「俺は身持ちが固い方でね」

 太腿を撫でるでもなく、いやらしく触るでもなく、ぐ、とやんわりと掴んで見せるその手に、込み上げる感情がある。

「誰彼構わず、こうするわけじゃない」

 寧ろ、安易に手を出したりはしないんだよ。これでも慎重派のつもりだ。両目を捉えて離さない視線に、妙に説得させられている。対面。向かい合っているのに自分は粗末な畳に背を預け、男は女の股の間に座して、自身の貞操観念について説いている真っ最中だ。太腿に触れる男の手のひらがあたたかく、冷めた外殻を溶かしていく。遊び慣れていると思っていた男の、意外な告白に内心揺れていた。そして、今の自分は目も当てられないほどにみっともなかった。


 言い出しっぺはなまえである。常に飄々として掴みどころのない桑名に対して、遊び慣れているのではないかと問いかけたのは。鎌をかけるつもりは毛頭なかった。しかし、何か裏があるのだと勘ぐった桑名によって今窮地に立たされている。なまえが言いたかったのは、自分では彼にそういった目で見てもらえないだろうと言うことだった。人を見る目が肥えている桑名が自分にその可能性を見出すとは思えなかった。ただ親しいだけの関係止まりだと。そうだと思っていたのに ────。
 今、この状況に直面して分かったことがある。桑名の言葉には説得力があり、自分の発言は間違いであったということ。そして、今の桑名はどこか様子がおかしいということだった。見た目はいつもと何ら変わらない桑名仁だ。だが、いつまでもこの体勢を崩さないでいる理由が分からなかった。体の肉が熟れていくのを感じる。

「きみは誤解している」
「わ、わかりましたから、」
「心外だった。まあ、職業柄そう見えてしまうんだろうが、」
「桑名さん、」
「まさに口は災いの元、だな」

 これを災いと呼べるのだろうか。密かに好意を寄せている男に組み敷かれそうになっている状況は。無理矢理こうなったのではない、戯れるようにしてこのような体位になってしまった。そこに悪意や他意はなく、決して自分本位ではない。すると、太腿をやんわりと掴んでいた手がゆっくりと側面を撫で始めた。やけに体温の高い指先が気がかりだ。

「俺にだって性欲はある。今はきみとの話を優先させているから、ここで踏みとどまっているだけで」

 合意の上だと言うなら、今すぐにでも手を出してるだろうな。
 その刹那、火花が散る。網膜に激しい光が焼きついて消えないのと同じだった。桑名の言い放った言葉が、瞳に宿した眼光が、更に体温の上がった手のひらの感触が、じわりと体に染み込んでいく。言うなれば、引きずり込まれる寸前。もがけばもがくほど、深みに嵌っていくだけのどうしようもない状態だった。ずるり、と引きずられた。それは比喩表現ではなく、心理描写でもなく、現実での話だった。内腿で触れているのは、熱の予兆。微々たる発火。まだどこか余裕めいて見える。

「ところで、きみは全く動じないんだな」

 男慣れでもしてるのか。と本当は見透かしているくせに、わざとらしい言葉を投げかける男になまえは発火寸前だった。それは感情的なもので、桑名の秘めるものとは全く異なるものだ。しかし、噛み付くべく剥き出しにした牙を突き立てようとした瞬間。懐からそれに呼び出されたのだと携帯を取り出した桑名は、自分よりもそちらを優先させてしまった。途端に炎が立ち上る。
 電話の向こうの相手とは、親しいようだった。かかってきた電話は飲みの誘いで、桑名は涼しい顔で談笑している。自分には股を開かせたまま、あの男は別の誰かと楽しそうにしているのだ。許せない、と言うより、悔しかった。桑名と言う男は本心を隠すのが上手い男だった。合図さえあれば、すぐにでも手を出したいとのたまっておきながら、この現状はなんだ。自分に見せつけている、あの余裕はなんだ。自分だけが蚊帳の外だなんて、この場において有り得ないことだった。だからこそ、なまえは強気な目で桑名を睨み付けていた。

「桑名さんが思うほど、男の人になんか慣れてない」

 余裕の皮は呆気なく剥がれ落ちていった。今の自分はどんな顔をしていたのだろう。桑名は耳に添えたままの携帯の存在を忘れ、こちらに釘付けになっている。その不意を突くように桑名の携帯をかすめ取ると、取り込み中です。とたった一言言い残し、なまえは電話を切った。画面には相手の名が表示されていたが、なまえには関係のないことだった。
 正直に打ち明けるならば、冷めた殻など既に溶け切っており、あとはもう溢れるだけだった。しかし、そこまでしておきながら桑名は身を引こうとしていたのだ。

「本当はほしいくせに、」

 本当は喉から手が出るほどに欲しがっているくせに、欲しくないフリをして安全な場所から手を伸ばそうとしてるだけ。
 誰の言葉だったのだろう。やけに素直な、いや、素直過ぎるその言葉に桑名はもう余裕ぶってはいられなかった。

「そうだな、よく分かってるじゃないか」

 視界が一瞬の内に天井を捉える。桑名を映していたはずの視界には天井が広がり、動脈のすぐそばに吐息を感じる。そこにいるのが分かった。自分のとは違う体温がそこにある。優しいなんてものじゃなかった。小鳥のように啄んで戯れるような愛撫ではなかった。燃える唇は首筋の皮膚を弄んだかと思えば、唐突に貪り始める。感覚と聴覚に訴えかけている。皮膚を唇で剥がしていき、肉に吸い付き、神経の一本一本に舌先を絡め、骨に残った情欲をこそぎ取っていく。もうすっかり先程の誘いのことは忘れ、目の前の体に耽っていた。
 貪欲だった。肌を愛撫する唇の動きも、まるで唆すかのように触れる手のひらも。吐息が肌を焦がす度、なまえは桑名がいかに貪欲な男かを思い知らされた。服を着ていようがお構いなしに、桑名は目の前の肉にありつく。不思議と抵抗する気にはならなかった。自身の貞操観念にヒビが入る。熱に浮かされた顔を覗き込む桑名は、唇に触れようとした。しかし、顔を背けた自分に何故かを問いかける。

「そこまでは流石に許してくれないか、」
「だって、桑名さんとはただの友人ですし、」
「本当にきみは俺との関係をただの友人で済ませられるのか」
「……それは、」

 背けた顔をものともせず、それは触れ合い、重なり合う。許すつもりはなかったが、許してしまった。少しずつ自分が都合のいい存在になってしまうのではないかと切なさにやるせなくなる。すると、何かを感じ取った桑名にもう一度奪われた。この行為は性欲を満たす為のものではないと分かった気がした。貪欲ではあったが、愛撫の全てに嫌悪感を抱くことはなかったからだ。寧ろ、その逆で、満たそうとしてくれていると錯覚している。

「慣れていると聞かれれば、そう答える他にない。でも、ここまで許した相手はいなかった」
「……本当ですか」
「ああ、大抵の相手はすぐにその気になる。その中で一番靡かなかったのが、きみだ」
「わたし、ですか」
「きみはいつだってあと少しと言うところで離れていく。俺からすれば、慣れているのはきみの方だろ、と言いたいくらいだ」

 なあ、本当に手出しちまうが、いいのか。
 主導権を握っているかのような振る舞い、しかし、それとは裏腹に腹部に置かれた指先は焦れったさを露呈させる。駆け引きなんてスマートなものは場を白けさせるだけだった。とっくに手を出しているだろうに、と短く切られた髪の束に指を滑らせ、後頭部に触れた。そして、ゆっくり引き寄せれば、それ以上何も追求することなく、桑名もなまえと三度目の口づけを交わす。求めれば同じく求められ、与えれば同じく与えられた。
 それからはあっという間だった。桑名は自身が言っていた通り、ある程度の性欲を持て余していた。だが、それを誰にも宛てがわなかったのは、自分という存在が彼を変えてしまったからだ。スカートを剥ぎ取る指先は早く、下着の隙間を縫って触れる愛撫は衝動を抑え切れていない。予想よりも遥かに飢えていた、桑名仁は情欲を隠しもせず、恥ずかしげもなく自分にぶつけている。

 掻き乱される度に、体は甘く痺れていく。じんわりと広がっては長続きしない快楽を、次から次へとせがんでいる。自分が女であることを実感させられるほどに、桑名は何もかもを喰らい尽くしていった。乳房を揉み、吸い付き、甘く噛み付いても尚、留まるところを知らない。肌に舌を這わせ、口内をまさぐり、陰部を弄んでいても、その熱が衰えることはない。まるで匂いを覚えようとしている野良犬のように、桑名は貪欲であることを恥じなかった。口に出来るものは全て口にした。触れられるものは全て触れた。入れられるものは全て入れ、出せるものは全て出した。汗も涙も唾液も愛液も、何一つ惜しまなかった。
 だからこそ、桑名の骨ばった指に舌を蹂躙されようとも、酷く反り返った情熱を咥えさせられようとも、薄い被膜越しに吐精の感覚を植え付けられようとも、なまえは拒むことをしなかった。一つ一つゆっくりと時間をかけ、覚えていき、桑名の望む器を作り上げていく。欲しがっていたくせに、強引になれなかった男を愛しいと思うのに時間はそうかからなかった。不器用であると気付けば、もう抜け出せない。

 傍から見れば、不純そのものだった。体を許す理由も芯がなく、貞操観念が曖昧なものであると証明しているようなものなのだから。関係より早く、体を結ぶ。行儀良く順番待ちをしていられる程、真面目な人間ではなかった。何度、背に爪を立て、声を押し殺し、酸素を分け合い、深く混ざり合っていたことか。彼の指の腹が膣壁を撫で上げる度、言葉に出来ない快楽に痺れ、酔う。強ばった肉をほぐすように、好いところを押し潰されれば、はしたなく腰は跳ねる。淫らな姿を晒している自分が桑名を汚していく。桑名は汚れることを厭わず、自分という体にのめり込んでいる。
 愛があろうとなかろうとどうでもよかった。手を出したのは自分で、そのツケが回って来ているだけなのだと。指一本を丸々と飲み込んだ肉壁に、桑名は余裕のない表情で自分を見た。物足りないか?と問う口を縫ってやりたいと僅かばかりの羞恥に震える。だが、この男は自分が感情とは裏腹に喜びに震えていると知ると、恍惚に染まる目で見下ろしていた。

「きみもそんな顔をするんだな」

 知らなかった。と指を生暖かいそこから引き抜き、桑名はもう一度薄い被膜を手に、なまえと重なり合う。男の影の中に落とし込まれ、女は憂う瞳で変わりゆくことを嘆いていた。

「これが終わったら、私たちどうなりますか」
「もう、ただのお友達には戻れないだろうな」
「また会いに来てもいいですか、」
「そんなこと、聞く必要ないだろう」
「だって、これで最後になんかしたくなくて」
「だから、どうしてそうなるんだ」

 なまえは衝動的に始まった関係はその後の気まずさ故に破綻すると知っていた。元々、恋愛感情を抱いていたのはなまえの方で、桑名が自分のことをどう思っていたのかは分からない。そう思うと、ただただやるせない。たった一度体を結んだだけで、桑名との関係が終わってしまうのは悲しくもあり、自分のやるせなさを痛感するばかりだった。かなしい、目の前が滲んでいく。やるせない、もっと上手い立ち回り方があったのではないかと自分を責めている。

「なあ、勝手な勘違いはやめてくれないか」
「わたし、」
「俺はこれできみと最後だなんて思っちゃいない」

 ここまでしておいて、逃げるなんて選択肢は俺にはない。大丈夫だ、安心してくれ。と覆い被さるように抱き締められ、頭を撫でられると、胸の奥がふるふると震えて涙が溢れていく。

「それにきみも分かってたんじゃないのか、本当はほしいくせにって」

 あの時、やぶれかぶれで吐き出したのは本心だった。ぐずぐずになった心を連れて、なまえは桑名の背に手を回す。どんなにみっともない姿であっても、抱き締められれば嬉しかった。終わりなどないと言ってもらえたことに、心が小さく震えている。涙を手の甲で拭えば、不思議と悲しみは溶けてなくなっていた。その様子を見ていた桑名は、もう大丈夫なのか。と問い掛けた。なまえが頷くのを見届けると、本当は俺自身あんまり余裕が無い。と乱雑に頭を撫でた。ある意味でお預けを食らっていたのだ、ぐ、と押し込まれた熱に腹部の圧迫感を思い出す。きゅう、と吸い付いている気がした。最初の時より敏感になった肉壁は二度目のそれを受け入れ、なまえにも快楽を手繰り寄せる。
 打ち付け、穿ち、受け入れ、呑み込み、互いに快楽を蓄積させていく。乾くことを知らない水音を耳に、男女はしっかりと体を結び付け合う。次第に痺れ始める肉体に女は逃げ腰になっていたが、男はそれを許さない。深く、より深くに触れ、彼女にも快楽に酔いしれて欲しいと執拗に肉壁を刺激し続ける。蕩けるところまで蕩け切ったのなら、後はただ溢れてくれればいい。なまえをゆっくりと追い詰めていく桑名は、次に呼吸を分け合い、切なそうな指先を絡めた。


「きみが俺の電話を取った時、心底惚れ込んだよ」

 恥ずかしい話だが、あの時は俺もムキになっていた。途切れ途切れで聞こえてくる言葉に終わりが近いと知らされていた。それはなまえも同様で、直に何もかもが快楽の痺れるような心地良さに流され、飲み込まれ、消えていくのだと。汗ばんだ体を突き放すことなく、二人は心を明かしていく。愛の微睡み、いつまでも戯れてはいられない。小さな電流が体に走る。なまえだった。力みが取れ、跳ねた体には余韻がただ広がり続けていく。しがみつくように迎えた絶頂を傍で見ていた桑名も、遅れて二度目に達する。伝染する快楽に二人は暫くの間、動けなかった。ふやけた唇を何度も重ね合わせたのは桑名で、それを受け入れていたのがなまえだった。
 体の全てで酸素を求める。意識も徐々にぼやけていく。瞬きさえ億劫だと感じられ、なまえは桑名に自分自身を預けることにした。それを了承した桑名は彼女のあどけない顔に、大人のくせして狡いんじゃないのか、と問いたくなった。


***


 それからなまえの日常には一つの変化が訪れて以来、特に何も変わっていないのだが、普段通りに過ごしている桑名を見ていると、もう一つの顔を覗かせた日のことが頭を過ぎるようになった。それは一瞬の内に羞恥に燃え上がるのだが、誰も知ることの無い秘密めいた素顔なのだと思えば、不覚にも胸の奥が高鳴ってしまい、自分も相当現金な人間なのだと知った。



| 火遊びなんかするもんじゃない |


back