旅立ちの知らせは確かに届いていた。それは全てが終わりかけの頃で、後追いすら許されない現実に打ちのめされてから、今は随分落ち着いたような気がする。違和感の始まりは、突然言い渡された長期休業の連絡だ。便利屋稼業に長期休業など無意味なことだと分かっていたが、有無を言わせない声音に何かが起こっているのだと悟ることまでは出来た。しかし、それからは連絡を取ることも、接触することもままならなかった。確か、その頃である。異人町に見慣れない半グレのような男達を見かけるようになったのは。
街のあちこちで大小拘わらず事件の噂を聞く機会が増えるにつれ、内心の迫る不安に拍車がかかっていた。嫌な予感だけはいつもよく当たる人間だ。人の目を盗みながら、彼の事務所を訪ねる。潜入するのは容易かった、元々彼の下に籍を置いていたのだから。だから、自分がこの事務所に入るのは当然で、中はよく知る生活感の漂う一室になっているはずだと扉を開けて絶句する。異常とも言えるほどの物の荒れ具合に、即座に踏み込まれたのだと分かった。そして、ここで初めて不安がすぐそこまで迫って来ているのだと気付いた。
気付いてからの行動は早かった。いや、遅すぎた到着から巻き返したい思いの裏返しだった。行方の知れない彼が縫った跡を探し、同じように辿ろうとする。しかし、自分は彼ではない。ましてや、残された手がかりから何かを推測出来るような人間でもない。向かった先は、彼の後輩である杉浦と九十九がいる横浜九十九課だった。そこでなまえが杉浦達から聞かされたのは、桑名仁という男の過去と、今の彼を取り巻く状況について。嘘だと返したかったが、彼らの沈んだ顔を見てしまってはそんな無責任な言葉を言い出せなかった。
「なまえさんには辛い話かもしれない」
「明日、八神氏達は桑名さんの所へ向かうそうです」
申し訳なさそうに杉浦と九十九は明日についても話してくれた。何も隠さずに、自分達が喜多方という男を止めに行くのだと、はっきりと言い切って。なまえは考えるまでもなく、桑名のこと、どうかよろしくお願いします。と頭を下げた。自分が首を突っ込んでいい話ではないのだと、すぐに理解してしまったからだ。それなら、今まで輪の外に追い出されていた意味も分かる。当の本人が居なくなってから、その真意に気付かされる。誰もが経験することのある、密やかな優しさに泣きたくなった。だが、涙は見せず、なまえは目の前の二人に頭を下げ続けていた。
***
桑名が迎えた結末は、彼の満足のいくものだったのだろうか。納得は出来ただろうか。いや、出来ていないような気がするが、例の複数の遺体が匿名の通報によって発見された件を聞いてしまうと、本当のところは分からない。
便利屋、桑名仁が異人町から姿を消して数ヶ月は経とうとしている。事業主の不在な便利屋は、実を言うと今も存続していた。代理の事業主兼社員が現れたからだ。前々から汚かった事務所はこれを機に綺麗さっぱり片付けてしまった。かと言って、勝手に物を捨てた訳では無い。ただのゴミはさっさと捨ててしまったが、それ以外はしっかりと取っておいてある。いつ戻ってくるか分からない誰かを待つのは退屈だった。もしかしたら、戻ってくるという選択肢もないのかもしれない。だが、そこは自分にとって大切な場所だと言うことに変わりはなかった。
今の自分が見ている景色は彼が見ていた景色、なのかもしれない。便利屋と言うだけあって、舞い込んでくるのは突拍子もない、些細な困り事ばかりだ。だからといって油断していると、一人では到底手に負えない案件がやって来るのだから、人の気まぐれに踊らされる職だと思った。そんな時は素直に杉浦達の手を借り、依頼をこなしていたりする。
桑名仁が不在の便利屋で、その代わりを務めているのはみょうじなまえだった。桑名のことを託した翌日、やはり彼は日付けが変わる瞬間まで事務所には現れなかった。杉浦が言うには、自分のことを伝えてくれたそうだが、きっと合わせる顔がないから来なかったのだと思う。便利屋を継いですぐは苦労の連続だった。彼がやっていたことの全てを自分一人でこなさなければならなかったのだから。しかし、不思議と投げ出したくなったりはしなかった。彼の姿が記憶に焼き付いて消えないからだろうか。そして、なまえも桑名の姿をなぞるように働いていると、置いていかれたなどと独りよがりなことを思わずに済んだ。
「本当におめでとう、なまえさんも一人でよく頑張ったね」
「ううん、私だけの力じゃないよ。杉浦くんや九十九くんが助けてくれたから」
「お褒めに預かり光栄ですぞ〜!なまえさんから感謝はされど、褒められることは滅多にありませんゆえ」
「あ、九十九くんも褒めて伸びるタイプ?」
なまえの姿は横浜九十九課にある。入口付近のソファーにはなまえの他に杉浦と九十九の姿があり、テーブルにはホールケーキと缶チューハイが置かれていた。つい最近、なまえの勤める便利屋の依頼件数が三十を越えたことへの祝いの席だった。ホールケーキの上に乗せられたプレートにも『依頼30件突破!』と書かれており、事務所はすっかりお祝いムードである。
「まさか、僕もなまえさんが便利屋を継ぐとは思ってなかったから嬉しい」
「確かに。なまえさんの思い切りには僕も驚かされました」
「そんな大層なものじゃないよ。後先考えないで始めちゃったところあるし、」
「それでも、今のなまえさんの方が活き活きしてて僕は良いと思うけど」
乾杯を先に済ませた三人はそれぞれ、チューハイに手をつけたり、紙皿の上にある切り分けたケーキに手をつけたりと自由に過ごしていた。九十九は携帯でこの日を祝う瞬間をカメラで切り取ろうとし、杉浦は何気なくチューハイを傾け、なまえは主役の特権であるプレートを食んでいる。突然鳴ったシャッター音に、三人は九十九の携帯画面を覗き込み、おかしな写り方をしていないか入念にチェックしていた。
「うん、バッチリ撮れてるね」
「あとでこのデータは二人にも送っておきます」
「じゃあ、明日印刷して持ってくるよ」
「お〜、いいですな。お祝いの写真は何枚あってもいいものです」
「ちゃんと立派な写真立てに入れとくからね」
それから三人は昔話に花を咲かせながら、ケーキをつつき、チューハイを流し込み、場がお開きとなるまで歓談を絶やさなかった。気分はほろ酔い、誰もが楽しい時間を共に過ごせたと満足している。しかし、ディープな時間まで付き合わせたくないと、今夜はもう解散することとなった。時刻は九時過ぎ、ざっくりとした片付けを終え、なまえは横浜九十九課を後にした。すると、杉浦と九十九も一緒になって事務所を離れるものだから、ありがとう。と返すと嬉しそうに二人は笑っていた。
ひと気のない暗い夜道を一人で歩かせたくないとこっそり明かしてくれた二人には感謝しかない。そんな気遣いが身に染みると、便利屋事務所までの道を辿っていく。
「……桑名さん、今頃どうしてるんだろ」
「それは分かりませんな」
「杉浦くんが折角、私のこと伝えてくれたってのに薄情だよね」
桑名はあの日、姿を見せることなく町を出て行った。身近にいた自分にでさえ、何も告げることなく。選ばれたのは自分ではなく、八神という神室町の探偵だった。本当は腸が煮えくり返るほどに悔しかった。今の今まで傍に置いておいて、便利屋稼業ですら好きにさせておいて、薄情な男だ。恨み言は誰にも言わなくていいと夜風に溜め息として逃がす。今日は杉浦と九十九が自分の為にパーティーを開いてくれた嬉しい日なのだから、最高の気分を邪魔されたくなかった。
「でも、桑名さんはなまえさんのことを大切にしてたはずだよ」
「うん、わかってる。大丈夫、ありがとうね」
「なまえさんにしか分からないものはたくさんあることでしょう。我々が知っていること以上になまえさんの方が桑名さんに詳しいのです」
「やだなあ、それじゃあ私が桑名さんのこと好きみたいじゃない」
違うの?と涼しげな顔で問いかける杉浦の言葉を躱し、杉浦氏、女性に秘密はつきものです。と九十九が不敵に笑う。みょうじなまえが桑名仁のことを好きだったかどうかなんて、きっと誰もが分かっていたことだろう。ここにその事実を書き連ねなくとも、それは一目瞭然なのだ。
心が寂しさを漠然と感じ始めた頃には三人は便利屋のある中央通り西に来ていた。事務所の階段下までやって来ると、なまえはようやく、また明日ね。と別れの言葉を口にした。それじゃあ、明日写真待ってるからね。と杉浦の言葉に、笑みを浮かべてなまえは大きく頷くと、手を振りながら階段を上っていく。杉浦達もなまえのことを見送りながらその場を後にする。そして、杉浦が先に一つを思い出す。
「なまえさんの嬉しそうな顔、あの人が前に好きだって言ってたんだよね」
「ええ、そうでした。確かに桑名さんが好きだと言うのも分かる気がします」
ほんっとにあの人も悪い人だよねえ。杉浦が呟いた言葉は夜の闇に吸い込まれ、音もなく消えていった。
***
杉浦達と別れてすぐ、なまえは事務所の入口前に立っていた。バッグを漁り、事務所の鍵を探している途中だった。お気に入りのキーケースに繋がれた鍵を取り出し、押し込んでみればすぐに違和感がやってくる。まるで、もう既に解錠されているかのように鍵はくるりと回る。まず疑うのは、自分が鍵をかけ忘れたかどうか。次に疑うのは、事務所に空き巣が入り込んでいるかどうか。自分で対応出来るか分からないから、と予め携帯に『110』と打ち込んでおき、恐る恐る扉を開ける。薄暗い闇の中に人の姿は見えない。気のせいだったのだろうか、といつものように中へ入ると、不意に外の匂いがした。
まるでついさっき、この事務所にやって来たかのような、埃っぽい外の匂い。革張りの椅子が人知れず、軋んでいた。手にしていた携帯の電源を切り、声をかける。一体、誰に?自分が感じている、この事務所内にある人の気配に。それは事務机の前、軋む椅子に座してこちらに背を向けている誰か。五感が先に何かを思い出していた。いや、まだその確証はない。肌を撫でる外気は冷たい。そして、ようやくなまえは口を開いて問いかけようとした。
「良い事務所だ。綺麗に片付いていて、印象も良い」
口を開いてすぐ、なまえの鼓膜を震わせたその声に、記憶は胸の奥の引き出しに手をかける。忘れようとして忘れられなかった誰かの記憶が鮮明に甦る。ぐるり、と椅子は回転し、背もたれに体を預けた本人が真っ青な闇の中で自分を見ていた。爪先から駆け上がってくる感覚がある。怒りでもなく、悲しみでもなく、ましてや嫌悪でもない。
「きみ一人でよく頑張った。俺がいた頃より立派になったじゃないか」
言葉に詰まってしまう。何せ、久方ぶりの顔合わせだったからだ。自信はあった、例えば彼がどんな見た目になろうと見抜く自信が。だが、そんなものは初めから必要なかったのだろう。何一つ変わっていない本人を前にしたら、下手な小細工や駆け引きは全く意味がないのだと身をもって知ったのだから。立ち尽くしていると、遂に椅子の彼は立ち上がり、なまえの真正面へとやって来た。考えている時間はなかった。ただ思うがままに彼の胸に飛び込み、もう何処にも行ってしまわぬようにしがみついて腕を回していた。
「……一人にさせて悪かった、」
しがみつく自分を抱き締めてくれることが何より嬉しかった。もう二度と会えないものだと覚悟していたから、またあの優しい手で撫でられることが酷く幸せめいていた。みっともなく声を上げ、泣き喚いて彼を困らせてしまってもいいような気がしている。彼のインナーシャツが涙で濡れても、彼はそれを良しとしてくれ、抱き締め続けてくれるのだから。目の前が滲んで止まらない。涙も枯れることを知らない。指先で強くジャケットを掴む。
「私の大切な場所だったから」
なまえにとっての全ての始まりは、ここからだった。他所の町からやって来た自分が、異人町の住民として生きていけたのは、ここがあったから。彼の元で町について教わり、生きる術でさえも教わってきたのだ。そう簡単に手放せるような場所ではなかった。どんなに事務所が空き缶や栄養の偏った食生活から出たゴミが流しに溜まっていても、彼のお気に入りの椅子は片付けなかった。彼の席だけは残しておいた。例え、戻って来なくとも、それはそれで構わないと思っていた。何もかもが自己満足でしかない行動だったからだ。
「また、どこかに行っちゃうんですか」
「どうだろうな」
「ここに戻って来れる保証は、」
「ないな、見込みもない」
だが、これだけは信じて欲しい。きみに会いに来た。まさか、きみが跡を継いでくれているとは思わなかった。
聞きたいことも、話したいことも山のようにある。だが、今は濃紺の闇に彼を連れ去られてしまわぬようにしがみつくことで精一杯だった。桑名もそうでありたいと、自分の前で泣くなまえの体を闇の中で手放せなかった。
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