神室町は素性の明かせない人間達の巣窟だ。街を行き交う人間の腹の底に隠してあるものなど、誰も分かりはしない。それに比べれば、自分を捕まえ、管を巻いているこの男はとても分かりやすく悪い人間だった。抜け切らない酒の匂いはくらくらと目眩を引き起こすものの、本人に至ってはけろっとしているのだから人体は不思議だ。

「……それで、どうしたんです?突然、こんな場所に」
「そらぁ、アレやないか。こないだ初めて会った時にのぉ、楽しい子や思て」
「だから、ここに連れて来てくれたんですか」
「せや、俺かて誰でもええわけちゃうねん」

 突如として連れ出された先は以前、立ち寄ったことのあるクラブだった。そこでなまえは、これまた以前出会った男と一緒にボックス席に座らされている。もう出会うことはないだろうと思っていたのだが、こうなってしまっては不都合ばかりが生じてしまう。正直、身の危険は感じていた。彼の言うこの間とは、つい一週間ほど前のことだ。


***


 その日、なまえは女友達と飲みに出かけていた。居酒屋と言うよりかはもう少し弾けた場所に行きたいと、神室町のとあるクラブに顔を出してみたのだが、そこで彼と出会ったのだ。カウンターで知人と会話に耽っていると、いきなり声をかけられた。人がごった返し、騒音鳴り止まぬ空間で彼らはこちらを見つけたようだった。向こうは四、五人のグループで来ており、こちらに話し掛けてきたのは真っ青に染め上げた、いかにも軽い見た目の、あからさまにキザなタイプの男だった。鼻につくような話し方にげんなりしていたとは言えず、一人乗り気な知人を見送ると、奥に控えていた巨体の男が自分に声をかけて来たのだ。
 右半分の毛髪を刈り上げ、胸元から覗くトライバルタトゥーに血の気が引きつつも、隣にやって来た彼を無下にすることは出来なかった。見た目から受ける恐ろしさと言うのは隣に立つことで更に助長される。黒のファーコートが大きな塊に見え、存在感を強調させる。周りは酒を浴び、音楽に身を任せ、夜に浮かれているのに、それを許されていないような気分だった。

「なんや、姉ちゃん。一人で飲まんと、俺らんとこ来たらええやないか」
「……えっと、あの子の方が向こうに行きたそうにしてたから」
「なら、アンタはそないな気ぃしとらんっちゅうことか」
「ほら、あっち見てください。私抜きであんなに楽しそうなのに、水を差すなんてこと出来ないでしょう?」

 この言葉に釣られて彼は、青髪の彼と談笑している知人の姿を見て、口の端を持ち上げて笑った。仲間想いはええことや、俺も強い仲間意識を持って仲良うやっとんのや。『お友達』という言葉を使う度に恐ろしく感じるのは彼が初めてだ。酒の進みも悪くなり、居心地の悪さも増していくが、知人一人を置いては帰れない。しかし、隣の男はなまえの気持ちなど関係なく、隣に居座り続けている。同じ問い掛けを返してみると、俺も今日はやめとくわ。とここに居座ることを改めて宣言され、逃げ場を完全に失ってしまった。

「アイツ、青い頭の。西尾言うねん、」
「西尾さんって言うんですね」
「どうもアイツは女のことしか頭にないっちゅうか、つまらんのや」
「じゃあ、今日は良い出会いになったかもしれませんね」
「まあ、でも見てたら分かるやろ。アイツ、一々がっつき過ぎやねん」

 この男の言う通り、青い髪の西尾という彼はずっと知人の隣をキープしており、中々離れようとしない。それに知人も悪い気していないのだから、ある意味お似合いの二人なのかもしれない。ここでようやく忘れていたグラスに口をつける。冷たいそれを流し込めば、隣の彼も手にしていた酒瓶を傾ける。大人しく飲んでいる内はまだマシな相手なのかもしれないが、だとしても、この後の展開を考えると飲み過ぎには気をつけるべきだと内心警戒を強める。再び、辺りに酒独特の匂いが漂う。彼はまた酒瓶を傾けたらしい。巨体の喉仏が上下に忙しく動いていた。口の端から、つうっと酒が滴り落ちるのも気にせずに。

「……なんやねん、自分」

 見ていられなかった。ただでさえ、第一印象からあまり良い相手ではないと受け取っていたから、余計に。返してもらわなくてもいいと思っていた。だから、バッグから綺麗なハンカチを取り出して、彼の方へ差し出したのだ。お酒、こぼれてますから。と控えめに押し付けている間の、こちらを凝視する視線が恐ろしかったが、彼は乱雑にハンカチを受け取ると、口元を拭うでもなく、ただ手の内に収めたままだった。
 彼の癪に障ってしまっただろうか。余計なお世話だっただろうか。すると、彼はハンカチを懐にしまうと手の甲で濡れた口元を拭った。そして、すぐに口を開き、こないなもん、勿体のうて使えへんわ。と彼の見た目からは想像もつかない意外な一言を聞くことになり、なまえは内心驚いていた。

「姉ちゃんは、ようここに来るんか」
「今日、あの子と初めて来て。だから、またここに来るかどうかは、」
「俺らは結構、顔出しとる。大抵の夜はここや」

 せやから、また来る時は連絡してくれや。と男は懐を漁り、小さな紙を一枚取り出した。なまえはその紙切れを見て驚きを隠せない。何故なら彼が取り出したのは、ビジネスシーンにおいて必需品である名刺だったのだ。半グレのような見た目である彼のことは真っ当な人間ではないと思っていたからこそ、余計に衝撃が大きい。なまえは名刺を受け取り、バッグにそっと忍ばせる。まだ驚きは抜け切っていないが、名刺を渡されるということは、そういう事なのだろうか。
 男の名は剣持秋介と言うらしい。ご丁寧に名刺に記載されていた氏名に偽りがなければ。剣持さん、って言うんですね。とたどたどしく名を読み上げると、剣持は途端に険しい表情でなまえに詰め寄る。気安く名を呼んだのがまずかったのかもしれないとなまえは肝を冷やす。

「ちゃう。秋ちゃんでええ、」
「しゅ、しゅうちゃん……?」
「おう。さん付けとか、俺ら硬っ苦しいの嫌いやねん」
「で、でも、」
「上下関係気にせずにニックネームで呼び合う。それが俺らのルールや」

 せやから、姉ちゃんもはよ名前教えんかい。
 半ば強引な聞き方であると思ったが、空気的にも教えないという選択肢はないのだろう。なまえは狂乱の空間で名をなぞる。剣持も同様に名をなぞった後、まるで品定めをするようになまえを見た。上から下まで、至る所に視線を注ぎ、何かを確かめている。

「今夜はホンマにツイとる。たまには西尾に感謝せな、アカンなあ」

 何かに浸っている剣持から視線を逸らすと、丁度知人が交流を終えてこちらに戻って来るのが見えた。機嫌の良い内にと、軽めの別れを告げて知人と合流しようとその場を離れる。すると、直前に腕を掴まれ、グイッと引き寄せられた。剣持は身を屈め、耳元で聞き取れるようにゆっくりと呟く。全てを言い終えると、ほな。と掴んでいた腕を放し、カウンターに置かれていた酒瓶に手を伸ばす。やけに脈が早まった自分だけが取り残されたようで、彼のような男に翻弄されたようで、平常心ではいられなかった。
 知人は知人で向こうで相当楽しんだらしく、あからさまに上機嫌だった。だが、自分の隣に戻って来ると、どう?あの人。と火傷したばかりの自分に触れようとするのだから、ただ一言、そんなんじゃない。と告げて辺りの喧騒に紛れ込んだ。


***


 その日から、なるべく神室町に近付かないようにしていた。また彼と出会してしまっても面倒だからと。しかし、あの日から耳元で囁かれた言葉が忘れられずにいた。あの見た目の彼にしてはストレートな物言いだったから、余計に。
 今日、なまえが神室町に居たのはほんの偶然だった。長居するつもりも、彼に見つかるつもりもなかったのだ。だが、現実は彼に見つかり、あのクラブに連れて行かれ、長居をしている。体を揺らすのにうってつけなサウンドがフロアに響き、真面目なスーツを着ている自分だけが場違いに感じられた。

「あん時とは違って、こっちの真面目な恰好もええなあ。よう似合っとる」
「それはどうも、」
「なんや、偉いお堅いなあ?もっと気軽に砕けて話してくれや」
「で、でも、」
「まあ、たまにはええか。真面目ななまえちゃんに免じて許したろ」

 自分を隣に置いただけでご満悦そうな剣持はいつの日かと同じく、なまえの体を引き寄せると、また耳元で囁きかけた。彼の低い声が背筋をなぞる。どんなに鼓膜がフロアの賑やかなアップテンポの曲を拾っていても、彼の声だけは聞き逃さなかった。平静を装いたいが、加速する脈に僅かに跳ね上がった肩で全てが台無しだ。彼もそれを分かっているのか、もう一度囁く。

「お堅いフリして、ホンマは純情か」

 変に気取ったのや可愛い子ぶっとるのに比べたら、断然ええわ。唆るで、自分。
 揺れるフロアで心が揺さぶられているのは自分一人だけだった。収まりの悪いボックスシートで、彼の大きな懐に引き寄せられ、未だに拒否出来ずにいる。彼にその気があるとでも?こんな時ほど、喉が焼けるくらいのアルコールが欲しいと思った。そうでもすれば、彼の悪い誘いなど簡単に蹴ってしまえるのに。しかし、何日も前から彼の言葉に囚われているのに、彼を突き放すことなど本当に出来るのだろうか。
 乾いた唇、動揺が露骨な瞳、破裂しそうな胸の内。まだあの夜は続いている。こんなことになるなら、神室町になんて来るんじゃなかった。気付けば、記憶にこびり付いた彼の言葉をリフレインしている。

『俺のになったらええ。それで済む話やないんか、』

 血の気が引くほどゾッとする一言だった。身持ちは堅いと自負していたが、それがただの思い込みだったと暴かれ、今は彼の懐にいるのだ。これから、どうやって逃げればいい。泳いだ視線が見つけたのは、偶然にもテーブルに置き去りにされた酒瓶だった。繊細でありながら豪快なデザインのラベルに思わず駆け込む。誰のでも構わなかった。大きめな一口を流し込み、隣の彼を見る。すると、すかさず手が伸びてきて酒瓶をかっさらっていく。そして、自分と同じく酒瓶を傾け、どこまでも流し込んでいった。口からどんなにこぼれようと、瓶を傾ける手は上向きのままだ。自分は焼けた喉がひりついて仕方ない。

「せやから、俺のになったらええ言うたやろ」

 やたらと軽くなっただろう瓶をテーブルに置き、虎視眈々と酔いが回るのを待ちかねている男の視線に酷い目眩が生じた。



| loud, loud, loud |


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