貰った合鍵を手にとあるビルの屋上へ続く階段を上る。カツカツと鉄板を踏み締める靴底が鳴り、辺りも次第に建物の頭がよく見える景色へと変わっていく。階段を上り終えた先に、この合鍵が使える場所がある。コンクリートの灰色ばかりの屋上にはプレハブ小屋が一つあって、なまえの目的地はそこだった。
 動機はとても些細なこと、ただ会いに行きたくなったから。あの、しょぼくれているであろう体の大きな犬を思わせる彼に会いたかったのだ、そして自分が訪れた事によって嬉しそうに表情を明るくする様を見せて欲しい。

 鍵と鍵穴は一致する。ノブを回す事を許され、なまえは目の前の扉を開ける。しかし、肝心のあの彼は不在だった。仕事だろうか、それとも空腹を抱えてどこかをほっつき歩いているのか、借金取りに追われているのか。ここまで来ておいて帰るなんて選択肢を選びたくなかった、ここまでやって来たからには一目でも顔を見てから帰りたい。我儘から家へと上がると、お世辞にも綺麗とは言えない部屋へ足を踏み入れる。

 ようやく冬の冷たい風を遮る場所へ来たからか、なまえは安堵し、床に座り込む。季節特有の寒さに晒された体はゆっくりと体温を上げていく。そして何も無い、肝心の彼も居ない部屋で座り込んでいる内になまえは眠気に襲われた。うつらうつらと視界ははっきりせず、瞼は素直に何度も閉ざしては開かれての繰り返し。
 もう駄目だ、少しだけ横になろうとなまえは部屋の隅に投げ出されたままの座布団を枕代わりに、硬い床へと寝そべった。そして、気を緩めたなまえは一人静かに眠りに落ちた。


***


 無事満たされた胃袋で帰ってきた男は、扉を開けてすぐに飛び込んできた光景に驚いていた。誰かが自分の部屋の床で座布団を枕にして横たわっているのだ。声を殺し、なるべく音を立てないよう努め、この部屋の主は寝そべるなまえに近づいて行く。背中の傍に腰を下ろし、その顔を上から覗き込む。
 やっぱり、と思うのと同時に不憫な思いをさせていると思った。冷え込みが厳しい時期に、こんな所で硬い床に寝かせておくことに申し訳なさを感じ、ちょっとした躊躇いもあったが、自分の布団から使い込まれた枕を退かし、もう一枚の座布団を枕のように敷き、なまえの体に腕を伸ばした。目覚めてしまう恐れがあった、しかし、彼女の眠りを妨げる事はなく、硬い床から多少はマシな布団の上へと移動させる。

 これでよし、と自分の布団ですやすやと眠るなまえの姿に何か物足りなさを感じて、それは何かと考えた時、品田は自分の羽織っていたジャケットをなまえの寂しげな体にそっと被せた。そしてなまえが横たわっていた硬い床に今度は品田が横たわると、その気の抜けた寝顔を見つめていた。やっぱり女の子の寝顔って可愛いもんだよなぁ、と呑気な事を考えながら。


***


 ふと目が覚める。どれくらい眠ってしまったのだろう。肝心の彼は、品田はもう帰ってきているだろうか。ぼやけた視界のままで寝返りを打てば、隣に誰かが居る事を知った。自分と同じように横たわって眠る、なまえの会いたかった人物だ。しかし、どうしてタンクトップ一枚で眠っているのかと思えば、自分の体に何かが被さっている事に気付く。

 彼が愛用している見慣れたジャケット、それが掛け布団代わりになまえの体を冷やさぬよう、温めてくれていた。彼の寒そうに体を抱いて眠る姿に、なまえは体を起こし、足元に追いやられている掛け布団を手に取り、物音を立てぬよう、品田の体に被せておく。これでよし、となまえは少しだけ品田と距離を詰めて、被せてもらったジャケットに甘え、再び目を閉じた。実はこの布団、大変気持ちが良く、ついつい眠りたくなってしまうのだ。


***


 ほんのりと温かくて気持ちがいい。薄着だった筈なのに、と目を覚ませば、身に覚えのない掛け布団が自分の体を覆っている。なんで、と隣を見れば、なんとなくこちらに近付いているなまえの寝顔を見つけた。

「床だと体が痛くなるから、なまえちゃんだけでも布団に寝かせたのに。こっちに来ちゃダメでしょ。」

 彼女に向けて、もしくは喜びから口を突いて出た独り言に胸の辺りがゆっくりと温まっていく。でも、なまえちゃんがそうするなら、俺だって同じ事しちゃうよ。と今度は思い切りになまえの方へ身を寄せ、掛け布団を広げて自分となまえの体を閉じ込めた。

「俺のジャケットじゃあ、足とか寒いよね。俺、なまえちゃんが風邪引いちゃうの嫌だからさ、掛け布団半分こにしよう。」

 って事だから、次目が覚めても怒らないでね。そう言い残して品田は布団の中の小さな背中へ腕を回し、目を閉じた。彼女の香りを吸い込む、手のひらに伝わる温かさも感触も、隣にある無防備な寝顔も、何もかもが心地よくて優しかった。おやすみ、と投げ、品田はもう一度だけ眠りに落ちていく。


***


 とても気持ちが良い、そんな場所だ。どこもかしこも温かくて、好きな人を身近に感じる、それほど自分に甘い場所だった。流石にもう眠れないと目が覚めて一番に見たものになまえは驚く。胸に抱かれている、自分も彼の懐へ体を寄せ、身を丸めていたのだ。背中へ回された手はそのままで、会いたかった人物が目の前で無防備な寝顔を晒している。その安心し切った寝顔を眺めている内に妙な気分になって、相手を起こさないように顔を近付けた。
 いたずらのような、いとおしさのような。どちらにもよく似た感情でなまえは目を閉じ、ゆっくりと頬へ唇を寄せていく。きっとあともう少し、緊張に胸を高鳴らせ、なまえはキスをすると言う数秒後の結末を待った。


「……あれ、なまえちゃん何してるの?」
「ひっ、」

 ばちっと目を開く、目の前の寝顔は能天気な寝起き顔をしている。自分が零した情けない声に頬があっという間に熱くなり、近くなり過ぎた距離を戻そうと上体を起こして、何も無かったかのように振舞おうとしたのだが。

「なんかすごく距離近かったね…。あっ、もしかして……!」
「い、いや、別に、私は何もそんなやましいことは……!」
「…寝てる間にちゅーしようとしてた、とか。じゃないと、あんなに近くならないんじゃない?」
「お、起きてたんですか…?!」
「……え?本当にそうなの…?」

 自分の口を塞いだのは自分の手で、それはまるで品田の言った言葉が正解であるというような反応だ。しまった、そう思った時には遅く、品田も体を起こすと眠たそうな瞳に星を浮かべ、キラキラと眩しい眼差しでこちらを見ていた。


「い、今からでも遅くないよ!なまえちゃんが恥ずかしいって言うなら、すぐにでも俺寝るから……!」
「も、もう無理に決まってるじゃないですか…!私、帰ります…!」
「ええ?!ダメだよ!第一、なんで帰るのさ?!」
「なんでって……、」
「ここには俺に会いに来たんでしょ?だったら、今日は俺と居ないと、来た意味なくなっちゃうよ!」

 また明日出直してきます…!と返せば、じゃあ明日ならいいの?と相変わらずそこに固執しているようで、当分はダメです、ときっぱり否定する。露骨にしょぼくれた顔をして項垂れる品田になまえは居た堪れなくなり、やはりそんな反応や顔をされてしまっては弱いのだと、項垂れた品田の懐へ潜り込み、寂しそうな頬に唇を軽く押し当てた。その感触は一瞬で、品田がそれに気付く頃にはなまえは既に懐から抜け出ていた。

「……今のって…、」
「あんまりにも悲しい顔をしてたから、つい、」
「俺、そんなに悲しい顔してた?」
「うん、しょぼんってしてた。」
「ね、なまえちゃん、」
「はい?」

 もう一回して欲しいな、と意図せず上目遣いをしてみせる品田に、なまえは何故だか急に頬が熱くなり、顔を背けた。自分はなんて事をしてしまったのだろう。さっきから、どうしたの?大丈夫?と声を掛けてくれる品田の声に余計に恥ずかしくなる。それからしばらく振り向けずにいると、後ろから大きな体に抱き寄せられた。肩の辺りに顎を乗せて、本当に大丈夫?と問う品田に、なまえはようやく頷き、僅かに振り向いた途端。
 むにっと頬に触れる何かがあった。長く触れるそれから熱い吐息を感じると、今この頬には彼の唇が触れているのだと知った。


「なまえちゃんにだけしてもらうんじゃ、ずるいからね。だから今度は俺の番。それなら良いでしょ?」
「ああ、えっと、その…、」
「この部屋寒くてやんなっちゃうよね。だからさ、体が冷えないようにこのままくっついていようよ。」

 うん、と小さな声で答えれば、嬉しそうに抱き締められる。あまり力まないように、なまえが苦しくなってしまわないように、それでもこのままでいいと言ってくれた嬉しさを表現するように。


「布団掛けてくれたの、なまえちゃんだよね。」
「だって、寒そうな格好で寝てるから、」
「なまえちゃんも上掛けて寝ないと風邪引いちゃうよ。」
「他人様の布団を勝手に使うのは…、」
「まぁ、確かに、そうだよね。でも俺はなまえちゃんが風邪引いちゃう方が嫌だなぁ、」
「だから、ジャケットを?」
「そういうこと、」

 あ、ジャケット着ます?と今の今まで布団と一緒に横たわっていた品田のジャケットを手に取ると、ううん、膝にでも掛けといて、と後ろから伸びてきた手によってそっと膝を覆われる。

「それになまえちゃんを抱き締める時はこっちの格好の方がいいじゃない。」
「どうしてです?そんな薄着じゃ寒いじゃないですか。」
「こっちの方が触れ合ってるって感じがして、落ち着くんだよね。」
「ふふ、可愛い事言うんですね。品田さんも。」

 え〜?俺、もう可愛いなんていう歳じゃないんだけどなぁ、と悩ましげに呟く品田の声や吐息がくすぐったくて、なまえは自分の腹部に絡み付く品田の手に自分の手を重ねると一言、暖かいですね、と続けた。離れたくないなぁ、なまえちゃん本当に帰っちゃうの?とあまりにも寂しそうに言うものだから、先程自分が口にした言葉はなかったことにして、今日のこの寒さに甘えてこのまま彼と身を寄せていようと思った。ぽつりと零した、いいえ、帰りません、の一言に品田はまたなまえを抱き締めるのだった。



| 君を包む温もり |


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