夜中の張り付くような真っ青な闇の中で、ぱちりと開いた両目で過ごしていた。昨日までは時間になれば眠れていたのに、今日は何故だか眠れない。心配事や不安、悩み事も特に思い浮かばないのに、ただ漠然と眠れずにいるのだ。時々、そんな夜がある。そして、今日がその夜だった。いつものベッドはこんな時ばかり居心地が悪くて、何度も寝返りを打って天井の薄明かりの淵をなぞっている。
 幸いなことに明日も休みだ、夜更かしをしてしまっても良いのだろうけど、そんな気にはなれない。出来れば、しっかりと眠って、しっかりと朝に起きたかった。だが、痺れを切らして枕元に置いた携帯に手を伸ばす。悪循環の始まりである。しかし、今はそうする他に良い方法が思い浮かばなかったのだ。

 使い慣れたメッセージアプリ。知り合いの連絡先を上下にスクロールしていけば、とある一人の名前が目に留まり、手が止まる。もしかしたら、この人なら遅い時間帯であっても起きているかもしれないと、何となしに呼び掛けてみる。少し前に交わしたやり取りの履歴をぼんやりと眺めながら、彼の続きを待っていた。来るかどうかなんて分かりもしないのに、先行した寂しさを悔やむ。
 迷惑になっているかもしれないと、携帯の画面をオフにして掛け布団を頭まで被った。やっぱりやめた、と顔を出し、また天井の薄明かりを見つめる。通りを行く車があれば、ヘッドライトの明かりが部屋を僅かに照らして消えていく。真夜中まで一人で起きているもんじゃない。自分でもその理由は分かっているのに、体が言うことを聞いてくれない。ああ、またこうやって意味もなく落ち込んでいくようなことばかり考えてしまう。やめたい、と思っていると、ぶるり、とバイブレーションが聞こえ、枕元に置き去りにした携帯を手に取る。

「海藤さん、こんな時間まで起きてる」

 ブルーライトが降り注ぐ液晶に目をやれば、望んでいた相手からのメッセージ通知が届いており、なまえは携帯を両手で握り締めながら真横に寝返りを打った。どうしたよ。と端的に打ち込まれたメッセージに、ありのままを打ち明ける。眠れないと伝えれば、彼らしい言葉が返ってきた。

『そんなに眠れねえなら、俺んとこに来るか?』

 つい、飛び起きるほどの衝撃だった。え?と海藤から送られた言葉の意味を何度も何度も分析し、解析している。本当に?真面目に受け取ってもいいのだろうか。ただでさえ、自分が眠れないからってどうにかしてもらおうっていう考えだったのに。まさか、酔っ払ってるんじゃないかとも思った。だが、この文面には惹かれる部分があった。恐る恐る、『本当にいいんですか?』と送り、次の返事を待った。
 すると、メッセージの返事とでも言うように手にしていた携帯の表示が着信画面へと変わる。慌ただしく飛び跳ねる心臓を落ち着かせ、背筋をピンと伸ばして黄緑のアイコンをタップして携帯を耳に添える。もしもし、と呟けば、よう。眠れねえんだって?と陽気な声が聞こえてきた。一瞬にして陰鬱な部屋の雰囲気が溶けていく。

「はい、全然寝付けなくて」
「珍しいな、考え過ぎて堂々巡りでもしてたか?」
「そういうのじゃなくて、普通に眠れないんです」
「そりゃあ、つれえなあ。それで俺にSOSを出したってわけか」
「すごい軽い気持ちでメッセージ送ったんですけど、まさか海藤さんがまだ起きてたなんて思ってもなくて」
「それじゃあ、俺が寝てたらなまえちゃんは余計に悶々としちまってたな」
「まあ、そうですね。ありがとうございます、連絡してくれて」
「いいって、礼なんて。女の子が一人夜も眠れねえって困ってんだ、それを助けてこその俺だ」

 会話の中身が軽ければ軽いほど、気分も明るくなっていった。時計に急かされる焦燥感も、だらだらと過ごしていることへの憤りも、綺麗さっぱり忘れられた。そして、何となしに分かったのは、一人が寂しかっただけなのかもしれない。勿論、日頃からの人間関係は非常に良好なものだ。それに支えられ、孤独とは無縁の日々を送っているものの、ふとした時の寂しさの埋め方まではまだ分かりきっていなかった。

「そう言えば。海藤さんは何してたんですか」
「ああ、俺か?俺はな、一人で飲んでたとこだ」
「ってことは、今お家ですか」
「おうよ。それでなまえちゃんと電話してる」
「海藤さんって外で飲んでるイメージだったから、なんか意外です」
「そうかあ?結構、家でも飲んでるぜ」

 沈んだ部屋に陽気で軽い言葉が浮かんでいく。悪い気はしなかった。部屋の沈黙が深く沈んでいればいるほど、海藤との気軽な、他愛もない会話がその沈黙を塗り替えてくれるようで。そうして、しばらく話し終えた後、海藤から家の近くまで来てるから出て来れないか。と遂に誘いを受けた。分かりました、とだけ伝え、通話も切らずに急いで簡単な身支度をする。どたばたと慌ただしいのが丸聞こえであっても、早く会いたい気持ちが先行しており、気にもならない。そして、最後に携帯を握り締め、耳に当てながら玄関の扉を開ける。

「今、出たんですけど、」

 辺りをキョロキョロと見渡せば、こちらに携帯を振ってみせる人物がいた。高い背格好、夜であっても派手さが損なわれない、いつもの艶やかな花柄シャツ。液晶画面の光に誘われて、扉の施錠を済ませると、彼の元へと向かった。辺りの薄暗さなんて気にならないほど、早く傍に行きたかった。待たせてはいけない、と言うよりも、ただ話を続きをしたい、に近しい感情で。しかし、ぼんやりと照る電柱の光に晒されて思うことがある。自分自身、大した格好をしていないことだ。既に入浴を済ませていることもあり、化粧っ気のない素顔が何故か恥ずかしく思えた。

「よう、夜分遅くに悪いな」
「いえ、私が言い出したことですし、」
「……なんだよ、急に俯いちまって」
「えっと、その、今のわたし、人様の前に出れるような顔じゃないと言いますか、」
「そんなの、気にすることねえだろうが」
「で、でもですね……、」

 ぐい、と不意に距離が縮まり、海藤が酒を嗜んでいることを思い出す。僅かに赤い顔が視界に広がり、その距離の近さに驚く。

「な、なんですか、」
「悪くねえよ、すっぴんも」
「そんなに、見ないでください……!」
「俺ぁ、好きだぜ。飾らねえ良さっつうやつだよ」

 優しい言葉に促されるように、不安を抱えたまま海藤を見た。すると、目の前の本人は全く気にしていないという様子で、寧ろ、こちらをぐいぐいと覗き込んでくるのだから、気恥ずかしい。ほんの戯れを少し、それからは目的を思い出したかのように二人並んで歩き出す。
 夜の住宅街を歩いていくのは、不思議と胸が躍る。滅多に出歩かない時間帯に、海藤と一緒になって歩いているからだろうか。それは、十代の頃のちょっとした帰りの遅い日を思い出させる。夜の醸し出す薄暗さに漠然とした恐怖を感じながらも、やはりどこか胸が高鳴り、その好奇心に突き動かされる感覚。眠れないことから来る不安も、形容し難いまだ見ぬ心配も、どこかに行ってしまった。

「そんじゃあ、冷え込む前にずらかるか」

 まるでどこかへ夜遊びに出たかのような言葉選びが腑に落ちて、しっくり来る。酒が入り、上機嫌な海藤に手を攫われ、初めは驚いていたが、何故かそれもまた心地よくて離れ難い。体温の違いを手のひら越しに感じ、夜風の冷たさを頬に感じ、拙い足取りの素面な自分と、酔っているのにしっかりとした足取りの海藤とで歩いている。そんな、まるでちぐはぐな光景が少しだけ優しく、少しだけ嬉しかった。

「海藤さんは戻ったら、飲み直すんですか?」
「どうすっかなあ、」
「あの、もし、良ければ」

 わたしも、付き合いますよ。と自信のない瞳で、唇で呟いた。強気なアイラインも引かれていなければ、色付くアイシャドウも、ない。それでも、良ければ。言った後で、自分の狡さに気付いたのだが、海藤はどうなのだろう。無理してまで飲むこたあねえよ。と返事が夜風に消える。無理したつもりなどないと、密かに視線を海藤に逃がせば、そこに口角を上げて今にも鼻歌を歌い出しそうな雰囲気の海藤がいた。

「なんだか、うれしそうですね」
「そうか?……そうかもなあ、」
「ふふ、海藤さんに連絡してよかったです」
「そうかい、嬉しいねえ」

 迷惑をかけているとばかり思っていた。しかし、隣人は嫌な顔一つせず、わざわざ自分の弱さに付き合ってくれた。こんなに嬉しいことがあるだろうか。こんなに優しいことがあるだろうか。ありがとうと伝えると、照れ臭そうに笑って、おう。とぐしゃぐしゃの笑顔が溢れ、何もかもがどうでも良くなってしまった。不安に傾いていた自分がフラットになれたようで。物悲しい感情がリセットされたようで。今夜からは、もう大丈夫だと思えた。



| 眠れずのアンドロメダ |


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