた。しかし、蓋を開けてみれば他所に女を作り、自分達のタイミングで別れを切り出したのだった。その際、なまえは怒りで相手を問い詰めたが、相手からの酷い言われように消耗し切ってしまい、そのまま破局となっていた。
 なまえと桑名は馴染み同士だ。だから、破局した日、なまえは衝動的に桑名の元へ駆け込んでいた。涙を拭ってもらいたかった訳じゃなかったが、本当はそう思っていたのかもしれない。泣き崩れるなまえの姿に桑名は怒りを覚えつつも、時間が許すまで寄り添うことを選んだ。だが、こうなった状況を見て、やはり桑名の怒りは眠りになどつけなかったのだ。

「でも、こんな怪我までして」
「そりゃあ、派手に殴り合ってきたからな」
「な、殴り合ってきたって、」
「アイツと殴り合いの喧嘩をしてきた」
「何してるんですか……!」
「もし、あの場で何もしなかったら、俺はみょうじくんに合わす顔がないと思ったんだ」


 桑名が言うには、伊勢佐木ロードで元恋人である男を見かけたのだそうだ。その場には男の知人が数人ほど居合わせ、桑名は男を尾行することにした。なまえのこともある、黙って通り過ぎることは出来なかったのだと。そして、尾行していて分かったのは新しく出来た女のことと、別れた女の笑い話だった。喧嘩のきっかけは、男が口にしたなまえへの侮蔑で、一分とも経たずに桑名は男に殴りかかったのだと言う。なまえは桑名のとった行動に、自分を捨てた男に対してため息を吐いた。

「……そんなの、相手にすることないのに」
「それは出来ない」
「言わせておけばいいんですよ。それで桑名さんがこんな怪我する必要なんてなかったのに、」

 キッ、と鋭い眼差しと強い言葉が自分に飛んできた。桑名はまだ苛立ちを抱えているようで、語気の荒い様子は今まで一度も見たことがなかった。

「アイツは何も分かっちゃいない。きみがどれだけアイツを大切に思っていたのかを」

 どうして、自分のことでそこまで怒ってくれるのだろうか。なまえは桑名の真剣味を帯びる瞳に相槌を打てずにいた。

「俺が知っているきみの良さを、アイツはひとつも分かっちゃいないんだ。そう思ったら、黙っていられなかった」

 一番すぐ近くできみを見ていたからな、余計に我慢なんて出来るわけがなかった。
 徐々に怒りが萎んでいくのを目の当たりにしていた。心配かけて悪いと思ってる。とまで口にした桑名のことを責める気にはなれず、なまえは急いで救急箱を取りに立つ。沈黙は重たく気まずい。未だに玄関口に腰掛けたままの桑名の隣に腰を下ろすと、バツの悪い顔をした桑名を横目に救急箱を漁る。

「本当に何もするつもりはなかった。ただ、勝手に首を突っ込んだ結果がこれだ」
「桑名さんは良かれと思ってやってくれたんですよ」
「いや、これは俺の我儘だ。トラブルなんて巻き込まれないに越したことはない。きみにとっても」
「……私はそこまで出来ませんでしたから」
「みょうじくん、」
「私の代わりに怒ってくれたんですよね、桑名さんは」

 箱から薄手のガーゼを取り出し、流しで適当に濡らしては桑名の傷付いた肌にそっと押し当てる。なまえは困ったような笑みを浮かべて桑名を見ていた。自分ではそう出来なかったと明かしたなまえに、桑名は何かを決心したかのように強い光を宿した瞳で口を開いた。汚れを拭っていた手は止まる。

「俺なら、きみに何かを諦めさせたりしない」

 桑名の真っ直ぐな言葉から逃れるように、ぎこちなく手を動かせば、もう一度口は開かれる。

「きみに悲しい顔をさせたりしない。俺なら必ず、」

 きみを大切にする、この世の誰よりも。
 こんな時、ふとあの嫌な男の顔が過ぎった。確かに桑名の言っていた通り、出会してしまったなら何もせずにはいられないだろう。なまえは今頃遅れてやって来た怒りを宥めようと大きく息を逃がした。やるせない気持ちは加速する。しかし、負傷した桑名にどこか救われる思いだった。

「ありがとうございます。私も今になって、一発くらい殴っておけばよかったって後悔してます」
「みょうじくんの分まで俺が殴っておいた、だから安心していい」
「ねえ、桑名さん」
「なんだ、」
「さっきの言葉の意味、教えてください」

 もう二度とあのような思いをしたくない一心だった。自分の差し出せる大切と釣り合わない相手とは二度と関係を築きたくないと強く願う。だが、怪我を負ってまで自分のことを優先してくれた男をもう馴染みとしては見れなくなっていた。桑名は関係が続いていた頃から何かと気遣い、手を添え、背中を何度も押してくれた相手だ。時折、俺にしとけば良かったんじゃないか。と軽口を叩いていたのが懐かしい。そして、今になってその意味に気付くなんて、自分はなんて浅はかなのだろうか。

「今まではきみの為に遠くから見守ることを選んだ」
「桑名さん、」
「だが、もう何にも気を遣わなくていいなら、俺は二度と誰かにきみを譲ったりはしない」
「……今まで、ごめんなさい」
「俺はよく出来た人間じゃない。きみが思うほど立派な人間でもない」

 ──── それでも、あんな奴よりかはきみを大切にしてやれる。
 傷だらけの姿を見るまで、自分の心は全く彼に靡きはしなかった。関係のあった男よりもひたむきに思ってくれていた人のことを、何も分かっていなかったのは自分も同じだった。馬鹿だとこぼせば、その口を塞がれる。衝動的だった、唇を塞がれたのも、引き寄せられたのも、受け入れたことも。抵抗する気はなかった、塞いでくれたのをいいことに許されるまで甘んじてしまおうとさえ考えた。
 だが、そんなことはすぐに忘れて、離れるまでの間は何を考えていただろう。両肩に置かれた手の温もりが心地良い。しかし、長くは続かないそれを惜しむように重なりはほどけた。漂う沈黙に何も言い出せない。酷く弱った時間だと思った。傷付いた男と胸を裂かれた女が二人寄り添って、傷を癒そうとしている。桑名は先に、すまないと口にした。なまえは首を横に振る。

「きみは馬鹿なんかじゃない。アイツとの幸せを大切にしてただけだ」
「でも、桑名さんのことを思うと、」
「俺のことはいい。皆気付かないもんなのさ、いい男の条件が何かを」
「それって桑名さんのことですか、」
「ああ、俺は好きな女の幸せを第一に願える男だからな」

 そんな男をみょうじくんは易々と逃がすのか?引く手数多なんだ、もたもたしてられないぞ。
 いつもの調子に戻った桑名の言葉に、なまえはようやく破顔する。弱り切った心が少しだけ前を向く。照れ隠しで頬の傷に触れれば、痛っ……!と聞こえて来て、急いで手を離す。ごめんなさい……!と顔を覗き込むと、もう少し優しくしてくれないか……。と苦々しい表情で言われてしまい、返す言葉も見つからない。

「出来れば、前向きに考えてくれ」
「……考えてみます、前向きに」
「言っておくが、俺はきみの分までアイツを殴っておいたんだ。多少の優遇はしてくれるだろう?」
「そうですね、返事はこの傷が治ったらにします」

 まずはしっかり怪我を治さないと。と消毒液を染み込ませたガーゼを肌にくっつける。すると、思っていた以上に染みたようで、い……っ!と歯を食いしばって懸命に耐えている桑名がいた。悪いが、手早く済ませてくれ。と珍しく弱々しい声を聞き、もう一度しっかりと桑名という男を見つめることにした。とにかく不器用で、大切な誰かの為なら自分が体を張ることになっても構わないと思える、そんな男のことを。



| 継ぎ接ぎ |


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