どこもかしこも狂乱の騒ぎだった。素顔を隠すような仮面の下にある欲望にぎらついた瞳が、終始飢えて飢えて堪らないと欲深い口元が、男を、女を喰らう。しゃぶりついて男女の味を確かめ合う。求められる喜びに身を震わせ、満たされても満たされても終わりのない欲を貪る人間ばかりが幸せだと鳴いている。しかし、欲望渦巻く地下フロアの檻の中で一人、周りに馴染めずに俯いたままの女がいた。テーブルに置き去りのグラスは彼女に全く手を付けてもらえないせいで、冷や汗ばかりだ。

 場所は新宿神室町、天下一通りにあるホストクラブ、スターダスト。なまえは女友達に連れられ、神室町一のホストクラブであるスターダストという店を訪れた。初めて訪れたホストクラブという場所に緊張感を抱きつつも、自分達を出迎えてくれた端正な顔立ちの男に誰もが心奪われていた。勿論、自分もその一人であり、周りの女友達も皆、そうである。
  最初は一人一人に彼らが付き添い、頼んだ酒や食べ物をつまみながら、面白いくらいに弾んでいく会話を楽しんでいた。だが、酒が進んで全員が酔い始めた頃、一人のホストがとある話を持ち掛けてきた。

 ここよりもっと楽しめる場所がある、と。スターダストには地下フロアが存在し、そこではより密に男女が打ち解け合い、楽しく過ごせる場所なのだとホストは言う。周りの女友達が浮き立つ中、なまえだけはあまり乗り気になれなかった。
 初めてホストクラブという場所にやって来て、よく分かりもしない不慣れな店の、そんな怪しげな地下へ行くことに些か抵抗があったのだ。もう帰ろう、と控えめに打診してみれば、なんで?と酒の回ってしまった顔で答える彼女達がいた。少数派が多数派に食われてしまい、なまえは今俯きながらこの時間を懸命にやり過ごしている。

 顔は出来るだけ上げたくない、見たくないものを見てしまうから。出来れば耳だって塞いでしまいたい、友達だった女の甘ったるい嬌声が苦痛に響く。周囲の人間が日常の嫌なこと全てを忘れ、今日という一日を謳歌しているのに、なまえだけは一人塞ぎ込んでただ耐えている。隣に座る彼にとても申し訳ないと思った、彼の為を思えばこんな客より、周りの心の底から楽しんでくれる客の方が嬉しい筈だ。申し訳ない気持ちと今すぐ逃げ出したい気持ちがぐちゃぐちゃに混ざって、時折ゾッとする程に甘い声に、大きく響く高笑いになまえは限界だった。

「お客様、どうかされましたか?」

 隣の彼が、あ、と呟いた。その声や自分の頭上から降ってきた声になまえは自然と顔を上げる。自分の手元ばかりを切り取る見飽きた視界が一変した、視線の先には他の男達とは違う装いの、涼し気な笑みを浮かべる男が一人。その男だけは素顔のままで、髪は滅多に見ることの無い銀髪、品の良さそうなジャケットを素肌の上に纏い、胸元には二連のネックレスがぎらりと輝く。
 柔和な表情が綺麗だから、となまえは見蕩れていた。普段なら決して直視し続けることは無い、しかし、彼だけは何かが違うとそう感じ取ったからだ。

「君、何があった?このお客様は全く楽しんでおられないようだが。」
「……すみません、オーナー。」
「申し訳ございません、お客様。ウチの者が何か粗相でも?」
「あ、いえ……!そういう事は何も、何もありません…!……ただ、ちょっと気分が優れなくて、」

 ごめんなさい、さっき飲み過ぎてしまったんだと思います。となまえは口にした。隣の彼にも、店のオーナーである彼にも、きちんと謝っておきたかった。周りのテーブルを見れば分かる、この席がその中でも一番盛り下がったままの最悪な場所であると言うことに。

「……そうでしたか、そう言うことなら。君、もう下がっていい、この方は私がお連れしよう。」

 隣の彼はこくりと頷くと、失礼します、となまえのいるテーブルを後にした。さあ、参りましょう。と言う男の声に手を引かれ、なまえはその場からオーナーの彼と共に、未だ甘い声が響く地下フロアから出て行った。一段、また一段と階段を上る度に、少しずつ落ちた気持ちが回復していくのを感じ、それを男も察してか、時折優しげに声を掛けてくれる。

「本当に申し訳ありません。地下は少し趣向を変えておりまして、ああ言ったものを好むお客様の為のフロアとなっているのです。」
「……その、ありがとうございます。」
「いいえ。お客様の気分が優れないのを知っておきながら、あのような場所で無理に過ごしていただく訳にはいきません。」
「ここは、良いお店なんですね。…正直言うと、ホストクラブって所にはあまり良いイメージが無くて、」
「フッ、これはまたお厳しい、」

 あ……!すみません、そういうつもりじゃ……!と慌てふためくなまえより先に階段を上り終えた男はその先でなまえに手を伸ばしていた。

「構いませんよ。あなたはとても素直な人だ、そういった方の声が一番参考になる。それに、」

 "ここ"が良い店だと言われて、私も少し嬉しくなりましたので。まるでこの店の存在理由が別にあるかのような、含みを持たせた言い方になまえは疑問を抱かなかった。彼の言っている意味が、そのままのものであると思っていたからだ。差し出された手に自分の手を伸ばし、手のひらを重ねる。やんわりと掴まれた手をそのままに二人は、誰もいない一階フロアに出た。

 辺りに人の姿はない。派手過ぎず、地味過ぎない落ち着いた色合いで小綺麗にまとめられたフロアの景観に、なまえはようやく胸を撫で下ろす。時折、ギラギラと輝くミラーボールの反射が眩しいと思ったが、地下のあの強い照明より何倍もマシだと思えた。
 あちらでお話でもしませんか、と彼に誘われるがまま、なまえはバーカウンター近くに構えるテーブル席へと通される。先に座ることを望む瞳に促され、赤い革張りのソファーに腰を落ち着けると、彼は一歩後ろに下がり、胸の前に手を添えてその名を口にした。

「…大変申し遅れました。私は当店、スターダストのオーナー、ハン・ジュンギと申します。以後、お見知りおきを。」

 黒く縁取られた目元が鋭く光り、なまえの胸の奥を鷲掴みにする。一目惚れと言う可愛いものでは無い、寧ろ飢えた獣に出会してしまった小動物のような気分だった。
 落ちたのでなく、今にも落とされそうな。首根っこに噛み付かれたのではなく、これからその歯牙にかけられそうな。少しずつこちらへと歩み寄ってくる、まるで無害であるかのように。直感だった、なまえがそう思ったのも、しかし、それは当てにならないと密かに吐き捨てられた。

「お客様、私の顔に何か?」

 次に見た、彼、ハン・ジュンギの目からは先程の鋭さが感じられなくなっていたからだ。

「…いえ、その、なんでもないです、」
「それでは、何か飲み物でもご用意しましょう。」
「あ、いえ……、」
「大丈夫ですよ、あなたにアルコールは出しません。代わりにこちらを。」

 いつの間にか差し出されたグラスには、いくつかの氷と無色透明の冷ややかなそれが注がれていた。カラン、と中の氷が溶け出し、浮き沈みを繰り返す冷水を見ている内に喉の渇きを覚え、いただきます、と温い指先がグラスをなまえの口元まで運んでいく。
 冷たい、口の中がすっきりとして気持ちがいいと大きく息を吐いた。引き摺っていた地下のねっとりとした後味の悪い空気をやっと吐き出すことが出来た、それほどまでにこのフロアには妙な落ち着きがあった。

「やはり、ここのフロアの方が落ち着く。ご気分は?」
「もう、大丈夫です。」
「きっと本来なら、あなたのような人はこんな店には来ない。こんな、薄汚い欲望と真隣にある卑しい店には。」
「あの、私はそんな風には…、」

 困惑する彼女の隣に自然な動作で腰掛けたハンはテーブルの上で手を組み、顔を微かに綻ばせてなまえを見た。だから、感謝しなければいけませんね。あなたをここへ連れてきた彼女達には。言いたかった言葉を忘れてしまうくらいに、目の前の男は綺麗な笑みを浮かべていた。笑みに細まる目元、張りのある唇はゆっくりと口角を上げていく。

「恐らく、あなたがこの店に来たのも彼女達に誘われて、と言った所でしょう。あなたも神室町自体、あまり来たことがないのではありませんか。…どうです、私の読みもあながち間違いではないでしょう?」

 唇の隙間から白い歯が覗く。なまえはその言葉に返す言葉がなく、動揺もそのままに黒目を泳がせ、そうです、と肯定するように瞬きを繰り返した。その様子を気に入ったのか、ハンは更に追い打ちをかける。

「ほんの少しで構いません。その目に私を映してくれませんか。」

 彼の指が頬へと這わされ、操られているかのように自然と顔は上を向いていく。

「…本当に、あなたと言う人は可愛らしい方だ。」

 ぴったりと重なった視線の先で、再びあの笑顔が見えた。綺麗に整った顔をくしゃっとさせて笑う、その笑顔がホストクラブと言う夜の店には似合わず、しかし、どこか不敵さを感じさせる余裕めいた笑みは夜の街にしか似合わず、酒とは違う何かに酔っていた。
 彼とは対象的になまえは固く口を噤み、何かを堪えるように眉間に皺を寄せ、視線が途切れるのを待つ。顔が熱い、体も暑い、手のひらだって変に汗ばんでしまうほど、体中のあちこちが発熱している。きっと彼の目には余裕のない自分の姿が映っていることだろう、自分がこういった場所に慣れておらず、男性に尽くしてもらうことにも慣れていない未熟な女の姿が。

 その間だけ、呼吸の仕方を忘れていた。息を止めていた訳じゃない、しかし、いつものような吸いたいだけ吸って、吐きたいだけ吐くような呼吸が出来なかった。呼吸や瞬き、顔や体の些細な動きさえもあの目に捉えられているのだと思うと、なまえは自然と息を潜めていく。

「もう結構です。さあ、楽にして。」

 数分程度見つめ合った後、石化の魔法を解く言葉のおかげで、なまえはようやく瞳の呪縛から解き放たれた。胸いっぱいに空気を吸い込み、心臓を高鳴らせたまま、深く吐く。しかし、それは不意打ちだった。肺を酸素で満たすことだけに夢中になっていたせいで、自身に重なる影を見逃してしまったのだろうか。
 髪の隙間をゆっくりと這う指先が後頭部をやんわりと引き寄せ、視界に広がるのは至近距離で見る彼の目を閉じた顔だった。余韻の薄いキスを容易くやってのけたハンは顔を離し、ゆっくりと目を開け、小さく笑みを漏らして口元を歪める。それからすぐに口元を手で覆いながら、笑いを噛み殺しているようで、肩が微かに揺れていた。なまえはと言えば、未だに呆気にとられたままで、突然唇を重ねてきたハンに対して怒ることも、色男に唇を奪われたことに対して喜ぶ様も見受けられなかった。

「酒の勢い、と言う訳では無いのですが、どうしても、と。どうか失礼をお許しください。」

 無礼を詫びている筈なのに、その目に申し訳なさが感じられず、反対に何かを確かめているようで不意に恐ろしくなる。唇は焼けるように熱い、どうして目の前の男は。

「どうして、こんなことを……?」
「あなたを困らせてみたかった、あなたの戸惑う顔が見てみたかった、と言えば分かってくれますか。」
「で、でも、こんな、」
「ここはあなたが思うよりも欲深い店です。その店のオーナーである私が例外、なんてことはありません。」

「私も欲深い男です。例に漏れず、何も知らないあなたをこうして好き勝手に弄んでいる。そして、あなたも私に弄ばれているのが嫌だとは思っていない。それは私にとって好都合でしかないんですよ。」

 わたしは、と言いかけて次が見つからなかった。きっと否定の言葉を続けるつもりだった、しかし、ハンの言葉が深く胸に突き刺さって、耳に突き刺さって離れない。
 この場所にはもう居られないと急いで席を立ち、出口へと急ぎ足で歩き出すなまえをハンは追わなかった。カツカツと忙しないヒールの音がなまえの焦りそのものだった、逃げ出してしまえ、何かが変わってしまいそうで恐ろしい。

「みょうじなまえさん、今夜は私持ちとさせていただきます。是非、またいつでもお越しください。」

 あなたにまた会える日を楽しみにしています、ですから、また必ず。背後から投げ掛けられた声がなまえの足を止める、ほんの数秒ほど。なまえは振り返りもせず、再びヒールを鳴らしてスターダストを後にした。

 一人取り残されたハンは何を思うでもなく、随分冷や汗をかかされた彼女のグラスを手にする。グラスを傾け、その中身全てを飲み干した後、寂しげに構えるバーカウンターの上に置き去りにすると、男はミラーボールの反射の中を闊歩し、店の奥にあるスタッフルームの扉に手を掛け、そのまま姿を消した。ミラーボールの輝きはいつまでも無人のフロアを照らし続けている。



| 喰らう、ここは欲望の腹の中 |


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