助手席の背もたれに体を預けて、足早に流れて行く風景の映像を見ていた。今日は珍しく神室町を抜け出し、二人でどこか別の街に行こうと誘われ、こうしてこの車の助手席に座らせてもらっている。浮かれてしまいそうなくらいに居心地の良いこの席と、ついつい視線を向けてしまう運転席のハンドルを握る赤いジャケットの袖に体温が微かに上がる。そういう意味じゃ、既に浮かれていたのかもしれない。自分達の住む街から抜け出そうと誘ってもらえ、しかも、彼は自分を助手席に乗せて車を運転してくれている。
目的地は神室町から離れたどこかの街。今日の為にと秋山が持ってきた車に、お洒落した体も、浮かれる気持ちも、適当に必要なものだけ詰め込んで来た荷物も何もかも預けて神室町を発った。
「さっきから、こっちをちらちらと見てどうしたの。」
ハンドルを握り、アクセルを踏み、一定の速度で高速を走る彼が不意に声を掛けてきた。どきりと胸が分かりやすく跳ね、あからさまな反応をしてしまう。
「俺、知ってるよ。なまえちゃんがたまに俺のこと見てるって、」
そんなに気になる?と長く続く道の先を見ている筈なのに、自分のこともしっかりと見ているかのような言葉に、なまえは頬を熱くさせ、数秒俯いた後に秋山を見た。
「その、こうして誰かに運転してもらえるのが嬉しくて。神室町なら車なんて乗らなくても大丈夫だから、余計に、」
「そうだね、あの街に住んでたらこれ乗る必要ないもんねぇ。じゃあ、今日はなまえちゃんを誘って正解だったってわけだ。」
「連れ出してもらえて嬉しいです、秋山さん。」
「そう言われちゃうと弱いなぁ、もっと何かしてあげたくなる。」
運転に集中しているということもあるのだろう、秋山の目線がちらりとなまえを捉えると、それはすぐにまた真正面を向いた。なまえはその数秒間に意識を奪われており、瞬間的に重なった視線が解ければ、なまえも再び風景を眺めていた。秋山の言葉に撫でられた心が嬉しそうに揺れている。甘えさせてくれる、甘やかしてくれる、なまえはあのだらしない胸元の暖かさを知っているし、あの懐の心地よさも知っている。
何故だろう、揺れる心を落ち着かせようと見た風景の、一瞬の内に流れて行ってしまう木々の緑やどこまでも続いて行く路面の灰色、青空に千切れたように浮かぶ綿雲、全ての景色が一段と眩しく、色鮮やかに見え、更に心を揺さぶられる。
なまえは初めて自分達が置き去りにしていく風景を名残惜しいと思った。きっと、二人でなかったら、見ることはなかっただろう。少しだけ窓を開けて外の空気を車内に取り込んでみた、涼しい風が頬を撫でれば、髪は微かに揺れ、吹く風と絡まり合う。いい眺めだね、運転もたまにはしてみるもんだ。と呟いた秋山に、そうですね、と頷いた。
それから暫くは車内のラジオから聞こえてくる懐かしい曲や真新しい曲に、聞いたことある?だとか、俺、この曲まだ歌えるかも、だとか、耳に留った歌詞を口ずさんだりと、陽気な空気の中、太陽に照る路面を走り抜けていく。なまえもそれにつられるように、徐々に移り変わる風景にはしゃぎ、神室町を出る前にコンビニで買ったカップコーヒーのストローに口をつけ、冷たく流れていくそれに喉を潤す。
運転を任せ切りにしてしまっている秋山へ、なんとなくコーヒーを近付け、ストローの口先を向けた。すると、ん、ありがと、と唇を微かに開き、秋山は差し出されたそれに吸い付いては喉仏を上下させる。
「なまえちゃんは甘いのが好き?」
「ええ。あ、…秋山さんは甘いの苦手でした?ごめんなさい、」
「ううん、気にしないで。普段はあんまり飲まないんだけど、貰った一口が美味しくてさ。甘いのも悪くないなぁ、なんて、」
「それなら、いいんですけど、無理とかしてませんか…?」
「してないよ。それで悪いんだけど、もう一口貰ってもいいかな。俺の飲み切っちゃっててないんだ。」
「そういうことなら、どうぞ。」
じゃあ、次のパーキングで何か買おう、と秋山の言葉にフロントガラス越しの景色を見れば、遠目に緑色の看板がこちらへと近付きつつある。パーキングエリアまでもう間もなくと告げているその看板に、なまえは小旅行感を感じていた。これから自分達を待っている楽しみが分からなくて、逆にその分からないことが良くて、面白いくらいに期待は膨らんでいく。なまえも、もう一口だけ飲みたくて、秋山が二口目を飲んだコーヒーのストローを食む。内心、どきりとしている人物がいることに気付かないまま、それは吸い上げられていく。
疎らに空いた駐車場の売店や休憩施設から、遠くもなければ近くもない位置に車は駐車された。辺りはカラフルな板金たちの群れ、ルーフやテール、バンパーは太陽の光をギラギラと反射させては目を眩ませる。長い時間、座席に座っていたこともあり、二人は車から下りると硬くなった体をほぐすように背伸びを繰り返す。
たっぷりと日差しの降り注ぐ今日の天気に、上着は少々暑苦しいと秋山はジャケットを脱ぎ捨て、運転席に置き去りにすると、今度は袖口のボタンを外し、腕まくりをしている。太陽に焦がされた、照り返しの強い路面を気だるそうな革靴と正反対に身軽そうなサンダルが歩いていく。遠目から見ても売店の賑わいには行楽シーズンを思わせるものがあり、二人は顔を見合わせた後、秋山の行こうか、という言葉を合図に正面の自動ドアを潜り抜けた。
熱気の籠った体に店内を漂う冷ややかな空気が触れる。ひんやりとしていて気持ちが良い、高まった表面的な熱もそっと取り除いてくれる冷気にとても助けられていた。店内をざっと見渡せば、少しだけ気の早いお土産コーナーやほぼ席の埋まってしまったフードコート、そしてコンビニで見かけるようなおにぎりやサンドイッチなどが並ぶチルドコーナーと様々な商品やサービスが広く展開されているようだ。
店内が手狭だと思うくらいの賑わいに、なまえは気分が弾んでいることに気付く。
見ず知らずの誰かの楽しそうな声や顔を見かけるだけで、同じように楽しいと胸が弾んでしまう。まだ目的地にすら着いていないのに、ただの寄り道程度にしか思っていなかった場所にさえ、笑顔や楽しみがあり、なまえはこうして遠くへと連れ出してもらえたことが嬉しくて、一人密かに口角を上げた。
それなりに並ぶことになった二人がレジカウンターを過ぎ、店から出てきた頃、冷えたペットボトルのコーヒーと緑茶はなまえの持つビニール袋の中に相席していた。外との気温差にビニールは微かに汗をかき、秋山はと言えば、なまえに車のキーを預け、お決まりの一服をしに喫煙所へ。暑さに弱そうな黒い背中を見送り、なまえは一人車の元へと戻って行く。がさがさと足元で鳴るビニール袋の音を聞きながら、うっすら汗ばむ体に足を早める。出来れば汗などかきたくないものだ、折角の二人きりの……、二人きりの、それ以上、言葉は続かなかった。
これはただのレジャーなのか、それともデートなのか、いやいや、ただのドライブって可能性もある。声を掛けてもらえたとは言え、どう言った理由で誘われたのか、そこまで考えは及ばなかった。しかし、今更気にしても仕方がないと、そこそこに熱せられたドアを開け、運転席に乗り込もうとしたが、座席には秋山が置き去りにしていったジャケットが車内の暑さに茹だっていた。
ジャケットを助手席へと逃がし、どっかりと運転席に座ってブレーキを踏み、エンジンを掛ける。若干、物足りない風量のエアコンをやや強め、なまえは運転席から降りると、最初自分が座っていた助手席へと戻って行った。手にしていた袋から飲み物を取り出し、左右端にあるドリンクホルダーに入れておく。秋山のジャケットは今だけ自分の膝の上に乗せておくとして、なまえは携帯を取り出すと秋山が戻ってくるまで、ぽちぽちと指先で待ち時間を潰してみる。車内は徐々に冷え、汗ばんでいた体もすっと冷えていくようだった。
窓の外はやはり眩しいほどに晴天で、絶好の行楽日和。喉の渇きに緑茶を流し込んでいると、一服を終えた秋山がこちらへ向かってくるのが見えた。しかし、その手には見慣れないものが握られていて、緑茶をドリンクホルダーに預けた後はずっと秋山の姿だけを目で追っていた。
「お待たせ。」
「秋山さん、それって……、」
美味しそうでしょ?と子どものような笑みでそれを差し出す。秋山が手にしていたのは、真っ白なソフトクリームだった。コーンとアイスの縁にプラスチック製の小さなスプーンが二つ添えられ、一人分を二人で分け合うのだと察する。
ほら、一口どうぞ、とスプーンの先でアイスを掬い、そのままなまえに咥えさせると、自分もそれに続いてスプーンを咥えた。口に広がるすっきりとした甘みと冷たさに嬉しそうな悲鳴をあげて、暑い日のアイスの偉大さを味わう。なまえも既に溶け切ってしまったアイスの二口目が欲しくて、秋山の持つソフトクリームを掬った。その様子を見ていた秋山は突然なまえの顔をじっと見た後に、ぷっと吹き出すように笑い出したなまえは何事かと秋山を見たが、秋山はまだ笑っているようで何がそんなに面白いのか教えてくれないままだ。
「あ、秋山さん…!なんで笑ってるんですか…!」
「……ねぇ、そのアイスおいしい?」
「ええ。ひんやりとしていて、甘くて、とってもおいしいですよ。」
「そう、それなら買った甲斐があったってもんだね。」
そんなに嬉しそうな顔してくれるんだからさ、ほら、もっと食べて。と秋山は手にしたままのスプーンでアイスを掬うと、なまえの唇を軽く突いた。つんつん、と唇を刺激されれば自然とそのスプーンを食み、アイスを舌先で溶かしていく。すっと口内から引き抜かれた後には、遅れてやって来る妙な恥ずかしさ。
「もっと食べていいよ、溶けちゃう前に、」
「…あの、秋山さん、」
「なに?……あ、もしかして、全部食べたいの?参ったな…、一つしか買ってきてないよ、」
「ち、違います…!それじゃあ、私食いしん坊みたいじゃないですか…!」
「あれ、俺はてっきり、」
「秋山さん…!」
「はは、ごめんごめん。冗談だって、」
けらけらと笑う秋山を横目になまえは手にしたスプーンで次の一口を掬う。それを見た秋山は、やっぱり食べたいんじゃない、と今度は控えめに笑った。
「でもさ、いいよね。こうやって素直に喜んでもらえるの、」
運転席に深く座り、背中をべったりと背もたれに預け、秋山は何かを噛み締めるように口角を上げて、なまえを見た。嬉しいのだと思った、直感である。秋山には神室町から飛び出して違う場所に行く必要があったのかもしれない。名の知れた神室町では様々なトラブルに巻き込まれてしまう。例えそうでなくても、金融業を生業としているのだから、なまえの知らない苦労や気疲れ、面倒事などざらにある筈だ。
だから、この夏の誘われるような日差しの下、乗り慣れない車に乗って神室町を飛び出したのだ。そんな日に、そんな時に、声をかけてもらえたことが嬉しい、隣に座っていて良いのだということが嬉しい。もしかしたら、あのだらしない胸元は何かを待っているのだろうか。その何かは自分で与えられるものなのだろうか。
「……ねぇ、凄い無茶なこと言ってもいい?」
「どうぞ、それに秋山さんの言う無茶なことには慣れてるので、」
「俺ってそんなに無茶ばかり言ってる……?」
「そこそこには。それで、なんです?」
あのさ、と視線が何度もなまえと下を行き来した後、ようやく秋山はその無茶について話し始めた。なまえは先程まで食べていたソフトクリームの冷たさを忘れ、秋山に目線を合わせる。
「今から海行かない?」
「……構いませんけど、それが無茶なこと、なんですか、」
「いいや、まだあるよ。海だけじゃなくて、山にだって行きたいし、動物園や水族館、博物館……、あとは二人でいられる場所とか。」
「さすがに一日じゃそんなに回りきれませんよ、」
「いいんだ、それで。今日で終わらないってのがいい。っていうか、今日だけで終わらせたくないって思ってる、俺は。」
外の熱気に冷ややかな白が溶けているのか、エアコンが効いているというのに車内に漂う熱い雰囲気に溶け出しているのか。上手く次を言い出せなくて、秋山の言葉に戸惑い、嬉しさ、妙な気恥ずかしさ、それら全てがぐちゃぐちゃに混ざり、ただ視線が右往左往するばかり。
「なまえちゃんは、どうだろう。この先の予定、俺に少しくれないかな、」
「……だめです、」
「あれ?もしかして、フラれちゃった…?本当に?」
「秋山さんにばっかり付き合うのはずるいです、私にだって行きたい所とかありますし、」
「ええっと、つまり、それって、」
「…行きます。秋山さんと海。水着持ってきてないですけど、」
そう、と秋山は満足げに口の端を持ち上げると、長いこと忘れ去られていたスプーンで、でろでろに溶けたソフトクリームを食べた。予想以上に多く運ばれたアイスはスプーンから数滴滴り落ち、秋山の口元を汚す。んん、と唇を閉ざし、顔を上へと向ける姿になまえは急いでティッシュを数枚取り、その口元へと宛がった。優しくそれを拭ってやると、秋山はありがとうと口にした。
「それじゃあ、出ようか。」
頷いたなまえは秋山からソフトクリームを受け取ると、溶けかけのアイスを掬った。シートベルトに身の安全を任せれば、パーキングブレーキは解除され、シフトレバーはDを指して、車体は前進していく。左右を確認している横顔、自分の膝の上に忘れられた彼のジャケット、もうすっかり一人分となってしまったソフトクリーム。
これから二人は海へ向かう。灼熱の砂浜、白く煌めく青い海、ビーチは賑わう声で溢れ返り、降り注ぐ日差しに肌を焦がしていく。
「秋山さんは水着まだ着れます?」
「そりゃあ、まだまだ現役だよ。そう言うなまえちゃんは?」
「着れなくはないと思いますけど、でも恥ずかしいですね、」
「へぇ、じゃあ、期待してもいいのかな、」
次は水着持って行こう、エアコンが冷風を吐き出す音や徐々に大きくなっていく加速音に負けない、はっきりとした声でちゃっかりまた次の予定を取り付ける辺り、彼はやり手の人間なのだと知る。いいですよ、と返す前になまえはもう一口、プラスチックのスプーンを食んだ。
夏はあとどれくらい残っているだろう、あとどれくらい彼の為に分けてあげられるだろう。取り敢えずはもしもの為に、神室町に戻ったら自分に似合う水着でも探しに行こうと密かに思うなまえだった。
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