明日、彼女は帰るのだと言う。住処である東京へ。自分はと言えば、横浜に住んでからまだ日は浅い。彼女の涼しげなキャミソールの後ろ姿が切なく滲んで見える。綺麗に伸ばした髪を、暑いから、とよくひとつにまとめていた。だからこそ、余計に素肌の透明感に目眩が起きそうになっていた。互いに好きという前提がある。それならば、自分が彼女に対して邪な感情を抱いてもおかしくはないはずだ。
 明日にはいない彼女のことを思うと、夏の終わりを告げられた時のような寂しさを覚える。部屋に飾ってあるカレンダーは、今日から八月が末に差し掛かることを示唆していた。彼女、なまえが横浜にいたのは、ほんの一週間程度ということになる。一週間となれば、ある程度長く滞在していたようにも感じられるのだが、不思議とあっという間の出来事のように感じていた。始まりはいつだって待ち遠しいのに、終わりは足早に迫ってくる。ああ、あと一日もないのだ。彼女と最後の今日をどうやって過ごせばいい。

「どうしたの、ぼうっとして」
「早いなあって思って」
「ああ、明日のこと」
「うん、あっという間だった」
「楽しかったもんね、この一週間」

 さっぱりと笑って見せる彼女にそっけなさを感じながら、僕はさみしいのになあ。と零せば、そっけなく見えていた彼女の姿がただの強がりだと気付いた。さみしいね、と返した彼女もまたこの夏が終わってしまうのを惜しんでいるようだった。

「次は……、冬、年末かな」
「また数ヶ月は満足に会えなくなるわけだ」
「遠距離恋愛のつらいところだね」
「なまえちゃんは嫌にならないの」
「毎週電話もしてるし、今のところは」

 と言うか、慣れちゃったのかも。
 慣れと言うのは、つくづく恐ろしいものだと思った。そのせいでこうやって感情の一部が麻痺してしまうのだから。隣に居られるのなら、その方がいい。しかし、いつまでも子どもじみた考えでは相手を困らせるだけだと、大人びた振る舞いばかりを選んでいた。それが顕著になってきたと感じるようになったのは、自分が神室町を離れ、横浜に移住してからだ。気の合う仲間とかねてから憧れを抱いていた探偵業を営みたいと。勿論、自分のことを彼女は応援してくれていた。少しだけ後ろ向きなことを考えた日には、気が済むまで付き合うからと、たくさんお菓子とアイスを買い込んで、家にまで来てくれた。

「ふふ、大丈夫。帰ったらすぐに連絡すると思うから」
「いいよ、ちゃんと片付けが終わってからで」
「帰った直後ってさ、無性に声が聞きたくなるんだよね」
「僕も同じ」
「こんなにたくさん一緒にいたのにね、」

 どれだけ自分達が有意義で価値のある楽しかった時間を語ろうとも、互いが内心に秘める寂しさは拭えなかった。本当は、本当は、出来ることなら明日も、そのまた明日もここに居て、一緒に過ごしたい。だが、それが出来ないと分かっていたからこそ、互いに負担になるような我儘を言わないようにしていた。それがまたより一層寂しさを加速させた。

「ほんとはさ、東京にいた頃みたいにすぐ近くにいれたらな、って思ったりするの」

 彼女の髪がはらりと落ち、肩に触れる。適当にまとめていたせいで、しっかり結べていなかったのだろう。まるで、今の自分達のようだと思えた。あまり詩的表現を好まないと分かっていくせ、いざ自分達がそのような場面に遭遇すると心の奥底にふと浮かび上がってくる。これを本心と言うのだろうか。根拠も確証も、裏付けさえもない曖昧なこれを本心と呼んでいいのだろうか。

「ねえ、一緒に」

 一緒に……?と彼女は目を丸くしてこちらを見た。意外と言いたそうな瞳に、思いが鈍る。容易く口にすべき言葉ではないと分かっていたからだ。何度も衝動的になりたかった時に浮かんでくる言葉だ。隣にいて、同じ毎日を生き、寂しくなったらすぐに会いに行ける距離。それを押し付けようとする言葉だ。それが嬉しいと思うこともあれば、不必要な荷物を背負わされたように嫌だと感じることもある。二の句が続けられない自分を、心配そうな顔が見ていた。
 いつから自分達は物わかりが良くなったのだろう。誰に言われたわけでも、強要されたわけでもない。誰かの心中を察し、流れる空気を読み、事を荒立てぬように物を言う。それが当然というステージにいつの間にか立たされていたのだ。もちろん、その考え方は大切だ。時には一番尊重されるものだとも思う。しかし、それは今の彼女に当てはめて良いのだろうか。

「一緒に、暮らさない?」

 この横浜の街で、と続けてから気付いた。彼女は明るい顔をしていなかった。つまり、やはり悪い想像の通りに彼女は表情を曇らせてしまったのだ。間違ってしまったのだろうか、無理に押し付けてしまったのだろうか。彼女の、負担にさせてしまっただろうか。本当はあまり反応が良くなければ、おどけてしまおうかとずるい事を考えてもいた。だが、実際に彼女の顔を見てしまうと、そのようなずるい手は使ってはならないと思った。場を取り繕おうにも気の利いた言葉など出て来ない。
 こんな時、彼ならどうするのだろうか。こんな時、密かな憧れである八神探偵なら。

「あのね、」

 涙の匂いを知る三秒前に彼女に呼び止められた。彼女は意外そうな顔で自分を見た。……どうしたの?と不安が彼女の声から伝わってくる。泣きそうな顔をしていたのかもしれない。どう上手く誤魔化せばいいのか、分からなかった。それ以前にくしゃくしゃになっているだろう顔を見られて、今更誤魔化しようがないと悟っていた。

「わたしも、そういうこと考えてたりしてたから」
「なまえちゃんも?」
「うん、別に東京にこだわらなくてもいいのかなって」

 特に、文也くんと電話した後はそう思うことが多くて。でも、もう少しだけ東京で頑張りたい。そう彼女は答えた。彼女の中では、ある程度金銭的な余裕を持って横浜に移住したいという考えはあったのだそうだ。だが、まだ漠然とした部分が目立ち、気軽に口にすることが出来なかったのだと。人が惹かれ合い、関係を築いていくのに距離は関係ないとどこか大人ぶっていただけだった。いざ、自分が距離を伴う恋愛を体験してみると、隣に誰かが居てくれることのありがたさに気付く。

「そうなったら、同棲になるのかな」
「なまえちゃんが嫌じゃなければね」
「家賃は折半だからね、二人で住むんだもん」
「……それ言われると辛いなあ」
「ふふ、お仕事頑張ってね」
「恥ずかしいけど、時々は食べさせてもらうようになっちゃうかも」
「じゃあ、その時は一緒に考えようね」
「うん、そうしよう」

 諦めきった時の楽しい想像は少しだけ温かくて嬉しいものだ。今年でもう何度目の夏の終わりだろうか。来年の夏には一緒に暮らしているのだろうか。それは少し早とちりし過ぎだろうか。

「なまえちゃんを連れていきたい場所がたくさんあるんだ。この横浜にはさ」

 夏の陰り、秋の知らせ、またいつか。いつだって彼女は夏の恋人だった。夏が鮮やかな緑の絨毯を敷き詰めれば、ふと隣に広がる余白の切なさに襲われる。夏が充分に余暇を楽しんだのなら、彼女と共に去っていく。だが、今年はその手を掴むことを選んだ。夏は彼女を手放してくれるだろうか。夏は彼女を置いて行ってくれるだろうか。

「じゃあ、私がこっちに来たら連れてってくれる?」

 もちろん、いつだって行きたいところに連れて行くよ。と引き寄せる。淡い素肌を腕の中に閉じ込めたところで、小さく笑みが漏れた。くるしいよ、ねえ。ねえってば。鈴の音が鳴る。夏の日に揺蕩う風鈴の音のように軽快で、爽やかに鳴り響いている。小さな背丈で伸ばした手が頭上に降った時、もっと早くこうしても良かったのだと夏が囁いたような気がした。



| エンドレス・サマー |


back