夏の終わりを口移ししていた。あの真っ青に澄んだ青空が責め立てるから、もくもくと伸びる入道雲が薄れていたから、肌を焦がす太陽が少しだけ大人びて見えたから。彼はまだ驚いていて、動けずにいた。まるで石のような彼の唇にセンチメンタルやら何やらを流し込んでいると、ふと引き離される。ノスタルジーが自分の中に取り残されていた。
「いつまでも、こうしてちゃいけないってわかるだろ?」
「じゃあ、思いっ切り突き放してみてください」
「それが出来たら……、苦労はしないな」
「好きなんでしょ、」
「突き放せないくらいには、な」
夏の日陰に逃げ込んだところで、帰り支度をしている夏の気は一向に変わらない。近付く秋と入れ替わりで外の世界は秋色に染まっていく。終わりを惜しんではいるものの、自分では何も出来ないと分かっているからこそ、今の時間を持て余している。暇さえあれば、抱き合っていた夏ももう終わるのだ。何が残っただろう、蝉のようにまだこの体の中はからっぽだ。生を謳歌するには至っていないし、ただ惰性でだらだらと生きていた気がする。それでも、命の期限は一週間ではないことに、ただただほっとするばかりだ。
「君もいい加減にいいヤツを探してみたらどうだ?」
「……いいヤツ、ですか」
「いつまでも、初恋を引きずってばかりいないで」
「は、初恋の話は別にいいじゃないですか、」
「図星、だろ」
「みっともないって分かってますよ、でも、」
「口を尖らせて目を逸らす、昔からの癖だ。これじゃあ、いつまで経っても子どものままだな」
「そうやって、昔の男面するの、ほんっとうに良くないですよ」
「なんだ、今も一途なままか?」
男の言葉を最後に女は黙り込んでいた。男の言葉に痛いところを突かれていたからだ。初恋の呪いに漏れなくかかってしまった彼女は、未練がましく彼と不純な関係を築いている。それは学生という括りから外れ、社会人となった今でも続いていた。彼、桑名との関係はもう数年に渡って続いているもので、何故きちんとした関係にしないのかと問われれば、それはそれで耳が痛い。桑名には一緒になれない理由があった。それは勿論、なまえも理解した上でのことだ。だが、断っても良いような話に乗り、こうした関係でいることを選んでいる桑名の考えは分からない。
「価値のある時間を俺なんかに使っていたら、いつか必ず後悔する」
「そんなの、桑名さんに分かるわけない」
「ああ。ただ俺は後悔するなまえくんの顔を見たくないだけかもな」
「でも、桑名さんって言ってることとやってることが噛み合ってない」
「そんなこと、」
そっと指先でなぞったシャツの胸元にはうっすらと赤みが残っている。それは不規則且つ人目を気にすることのない部位につけられていた。
「独占欲、剥き出しなのに」
「……男はそういう生き物らしい、」
「性別に逃げないでください」
「なら、君もつけてみればいい」
「……え?」
こちらのシャツの胸元に指を引っ掛け、ぐい、と中を覗き見る桑名に驚きつつも、僅かながら色欲の日々を思い出し、密かに熱を帯びる。しかし、挑発を挑発で返されてしまい、反応に困っていると、臨機応変が苦手なのも変わらないと更に煽られ、胸元の指を抜くように強く言い付けた。桑名は不敵に笑いながら、指を抜き、こちらを見た。ニヤついた笑顔に気が収まらず、とん、と両手で後ろへ押し倒した。
押された体は大の字で背後のベッドに沈む。後追いする気はない、このまま距離を取ろうと考えていたのだが。桑名がこちらをじっと見ていることに気付くと、その姿がまるで来るのを待っているように見え、なまえは顔を逸らす。
「なんだ、来ないのか」
「行きません」
「今来れば、腕枕してやれるぞ」
「……別に、腕枕なんて、」
「本当にいいのか?」
次があるとも限らないんだぞ。とまで言われてしまうと、引き寄せられる感覚に襲われる。ほら、こっちに来い。大丈夫だ、もうふざけたりはしない。その言葉にゆっくりと体を隣に運んでいった。真横に伸ばされた腕に頭を恐る恐る乗せてみる。頭の置き所は悪くないだろうか、頭の重みに腕が痛くなったりしないだろうかと不安は尽きない。だが、桑名はなまえが自分の腕の中にいることに満足していた。なまえの心配など他所に。
真横、平行線上にある視線が重なる。向かい合った体の胸元に触れる指先は桑名のものだ。自分がつけた独占欲に触れている。そして、ぽつりと難しいことじゃないと呟いた。
「歯を立てず、表面の皮膚に吸い付けばいい」
「桑名さん、つけて欲しいんですか」
「そういう気分なだけだ」
「なら、正直につけてくれって言えばいいのに」
「話、聞いてたか?」
自分好みの解釈を口にして、なまえは桑名の胸元に触れた。マーキングの位置を確かめたかったからだ。
「出来れば、君につけたように見えない場所にしてくれ。仕事にも差し支えが出るからな」
何となしに首筋をなぞったところで閃く。先程の桑名の言い分など聞いていなかったかのように、なまえは桑名の首筋に顔を埋めた。警戒されぬように、まずは戯れていた。何度も唇を寄せ、首元の皮膚と触れ合わせる。おい、そういうのじゃないだろう。と大きな手が背中を軽く叩く。下唇が首筋をなぞり、上唇で落ち着くところを探していた。
だが、延々と這いずり回っている内に気付いたことがある。自分は、桑名の言うことを素直に聞ける、聞き分けのいい人間ではないこと。桑名が口にした、男がそういう生き物だと言うのならば、女も同じであって良いと思ったこと。そして、あとは単純に『次』の約束代わりになればいいと。
「……なあ、本当に話を聞いてたのか」
しかめっ面をしている桑名を前に、なまえはベッドの上で正座をしていた。もう腕枕もしてもらえないのだ。つまりは、その通りである。なまえは桑名の言い分を聞かずに、自分の思うがまま、つけたかった場所にキスマークをつけた。それは桑名にとって、非常に都合が悪いものだった。
「ごめんなさい」
「ったく、次はないからな」
「ばんそうこう、貼ります?」
「ああ、少し目立つだろうが何も貼らないよりはマシだ」
「でも、それってある意味、」
「分かった上で言ってるんだ」
なまえは急いで絆創膏を持ってくると、キスマークを覆うように貼り付けた。やはり余計に目立って見えた。恐らく、丸見えよりも想像力が刺激されるだろう。居心地の悪そうな絆創膏に、なまえは謝ろうと口を開いた。だが、それよりも先に接近され、捉えられ、啄まれ。気付けば、桑名の首にあるものと同じ痕跡が自分の首にも増えていた。
薄っぺらな皮膚だけを厚い唇で啄み、やんわりと、しかし、しっかりと吸い付く感覚。背筋が人知れずに震えた。お前は自分のものであると告げる行いだった。それを桑名は平気でやってみせる。自分に、いい人を探すよう促した人間が。これでは、探して欲しいんだか、探して欲しくないんだか分からない。やがて、なまえの背は再びマットレスに触れた。真上には男、真下には女がいた。
マーキングでは飽き足らず、桑名はなまえを組み敷いた。あんなに、嫌というほど抱き合ったのに、まだ満たされないのだ。桑名の寂しげな手が浅ましい熱に燃える肉体へと触れる。外では結末のことなど意に介さない蝉が、懸命に鳴き震えていた。
「君が悪いんだからな」
「桑名さんだって、けしかけたくせに」
「……いい加減、こういう時くらいは名前で呼んで欲しいもんだな」
「どっちがいいですか。仁さん?悠さん?」
「今ので充分だ、当分はやっていける」
「先生も可愛いところありますよね」
「ああ、そうだよ。どうせ、俺はまだ幼稚だよ」
「ほら、不貞腐れないの」
あと一回だけつけていいから、と囁けば、桑名は途端に無邪気な子供のような顔で、悪いな。と笑い、すぐになまえの肌に唇を寄せた。その間にも、もぞもぞと体を愛撫する桑名の強かさを受け止めていた。そして、思うのだ。きっとまた来年も、こうして惰性のまま抱き合うのだろうと。
| sunset |back