突然、開かれた部屋の扉の前で佇む人影になまえは目を丸くしていた。本来なら来るはずのない相手がそこに立っており、こちらを安堵した表情で見つめ、近付いてくるのだから。状況が理解出来ず、どうして、とこぼせば、あぶねえところだったな。と両肩を掴まれ、目の前で笑い掛けられ、余計に混乱する。ここは神室町にあるラブホテルの一室だ、なまえが今晩対面する相手は海藤ではなかった。


 経緯を聞いてみれば、全く意外な話を聞く羽目になった。神室町をふらふらとしていた海藤はどうやら暇を持て余していたらしく、行く宛てもなく時間を潰せる場所を探していたのだそうだ。そんな手持ち無沙汰の海藤の前に飛び込んできたのは、見知らぬ男に連れられてホテル街へと消えて行くなまえの姿だった。以前、恋人はいないと言っていた彼女の発言を思い出し、海藤の野生の勘は良からぬ展開を察知したのだとか。そして、尾行してみれば二人はホテルに入っていくのだから、たまったもんじゃないと海藤もその後を追ったらしい。
 なまえは部屋に通されてすぐ、一緒にいた男が退室するのを目にしていた。フロントに呼び出されたとか何とかで、なまえだけが広い部屋に取り残されたのだ。それから彼を待てども一向に戻って来ない。不安を覚え、携帯で連絡をとろうとした時、この部屋に海藤が現れたのだ。待っていた彼の代わりに。

「え、じゃあ、あの人は……」
「お灸を据えといたぜ、キツめのな」
「あの人は今どこに?」
「しっぽを巻いてさっさと逃げちまったよ」
「……うそ、」

 ったく、なまえちゃんも誰彼構わず着いてくんじゃねえ。と海藤は溜め息を吐く。海藤が誤解していると分かったのはすぐだった。海藤は、自分が悪い男に誑かされてホテルに連れ込まれたのだと思い込んでいるが、本当のところはそうではない。胸の奥で膨らんでいた何かが萎れていき、終いには罪悪感が顔を覗かせていた。
 なまえが力なくソファーに腰かければ、海藤も心情を察して傍に居てくれようとしていた。申し訳なさに拍車がかかる。今だけは優しくされると辛い気持ちだった。今夜の予定は彼と過ごすつもりだったのだ、海藤が誤解していた悪い男と共に。理由は底知れぬ寂しさを埋めてもらう為だった。ぽっかりと穴が空いたかのように寂しさに襲われる時がある。最近も同じ状況に陥ってしまい、そんな現実から逃れる為に彼と出会うことを選んだのだ。こんなみっともない私情を八神や海藤などの知人達に明かせるはずがなく、だからこそ、海藤は誤解をしてしまったのだろう。


「……なまえちゃん、マジなのか、その話」

 なまえは海藤の目を見れなかった。誤解を解くには全てを話す必要があった。だが、全てを明かした今、自分が築いてきた誠実さが脆くも崩れ去ったのを目の当たりにしていた。この話は誰が聞いても良い顔をしない類のものだ。それを自分に良くしてくれた海藤に聞かせるしかなかったのだから、ひたすらに泣きたい気分だった。大切なものが胸の穴からすべてこぼれ落ちてしまった気がする。
 海藤は時折、何か言いたそうに唸ってはいるものの、中々言い出せずに沈黙に流されていた。自分もこれ以上は何も言えないと口を噤んでいる。色々なことが頭に浮かんで消えた。今後のことや嫌な目に遭わせてしまった彼のこと、海藤との付き合い方や距離感、仕事のことまでも。衝動的だった自分を恥じてはいたが、どうにも詰め切れずにいた。寂しさを抱えていたのは事実で、それをどうにかして埋めて、平凡な日常を歩みたかった。自分しか自分の弱さを見つめることは出来ない。だから、この件で海藤に八つ当たりすることも、自分を最後まで責め続けることも間違っているような気がした。

「なあ、この後はどうすんだ」
「どうって、」
「アイツは多分だが、ここには戻って来ねえ。……俺が痛めつけちまったからな」
「今日はもう、誰とも会いたくないのでここに残ります」
「ひ、一人でか……?」

 気まずそうな顔が見えた。海藤としては、まさか自分が誰かの予定の邪魔をしてしまったとは思っていなかったのだ。だから、一人きりの女のことを気にかけてくれている。ありがたかったが、同時に虚しくもある。大丈夫ですから、海藤さんは何も気にしないでください。と告げるのが精一杯の気遣いだった。あとは夜が明けるのをここで一人寝て待てばいいだけなのだ、その間に孕んだ翳りと向き合う必要はあるが。海藤はまだ答えを出せずにいる。もう一言、大丈夫だと添えるつもりだったが、それは突如として口を開いた海藤の言葉に遮られてしまう。意を決した顔で海藤は自分を見ている。

「……わかった、」

 もうそこに唸っているだけの海藤の姿はない。しかし、なまえも穴の空いた胸に手を伸ばす言葉を吐かれるとは思ってもみなかったのだ。穴を塞ぐようにその手が重なり、触れる。目に見えない風穴を優しさだけで塞ごうとしている。

「こうなっちまったのは俺の責任だ。だから、俺もこの部屋に残るぜ」

 海藤はソファーの背もたれに深く体を預けていたが、なまえとしてはひとりで過ごしたい気分だった。海藤がいては、泣くに泣けない。惨めな夜だと自分を戒めることも出来ない。取り乱しながら、なまえは海藤に疑問を投げ掛けた。

「だ、だからって海藤さんまで残らなくても、」
「いいや、俺がなまえちゃんの邪魔をしちまったからいけねえ。なら、俺はここに残るべきだ」
「私は大丈夫ですから、海藤さんは帰ってください……!」
「俺は意地でも帰らねえ。なまえちゃんに恥かかせてんだ、しっかり詫び入れねぇと気がすまねえ」
「……もう、海藤さんはヤクザじゃないんだから、そういうのいいですって」

 いや、よくねぇ。な、なんで急にそんな強引なんですか!俺が決めたことだ。この、わからず屋……!ゴリラ……!何とでも言いな、なまえちゃんの喧嘩は買わねえ。
 全く取り合ってくれない海藤をこの部屋から追い出すことは出来ず、なまえはその場で身軽な格好になると、ベッドに潜り込んでいった。もう寝てしまおうと思ったのだ。海藤に後は好きにしていいと告げ、なまえは先にベッドに横たわり、目を閉じた。サイドテーブルに置かれたランプの暖色だけを明かりとして、部屋の照明をまとめて落とす。海藤のいるソファーからは小さな悲鳴が聞こえてきたが、好きにしていいと言われているからか、それ以降は特にこれといった行動はせず、狭そうなソファーに横たわり、黙り込んでいた。黙り込んだ時間は膨大で、その流れは遅く感じさせる。気まずさに耐えかねたのか、暇に耐えられない性分からか、海藤はなまえに呼びかけた。

「なあ、まだ起きてるか」

 いつもより張りのない声に、なまえは目を開く。眠れるはずがなかった。海藤一人を置いて、自分勝手に眠ることなど。起きてますよ、と返せば、ソファーの布地が擦れる音が聞こえ、海藤は体を起こしたようだった。

「そっち、行ってもいいか」

 本当は拒んでしまっても良かった。しかし、だだっ広いベッドに一人きりというのは、意外にも寂しいものだったのだ。良いと口にすれば、薄暗がりの中でのそっと大きな影が動き出す。そして、足音と共にベッドサイドへと近付くと、もぞもぞとシーツに潜り込む。そして、なまえを気遣うように背を向けて、ごろんと横たわっていた。なまえは密かに目線で海藤を追っていた。傍に寄っても良いとまでは言えず、もう一度深くシーツを被る。今だけはこの距離感の方が居心地がいい。

「なまえちゃんは、……こう言うのはもう何回もしてんのか」

 ひび割れた胸元をなぞる言葉に、なまえはすぐに言葉を返せず、遅れてから胸の内をより詳細に明かしていった。

「いえ、今日が初めてでした。でも、今日ほど耐えられないと思ったことも、今までありませんでした」
「そうか」

 海藤は心底、安心したと言うような声音でなまえの告白を受け止めていた。それがあんまりにも安心し切ったものだったから、ふと聞いてみたくなった。どうして、そこまで自分のことのように心配してくれるのかと。すると、今度は海藤が遅れて口を開いた。

「そりゃあ、心配するだろ。なまえちゃんにはいい恋愛をしてもらいたいと思ってる」
「そんな、親みたいなこと」
「いや、結構マジだぜ、俺は。なまえちゃんみたいな子が、自分を削るような真似をしてんのは見てらんねえんだ」

 もし、ろくでもねえ男に捕まった時は俺がソイツにナシつけてやる。だから、安心して良い奴見つけて欲しいと思ってんだよ、勝手にな。
 ベッドの端にある大きな背中越しに聞こえる言葉がひび割れた胸元の隙間を徐々に埋め、繋ぎ止めてくれる。シーツを掻き分け、なまえは何も言わずに海藤の背中に自分の体を寄せた。背中に感じるものがあったのだろう、海藤は振り向くのを止め、そのまま背中を許していた。ツヤのある橙と散りばめられた花々が目に突き刺さるシャツはやはり肌触りがいい。言葉を飲み込み、頬を寄せていると、海藤に名を呼ばれ、なまえは小さく返事をする。

「なあ、もっと良い方法があるんだが、」
「良い方法、ですか……?」
「おう。バッチリの良いやつだ」

 海藤曰く、寝返りを打ってほしいとのことだった。ぐるり、と暗転する視界を回転させれば、すぐに包み込まれる感覚がした。しっかりと抱きかかえられているようで、なまえの背中にぴったりと海藤の体がくっ付いている。そして、大きな腕が腹部に回されて初めて、自分が後ろから抱き締められていると知った。ぐっと引き寄せられ、後ろめたい気持ちも垂れ流しになっていた寂しさも力強く掻き消されていく。

「こっちの方が寂しくねえ」
「……海藤さんも寂しいの、苦手ですもんね」
「まあな。でも、俺よりなまえちゃんだ」
「そうやって、優しくされると弱いです」

 俺もだ。と口にした海藤となまえ、その二人が体を寄り添わせているのに、心の根元にある寂しさだけが掬い切れない。だが、肌が触れている間だけは安心していられた。寂しいけれど、穏やかでいられる静寂の中で二人は寂しさを埋めるように囁き声で言葉を交わす。海藤の低い声が耳に聞こえる度に心地よく微睡む。温かな手で添えてあることで抱く安心感は計り知れない。
 このまま、溶けてしまえたらいいと思った。寂しがり屋の都合のいい、夢見がちな妄想だ。勝手に人恋しさを募らせて、勝手に寂しさに蝕まれて、勝手に隙間を埋めようとした。しかし、結局のところ、自分の隣にいて欲しいのは彼だった。かいとうさん、と情けない声で呼べば、大丈夫だ。俺がついてる。と優しく抱き締められた。ありがとうは言えなかった。微睡みの先へと手を引かれてしまったせいだ。


***


 自然と目を覚ませば、いつの間にか海藤と向かい合って横になっていた。まだ外は暗い。腕の中にすっぽりと収まっての目覚めはここ最近で一番良いものだった。まだ眠りに落ちている海藤の胸板に顔を寄せる。筋肉質な彼の肉体は見た目の通り、がっしりとした印象を受ける。しかし、一定間隔で鼓動する心臓の音を聞いていると、彼もまた自分と同じ人間なのだと当たり前のことを再認識して、密かに安心する。確か、数年前に脇腹を銃で撃たれたことがあると言っていた。そっと指先を這わせ、シャツ越しに脇腹に触れると、眠っているはずの海藤の声が聞こえ、慌てふためく。

「……くすぐってえ、」

 急いで手を引っ込めれば、海藤は寝起きのあどけない顔でなまえを見た。どこかおっとりとした雰囲気が漂い、男らしさと言うよりかは子供のような幼さを彷彿とさせる表情をしていた。そして寝起き故か、言動に理性がまだ作用していないようだった。

「もういいのか?」
「……少し落ち着きました」
「そりゃあ、よかった」
「ありがとうございます」
「また何かあれば、俺でよけりゃ付き合ってやる」
「でも、迷惑じゃありませんか……?こんな、」
「ここは神室町だ。寂しさに誰かを宛てがう夜なんざ、誰にだってある」

 たった一日の夜が辛い奴らにとってはそれが救いになってんじゃねえのか。それに皆、朝が来たら綺麗さっぱり、何事もなかったかのように呑み込んじまう。それなら、俺もそうするだろうよ。
 だから、もうあんな真似はやめてくれ。と最後に迫られ、なまえは目を閉じ、海藤の胸元に顔を寄せた。そして、小さく返事を返すと、海藤から嬉しそうなため息が聞こえ、再び二人は眠りに落ちていくのである。



| 寂しさの上手な付き合い方 |


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