陽だまりの街に春がやって来た。春の訪れを告げるのは、櫻川通り沿いに植えられた街路樹だ。細い枝先に淡い薄紅色の花を付け、風に揺れている。その風景を眺めていると、後ろから声が聞こえてきた。生活感丸出しの事務所でなまえは窓越しに遠くの春を眺めていた。今日も便利屋桑名に仕事はない。携帯で何気なく、桜の満開予想を調べて見ればもう見頃であると知ってしまった。もう一度だけ声が聞こえて、ようやく振り向けば出ていた便利屋が戻って来ていた。おかえりなさい。ただいま。静かな事務所に自分と彼の声が交差する。彼は自分の椅子に深く腰掛けると、すぐに寂しげな口元に電子タバコを添えた。
 外の風と埃の中を歩いて来た香りを受け止めながら、なまえは先程開いたばかりの桜の満開予想を教えてくれるページに視線を戻した。横浜の異人町も桜前線に差し掛かっているようで、余計に淡い花びらの中が恋しくなる。確か、去年は夜に二人で桜を見に行った。だが、時期外れの桜は既に花を散らし、これから来る夏に向けて衣替えを済ませた後だった。春先は何かと恋しく思う時期だ。例えば、少し前のことやもっと前のこと。ひらひらと風の中を舞い、あちこちに泳いでいく薄桃色を見ていると、自分の積み重ねた出会いと別れをなぞりたくなる。詩人ではない、ましてやロマンチストなどでは。ただ、物思いに耽るのには丁度良い季節だった。

「もうすっかり春ですね」
「ああ、特に櫻川通り沿いは歩いていて気持ちがいい」
「私もお散歩してこようかな」
「俺は別に散歩に出てたわけじゃないぞ」
「じゃあ、何してきました?」
「巡回だ。俺はこの街の古参なんでね、仕事のネタを探すには足を使った方が早い」
「お仕事、ありましたか?」
「……これから呆れるほど来るさ、」

 やっぱりお散歩じゃないですか、それ。それは心外だな。仕事はなかったが、代わりに良いものは持って来た。桑名は突然懐を漁り、そして次に事務机の引き出しを漁り、茶封筒を一枚取り出すと懐から抜いた紙幣を詰め込み、なまえに向けて差し出した。その光景には流石のなまえも無関心ではいられず、どうしたのかと訪ねる前に桑名の事情を察する。

「もしかして、また賭場に行ったんですか」
「今日は馬鹿ほど勝ってきた」
「私、てっきり将棋しに行ってたのかと」
「あのジイさんも桜に誘われて、仲間と花見に行ったのか留守にしててな」
「まあ、そんなに勝ってきたなら、遠慮しないでいただきますけど、」
「そうしてくれ。あと、きみに一つ仕事を頼みたい」
「私にですか?桑名さんは?」
「忙しくなけりゃ、付き合ってやれる」

 忙しいんですか?……こういう時、素直に付き合ってくださいって言えないのか、きみは。あんまりにも忙しいなら、杉浦くんとかに手伝ってもらいますけど。いや、やっぱり俺が行く。
 他の誰かの名前を挙げると、途端に桑名は前のめりになる。そう言った意図はなかったのだが、そう言う意味では何とも分かりやすい相手だと思った。そして、実際のところ仕事はないのだから、やはり二人でやらなければならないことに変わりはなかった。内容について話を聞けば、所謂買い出しであり、その話の大元を辿れば春という季節が大きく関わっているようだった。

「毎日、もの憂いげに春に片思いしてる子がいるからな」
「そんな可愛いものじゃないですよ」
「じゃあ、窓の外を見て何を考えてるんだ」
「仕事ないなあ、とか。今日はあったかいから眠たいな、とか」
「そんな退屈な一日に刺激を与えてやる」
「ふふ。お花見行きたいなら、そう言えばいいのに」
「素直じゃないのはきみも同じだろ?」

 二人は急いで外出の準備を始める。ちなみに今日の資金は三万だと言われ、なまえは桑名に何が食べたいかを振る。この間、作ってくれた無限キャベツってのは美味かったな。桑名さん、本当にずっと食べてましたもんね。それに酒にも合うしな。飲み過ぎないようにしてくださいね。それは約束できない。
 春の足音を追うように事務所を後にする。あたたかな日差しの中で冷ややかな風が吹く。春はあたたかであるくせに、ひややかでもある。しかし、それをものともせず、二人は贔屓にしているスーパーを目指す。櫻川通り沿いを歩きたいと言えば、少し遠回りをすることになるが構わないと桑名は了承する。街の日陰から誘われていくなまえは浮かれていたように思う。何故なら、傍にいた桑名も浮かれていたなまえを見て、内心春の到来を喜んでいたのだから。


 しなやかな枝先がたくし上げた、柔らかそうな桜の羽衣の下をくぐってしまえば、日差しと共に薄桃色の雨が降る。頬撫でる春の息吹に包まれながら歩く櫻川通りはその名の通り、美しい道だった。寂れた建物が並び、ひび割れたアスファルトが敷かれていようと季節は等しくやって来ては、次の季節を手招くのだ。陽光が燦々と降り注ぐ道を春風や花びらに手を引かれて歩いていく。日中を準備の時間に充て、出掛けるのは夜になるだろうとぽつぽつと予定を立てながら歩く道は懐かしさを秘めていた。まるでどこかに遠足に行くと知った時の子供の頃を思い出す、そんな懐かしさだ。

「どうしましょう、お弁当食べたいですか」
「俺は酒とつまみさえあれば良いと思ってたんだが」
「そうですね、夜桜はお弁当って言うよりお酒って感じですもんね」
「みょうじくんがどうしても、と言うなら、次は明るい時間に行けばいい」
「じゃあ、次は張り切って作りますから、九十九くんや杉浦くんも呼びましょうか」
「ああ。みょうじくんにとっても可愛い後輩だからな、あの二人は」

 春先の風は時折、強く吹く。そのせいで羽衣は淡く千切れ、アスファルトにはさらさらと桜の波が押し寄せる。渦を巻くように流れ、集まったかと思えば容易く散らされる。どこを見ても小さな花びらが自由気ままに漂っていた。その景色の中にいると、やはり浮き立つ気持ちが勝ってしまう。足取りが軽やかであればあるほど、周りの景色が足早に流れていく。刹那に春を想うより、この春に攫われぬようにと伸びてきた手に足を止める。彼がこんなことをするとは思わず、その意外さに彼を見つめていた。

「楽しそうなのは何よりだが、俺のことを忘れてないか」

 桑名は片手をジャケットのポケットに突っ込み、もう片方の手をなまえと繋いでいた。まるで子供を相手にしているかの表情に、ムッとなる自分がいたが、手を繋いだ桑名のどこか嬉しそうにも見える表情に免じて、なまえは口の端を持ち上げる。

「お仕事ない日はこうやってお散歩しましょうよ」
「夏場はしんどいだろうから、勘弁してくれると助かる」
「夏になったら海に行きたいです」
「おいおい、それは散歩の域を越えてるだろ」
「社員旅行とかどうでしょう」
「散歩したいんじゃなかったのか?」
「楽しい想像はいくらしてもいいんですよ」

 そうだな、たまには付き合ってやるか。と考え込んだ桑名が言い出したのは、キャンプとかどうだ?とこれまた好奇心をくすぐる提案だった。なら、バーベキューもしたいです!それは早くて夏頃だな。あと、ナイトプールとか……!日中のプールじゃ駄目なのか?夜だからいいんじゃないですか。だったら、車でも借りて海に行く方がいいんだがな。楽しい想像を重ねれば重ねるほど、不思議と明日が、未来が待ち遠しく思える。すると、突然意味深なことを口にするせいで、なまえの意識は桑名に向いてしまう。

「杉浦くんや九十九くんには内緒でな」

 どうしてかと聞いてしまいそうになったが、二人きりの時にそう訊ねるのは無粋なように思え、そうですね。とだけ答える。次の瞬間にはまるで照れた少年のような顔をしている桑名と出会し、なまえは繋いだ手の心地良さを噛み締めていた。桑名は時折、少年のような顔を見せることがある。その頻度はあまり高くなく、本当に稀だ。だが、なまえは桑名のその顔がとても好きだった。自分だけが見られる特別なものだからではなく、桑名がありのままの自分をさらけ出せている瞬間のように思えるからだ。自分の感覚が正しいのかは分からない。けれど、長く隣にいるといつの間にか相手の考えていることが自然と分かるようになる。きっと自分もそれくらい長く、彼の隣にいられたのだろう。
 桜の羽衣は無慈悲にも散っていく定めだ。次に彼女達の足元を通り過ぎる時にはもう夏の装いをしているのかもしれない。新緑の美しい快活な葉をたっぷりと身に纏って、日照り、蝉が羽を揺らして謳歌する生、夏を奏でるのだろう。肌を焦がす暑い夏の吐息に今度は何が恋しくなるだろうか。ほんの少しだけ寂しい街路樹に彼の背中を重ねるかもしれない。枯葉色の景色に攫われてしまう夢かもしれない。

「でも、やっぱり海は外せませんね。水着選ぶのも楽しいですし、」
「水着か。露出が多いのは正直、気が乗らないが」
「今度、一緒に見に行きましょうね」
「きみは夏に向けてダイエットとかは大丈夫なのか」

 桑名の何気ない一言がなまえの繊細な部分に突き刺さる。悪意はないのだろうけど、それでは余りある体型だと遠回しに言われているようで心外だった。

「わ、私はこう見えても脱いだら凄いんです……!」
「ほう」
「桑名さんの方こそ、最近は飲んでぐうたらしてばっかりだったから、絞っておいたほうがいいんじゃないですか」
「心配されるまでもないさ、俺だって脱いだら凄いんだ。みょうじくんが愕然とするくらいにな」

 言っておきますけど、私の目は肥えてますからね……!それは俺だって同じだ、みょうじくんだけじゃない。既にお互いに火がついてしまったようで、引っ込みがつかないところまで来てしまっている。夏へと続く導火線に火をつけてしまった二人は絶対に相手を見返してやると決意するのだった。しかし、夏の海辺に足を踏み入れた二人が互いの姿を見て、熱視線を外せなくなるのはもう少し先の話である。

 したたかに渦巻く春の中を二人は敢えて誘われていく。互いが本心に対して寡黙過ぎるが故に。異人町の四季に染まる景色は美しいと二人は知っているからこそ、春の風に吹かれ、夏の呼び声に誘われ、秋の寂しさに身を寄せ、冬の温かさを分かち合うのだろう。今はまだ春の途中、次はからっと晴れた爽やかな夏の空が二人を待っている。



| 春嵐 |


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