玄関ドアを一枚挟んで、内と外で二人の人物が立っていた。内側にいるのはこの部屋に住んでいるなまえという女で、外側で待っているのはなまえと親しい関係にある品田という男だった。なまえは覗いたドアスコープの先に品田が立っていると知ると急いでドアを開けた。

 その瞬間、あ、と声が聞こえた。今の今まで意識がこちらに向いていなかったのだろう、ドアが開いた事でまるで現実に引き戻されたかのような反応をする。


「ああ、えっと、急にごめんね。突然押し掛けるつもりはなかったんだけど、」

 寂しそうな顔で困った笑みを浮かべて、品田はごめんと続けた。謝る必要はないのだと何も持たない手を取り、部屋へと引き入れる。珍しい、そう思った。なまえの知るこの男が突然何の連絡もなく、ここへやって来る事が珍しかった。いつもは電話やメールで"今日は大丈夫?"と必ず連絡を入れる、そんな彼がどうして自分の元を訪ねたのか。
 それはなまえ自身にも分からなかった、この様子を見る限りじゃ、酷い空腹に耐えかねて、借金の取立てから逃げて来て、といった事ではないのだろう。未だ玄関先から動けずにいる、ブーツを履いたままの彼に声を掛けた。なまえは声を掛けずにはいられなかった、佇む彼がこの薄暗がりの中に消えてしまいそうで。

「さあ、上がってください。そんな所じゃ寒いじゃないですか。」
「……うん、ありがとう。上がるね。」

 品田はなまえのその一言でようやく履き慣れたブーツを玄関に置き去りにし、なまえの後を追って部屋へと上がって行った。


 なまえはキッチンに立つと飲み物の準備を始め、品田に近くの椅子に座るよう呼び掛けた。言われた通りに椅子に座れば、なまえの背中を黙って見つめていた。品田が浮かない表情をしている事など、背を向けているなまえには気づく余地もない。それを良いことに品田は一人、過去を見ていた。


 どれだけ遠くに逃れようとも必ず追い掛けてしがみついて来る、過去の自分の姿がある。あの日の事を忘れられない、手に伝わる確かな感触も、耳にこびりつく程の歓声も、目が眩むほどに眩しかった球場の照明も、今でもはっきりと覚えている。十五年経った今でさえ、それは突然目の前に現れる。身に覚えのない賭博の容疑、球界を永久追放という処分、品田の知る世界が一変したあの瞬間がフラッシュバックする。

 酷く疲労していた。過去は自分から伸びる影のように切っても切り離せない。リスタートをかけても自分の素性が分かってしまえば水の泡、だからこそ、自分を知らない別の街にやって来たと言うのに、現実は、自分の過去はそれを許さない。この今は過去があっての今なのだと追い詰められている気分で、たった一度でも追い詰められたら最後、何もかもが不愉快で居心地の悪いものに思えてしまう。
 それじゃいけない、分かっていても心はどうだ、頭はどうだ。割り切れない感情がある、まだ、十五年経った今でもそれを持て余し、今日はもう何度目になるか分からない過去を夢に見た。

 逃げてしまおう、そう思った品田が辿り着いたのはなまえの元だった。なまえは品田が野球賭博問題で一時話題になったプロ野球選手だと言う事を知らない。それは品田にとって都合のいいことだった、だから、きっとこの部屋に、彼女の元にやって来たのだろう。


「どうぞ、冷めない内に。でも熱いですから気を付けて。」

 手元にマグカップがそっと添えられる。ふわっと漂う湯気に混じった匂いは仄かに苦い。なまえは自分のマグカップを両手で持ちながら、椅子に腰掛けた。

「あ、お砂糖いります?」
「ううん、大丈夫。このままでいいや。」
「それでどうしたんですか、こんな時間に。」
「いや、まあ、その、なんだろ。今日は夕方から仕事が入ってるんだけどさ、…その前に、なんだかなまえちゃんに会いたくなって。」
「…ふふ、嬉しいですけど、そんな言葉どこで覚えてきたんです?嬉しいですけど。」
「嬉しいならいいじゃない。なまえちゃんにもあるでしょ?こう、無性に俺に会いたくなる時とか。」

 う〜ん、そうですね…、と首を傾げるなまえに、まさか、ないってことはないよね?と身を乗り出しそうな品田に、ありますね、と返す。大きな溜息、その他の理由もいくつか紛れさせて、良かった、と口にすれば、私はいつだって品田さんに会いたいですよ、と言われ、密かに胸を満たしていた。


 荒んだ心を慰めてくれるような、傷口の痛みを取ってくれるような、この部屋はそんな場所だ。彼女の何かが丁寧に傷口を撫でてくれる、それでもまだ患部は熱を持ち、時折ずきりと痛み出す。過去を明かせないくせに寂しさを埋めようとしている。失ったままの心の余白をどうにかして埋めようとしている。彼女を使って、自分の傷を塞ごうとしている。そんな自分の狡賢い考えに嫌気が差した、当の本人と顔を突き合わせるまで何とも思っていなかった自分にも。嫌悪感を察したなまえは沈黙する品田に、最近の調子はどうかと尋ねた。

「俺はそうだなぁ、ぼちぼちってところかな。なまえちゃんは?」
「聞いておいてなんですけど、私もぼちぼちです。」
「なんだ、じゃあ一緒じゃない。」
「そうなんです、」

 なまえの突拍子のない話に笑みが零れた。今まで固まっていた表情が一気に解けてしまったようで、何故自分が彼女の元を訪れたのかを理解する瞬間だった。二人はようやくマグカップに口を付けた、その熱さに少しずつ飲み進めていくなまえや熱さを忘れて思い切り傾けてしまった品田がなんてことない時間を過ごして行く。その中ですっかり解れた心が品田に問う、弱音を吐いてしまえばどうかと。


「なまえちゃん、聞いてもらいたい話があるんだけどいいかな。」
「ええ、なんです?」
「…俺がここに来た理由、なんだけど、」
「私に会いたかったから、じゃなくて?」
「勿論それもある。でも本当はさ、」

 傷口が激しく痛み始める。血が集中して今にも中途半端に塞いだ傷口をこじ開けて流れてしまいそうだ。鼓動に合わせて痛みは増していく、本当になまえに寄りかかっていいものなのか。品田を見つめるなまえの目はそれを待っている。


「実は俺、とある人に悩みを打ち明けられてね。それがあまりにも重い話だったもんだから、一人じゃ抱えきれないと思ってなまえちゃんの所に来たんだ。」
「…悩み事ですか?」
「そう、悩み事。でもその人は結構それで悩んでて、話を聞いた俺もどうしていいかわからなくて。だから、ごめん。話、聞いてくれる?」


 品田はなまえにそう持ち掛け、自身の過去をまるで別の誰かの悩み事という形で話し始めた。敢えて彼女に他人と偽った自分の過去をなぞらせる。手にしていたマグカップの中身が冷めてしまうのもお構い無しに、彼女の手から離れたマグカップはテーブルの上でぽつんと取り残された。それ程になまえは真剣に品田の話を聞いていた、一心に耳を傾けていた。なまえの姿勢が懸命で、献身的であるほどに、品田は一人救われたような気になった。

 後ろ指をさされる、理不尽な出来事に対して、まともな理解も無く、ただ後ろ指をさされる。当時の絶望や恐怖、自分じゃどうしようも出来ない現実の理不尽さが甦る。怖いものだ、例え存在しない別の誰かに置き換えた話をしていても、自分だけがその過去の持ち主なのだから。その時の匂いや空気感、感触、温度、視線、言葉、部屋の無機質さ、それら全ては品田だけが知る現実だったのだから。


「……とまぁ、こんな感じなんだけど、」
「その、結構凄いお話なんですね。」
「ほんとだよね、こんなの想像してた以上の話でさ、」
「品田さんはこのお話を聞いて、どう思いました?」
「え、俺…?」

 まさかこちらにパスが来るとは思わなかった。彼女にとっては他人の話だが、品田にとっては上手く誤魔化して伝えている自分の話だ。多少言葉を詰まらせながら、散々な目に遭ったんだなって思ったよ、とパスを返す。

「ええ、本当になんていうか、辛かったでしょうね…。」
「…俺思うんだ。もしかしたら、今でも助けて欲しいんじゃないかな、って。その件でボロボロに打ちのめされて、必死で掴み取った筈の自分の夢がたった一日で潰れちゃって、その後には何も残らなくて、自分はどうすればいいのか分からない、……そう思ってるんじゃないかって。」
「品田さんは優しいんですね。」
「いや、俺は別に、そんなんじゃないよ。…そんなんじゃない。」

 そんな良い人じゃないと吐き出した言葉が自分を突き放す。存在しないソイツを理解してあげたい訳じゃない、ここにいる自分を理解してもらいたいだけなのかもしれない。何も知らない彼女に、過去の自分の傷に触れて欲しい、自分にとっての逃げ道になって欲しい、今だけでもいいから。

「なんだか、なまえちゃんに話したら、少しだけ気が楽になったよ。」
「それは良かったです。でも意外でした、品田さんの口から真面目なお話が聞けるなんて。」
「俺だってたまには真面目な話の一つや二つくらいするよ、」

 本当に楽になった気持ちがある。誰にも漏らさず、抱え込もうと決めた影を彼女に聞いてもらえただけで、こんなにも身軽に感じられる。内心では、ごめん、と謝っていた、きっと面白くない話だっただろう。出来ることなら彼女に聞かせるような話じゃない、なんて、分かり切っているのに吐露した自分の弱さが情けなかった。

「あ、そうだ。一つ、私からもいいですか?」
「別にいいけど、」
「その人に伝えてもらいたい言葉があるんです。」

 なまえの言葉に品田は首を傾げた、彼女は一体何を伝えようとしているのだろうか。


「もし、もしまた、どうしようもなくなったら、」

 いつでもここに来てください、私のことなんて気にせず。それだけを紡ぐと、なまえは真っ直ぐに品田の目を見ていた。なまえが言っていた言葉の意味がわかる、わかってしまう、この部屋にいる品田には。きっちりとその台詞を決めたなまえは思い出したかのように湯気の薄れたマグカップを傾けた。そして、もう一度品田を見やると口元を柔らかに吊り上げる。

「絶対、伝えてくださいね。約束ですよ。」
「わかった。俺から伝えとくよ、必ず。」

 ふふ、よろしくお願いします。と嬉しそうに笑うなまえに助けられたようだ。一つずつ胸の曇りを取り除いてくれる、優しさを丁寧に使って。品田も湯気の薄れてしまったマグカップを傾けると、うん、おいしい、と苦くて嬉しい溜め息を吐いた。


「ねぇ、なまえちゃん。」
「なんです、」
「俺もそっちいっていい?」
「奇遇ですね、私も品田さんの隣に行きたかったんです。」
「じゃあ、ここは男の俺から。」
「隣同士で座るなら、向こうのソファーにでも行きましょうよ。」
「いいね。そしたらなまえちゃんをぎゅって抱きしめちゃおうかな、」
「それなら、私は品田さんと手を繋ぎます。」

 仕事の時間までまだ時間は残されている。彼女に寄りかかってしまった、面白くない話をしてしまったお詫びではないが、残された時間で出来るだけ彼女を笑顔をしようと思っていた。

 背を向けていた現実はいつも冷たく心を刺してくる、しかし、今日くらいは彼女の言葉を、彼女との約束を優先させよう。振り向いた先にある過去へ、受け取ったばかりの優しさをくれてやる。だから、お前と向き合う日が来た時には、自分自身が答えに辿り着けるまで待っていてくれ、案外そう遠くない未来で、この優しさを道連れに。



| 過去のあなたによろしく言っといて |


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