見慣れぬ環境に身を置く二人がいた。いつもならば、生活感丸出しの事務所で次の仕事が来るのを待っているのだが、ここ数日はあまり穏やかではない。質素なビジネスホテル、安さだけが売りの素泊まりするにはうってつけの場所に二人はいた。
「きみまで着いてくる必要はないんだぞ」
男は女を巻き込んでしまったことを気にかけていた。男はその事務所の主である桑名仁で、異人町で便利屋稼業を営んでいる。話しかけられた女は桑名の下で働く事務員であった。
「危ない状態にある事務所になんて居られません」
「きみなら、杉浦くんや九十九くんに匿ってもらうことが出来たはずだ」
「あの二人だって忙しいんですから、迷惑になるようなことは出来ませんよ」
部屋にたった一つしかないベッドに腰掛けた彼女はみょうじなまえと言った。このような状況では多少の勘違いが生じるのだが、そもそも桑名が一人身を隠すために取った部屋になまえも一緒に逃げる形になり、成人二人に対してベッドが一つというアンマッチな結果になってしまった。
「俺といるとろくな目に遭わないぞ」
「今更ですね。そんなことより、明日はどうしますか」
「本当に知らないからな、どうなっても」
「大丈夫です。だって、桑名さんが守ってくれるでしょう?」
屈託のない笑顔に狡猾さは見受けられない。良くも悪くも素直である。だからこそ、危険に巻き込みたくないという思いが強まっていく。けれど、桑名の内心とは裏腹になまえは行動を共にしている。彼女の中の全幅の信頼が自分に向けられているのだと知るのには良い機会だが、やはり危険には晒せない。
「じゃあ、俺になにかあったらどうする?」
「その時は九十九くんに連絡します」
「……俺に守ってもらうから大丈夫なんじゃないのか」
「桑名さんのピンチなんですから、そりゃあ助けを呼ばないと」
「なあ、やっぱり杉浦くんのところに行ってくれないか」
この一言が余程嫌だったのか、彼女はぷい、と顔を背けてしまった。こうなってしまうともう打つ手はない。彼女は多少、芯が強いところがある。決断したことは決して曲げないのだ。勿論、臨機応変に対応することも出来るのだが、『桑名仁』と『危険』という条件が揃うと、それはより強固なものになる。きみは俺のおふくろでもないだろ?と彼女の作った壁に投げ当ててみる。過保護は不必要だ。理不尽はいつだって時と場所を選ばずにやってくるのだから、大切なものほど遠ざけるしかない。
「みょうじくん、俺の話を分かってくれるのはきみしかいない」
顔を背けた彼女の真正面に膝を着き、彼女の顔を見上げる。すると、自然と視線が重なり、彼女の切なそうな瞳が見えた。俺なら大丈夫だ、と呪文のように繰り返し言い聞かせれば、彼女は大きな溜め息の後に僅かに頷いた。すまない、助かる。と彼女の選択に感謝の気持ちを添えると、彼女はベッドから離れ、近くの粗末なテーブルに置き去りにされていたコンビニ袋を漁り始めた。
「じゃあ、今日だけはまだ一緒にいてもいいですか」
「ああ、それぐらいは構わない。でも、約束だからな」
わかってます、と何かを悔やむようにぽつりと吐き捨てるなまえに、我儘な上司を持つと苦労するな。と添えてやる。本当ですね、と小さく微笑んで返してくれるのだから、彼女は気兼ねなく話が出来る数少ない相手だと再認識する。だが、彼女は彼女で内心思うところがあったのか、再びベッドに腰を預けると、コンビニ袋から取り出した酒の缶をひたすらに消費していった。普段、滅多に飲む相手ではない。だから、流し込むように飲酒するなまえを止めるべく、声をかけた。
すると、今度は手にしていた空き缶を力の限りに握り潰そうとしていた。しかし、彼女は握力が強い方ではないようで、潰れたと言うよりかはほんの少し凹んだ具合に落ち着いてしまった。そして、もう一本に手を伸ばそうとする彼女の手を掴むと、しおらしくバツの悪そうな顔をして彼女は俯いてしまった。手にした僅かに凹んだ空き缶を静かに握り締めて。
「どうしたんだ、らしくないな」
「今は飲みたい気分なんです」
「いいのか、明日に響くぞ」
「……桑名さんには関係ないじゃないですか」
「随分な言い方するんだな」
酔った瞳が大して鋭くもなく自分を突き刺す。普段なら、酒を嗜んだところでここまで悪酔いするような相手ではないと知っているから余計に心配が先行する。しかし、先程の突き放す言葉には密かに切られた身があるのが事実だ。関係ないときっぱり言われることは意外にも恐ろしいのだと知る。彼女は、なまえはまだ不服そうに俯いている。彼女の中で何かしらの変化があったのは間違いない、それを引き出すきっかけが酒だったに過ぎないだけで。
「わたしは、杉浦くんみたいに立ち回りが上手くない」
一つ、吐く。彼女は、そうなりたかったのだろうか。
「わたしは、九十九くんみたいに頭が切れるわけでもない」
二つ、吐く。彼女は、そうなりたかったのだろうか。
「わたしは、……桑名さんの力になれないんですよ」
三つ、吐いたところで、ようやく彼女が背負っていた肩の荷の重さに気付く。彼女は一人で己の無力に打ちのめされていたのだ。だが、そう気負う必要はないだろうに、と内心呟く。何故、彼女まで危険な目に遭う道に身を落とす必要があるのか。不要だ、間違いなく不必要なのだ。そんなことになってしまえば、自分を恨まずにはいられないだろう。そばに居る相手を不必要な危険に巻き込むことなど、許し難い失態そのものだ。けれど、彼女はそうでありたいと嘆く。なれない現実に安堵しているのは自分だけで、なれない現実に肩を落としているのは彼女だけだ。
「無謀と勇気は全く違うものだ。みょうじくん、きみならそれくらい分かっているだろう」
酒癖のせいか、不安定な瞳がこちらを見ると数秒間強く瞼を閉じ、嘲笑ともとれる笑いをこぼした。握り締めたままの空き缶を近くのテーブルに置き、なまえはもう少しだけ語る。
「きみにはきみの良さがある。無理をしてまで、俺の力になんてならなくてもいい」
「どうして、私が桑名さんに着いてきたかわかりますか」
「無謀と勇気の違いが分かる相手だ、さっぱり分からない」
──── だって、私がいないと桑名さんは平気で命を危険に晒すでしょう。だから、……だから、
がら空きになった手のひらは握り拳を作り、彼女自身のやるせなさに呼応するように強く、強く握り締められていた。
「私も桑名さんの為に、力になりたい。でも、私に出来るのは傍に着いて、危険から遠ざけることぐらい」
その言葉の残酷さが分かり得るだろうか。彼女は努力を惜しまず、他者の痛みに敏感な人間だ。そんな人間にとって、身近な存在の力になれないことの悔しさは計り知れない程だ。ましてや、自分以外の人間が同業且つ、あらゆる分野で活躍している環境において、その差は顕著であり、露骨な現実だ。
「でも、所詮は足手まといです。出来ることもたかが知れてます。それでも、私が傍にいれば、桑名さんは無茶な真似をしない」
非力な人間に出来る最大限の活躍は、いつだってその身を犠牲にすることだ。それは現代に至るまでの歴史でも証明され、実際にそれで歴史に爪痕を残す事例も生まれている。だが、思うのだ。彼女がそこまでして、身を挺してまで庇うべき人間なのだろうか。自分という人間は。
「もっと、上手いやり方もあったかもしれない。でも、私にはこれしか思い付かなかった」
項垂れるように身を丸くし、顔を震える手で覆い隠す。最も『大切』である彼女が、大きな切なさに押し潰されようとしている。
『みょうじくん、俺の話を分かってくれるのはきみしかいない』
不意に自身の言葉の残酷さに気付かされる。この言葉で彼女の本心を揉み消してしまったのではないだろうか。良き理解者を持った人間が、その相手にとって良き理解者になれていないのならば、結局は独り善がりな人間であるのと何ら変わらない。
「わたしだって、足手まといにはなりたくない。でも、」
でも、と俯き、塞ぎ込んでいる彼女の隣に腰掛け、ベッドにそのまま横たわらせてやる。そして、寂しそうに背中をこちらに向ける彼女にシーツを掛けてやり、大丈夫だ。と背中を擦るとそのまま眠りについてしまった。彼女はうっすらと赤みの残る顔で眠っていた。解けた手のうちを見れば、如何に彼女が自分の無力を噛み締めていたのかが見てとれた。深くくい込んだ爪の痕が痛々しく赤い。
「わたしが、桑名さんを、守ってあげなくちゃ、」
彼女は、小さく丸まった体を更に丸めていた。眠りの淵に沈む直前だったのかもしれない、彼女が図らずも言い残した言葉に力の意味を、その価値を問うてみたくなった。正確な答えはあるのだろうか。
「そうか、きみが俺を守ってくれるのか」
頼もしい部下を持てて、幸せだな。と彼女の知らぬところで、ささやかな幸せを呟く。みょうじなまえはいつだって桑名仁の良き理解者でいたのだ。
「俺だって、きみを杉浦くんに預けるのは不本意だ。でも、そうするしかない」
なあ、分かってくれるか、ともう一度だけ背を撫でた。返事はない、でも、それで良かった。今、自分が口にしたのは弱さだ。恥ずかしくて聞かせられやしない、弱さだ。小さくて丸いままの、寝息が穏やかな彼女に語りかける。
「またすぐにでもウチの事務所に通えるようにしてやる。休みっぱなしじゃあ、きみにまともな給料を渡してやれないからな」
音を立てぬようにベッドを離れ、部屋を後にする。薄暗がりの通路をエレベーターまで辿っていく。桑名が向かうのは、勿論自分達に手を出して来た相手の懐だ。しかし、当の本人からは無茶をしようという考えは消えていた。誰のおかげだろうか、陰ながら自分を守ろうとしてくれた彼女のおかげだろう。命を餌にして、近道をするようなやり方は控えようと思えたのだ。何せ、彼女が酷く悲しい顔をするだろうから。それに、そうしてしまったなら、彼女は何処へ行くにも一緒に着いてくるようになる。それだけは避けたかった。何故なら ────、
「俺だってきみを守ってやりたい」
これもまた、聞かせられぬ弱さだと数秒遅れて気付く。やけに今日の自分は青臭い気がした。
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