恋愛感情を抱く黒岩満




 神室署の入口で深々と頭を下げる女がいた。頭を下げた先にいるのは神室署の刑事で、更に彼女の隣にはバツの悪そうな顔をした若い男が立っていた。

「いつもご迷惑をかけて申し訳ありません」
「お嬢、こんな奴に頭下げなくったっていいじゃないですか……!それに今回のは俺が……!」
「何言ってるの、黒岩さんのおかげで釈放が早まったのよ」
「でも、お嬢にこんな真似させちまったら、親父に合わせる顔がないんです」
「お父さんはそんなこと気にしたりしないから。大丈夫、私が勝手にやってることだし」

 二人の会話に口を挟んだのは、黒岩と呼ばれる刑事だった。鋭い指摘の矛先は彼女ではなく、隣の反社会的組織に属する彼に向かっていた。

「お前らもいつまで彼女に頭下げさせるつもりだ?」
「あ……?てめえ、今なんつった……?」
「お願い、やめて。黒岩さん、本当にごめんなさい」
「お前らがそうやって好きに暴れた結果がこれだろ?いっつも彼女がその尻拭いをさせられてる」

 今にも黒岩に殴り掛かりそうな若衆を押さえ、先に帰るように促した。父が心配しているから、早く顔を見せてあげて欲しいと懇願する女に若衆も渋々踵を返し、その場を離れた。二人が騒がしい街に取り残され、顔を見合う。もう一度ばかり、頭を下げると遂に黒岩から顔を上げるように言われてしまった。

「なまえさんの気持ちも分かります。でも、いつまでも彼らの為に頭を下げる必要はないかと」
「黒岩さんの仰る通りです。でも、私にとって大切な家族ですから」
「これだから、なまえさんのお人好しには敵わない。普通なら嫌気が差してもおかしくありませんよ」
「……本当に返す言葉もないですね。ありがとうございます、黒岩さん」

 そう言って頼りなく微笑みかける彼女は、東城会に属する三次団体の組の娘だ。父親は珍しく穏健派で公に問題を起こしたがらない男なのだが、最近入った若衆達が根っからのチンピラ気質でこの街で問題を起こしている。その度に神室署へ通報が来るのだが、そのチンピラ達の代紋が彼女の親父のものであると知ると、黒岩に話が回るようになっていた。マル暴である黒岩に少なからず情報が入るのは当然のことで、彼らに接触を図るのもまた署内では黒岩にだけ許された特権だった。
 そのきっかけとなったのが、みょうじなまえの存在だ。どこぞのキャバクラでケツモチをしていたチンピラが必要以上に客を痛め付けたことで連絡が入り、身柄を拘束。その身元引受けに彼女がやって来たのだ。初めはチンピラの女かと思っていたのだが、チンピラの態度が一変し、挙句の果てには『お嬢』と呼ぶものだから驚かされた。彼女は組の人間がやらかしたヘマを自分の頭を下げて詫びた。このようなことは一般的に有り得ないことだ。ヤクザを親に持とうが、カタギの人間である娘が何故代わりに頭を下げる必要があるのか。

「私も今まで色んな人間を見てきましたが、ここまでお人好しな人は初めてです」
「これぐらいしか、私には出来ませんから」
「充分すぎやしませんかね。彼らはあなたに返し切れないほどの恩を感じているでしょうに」
「でも、突然父が神室署に来たらどうします?きっとそのまま逮捕されてしまうわ」
「……本来の職務、ですからね」

 要するに、誰も傷つけずに済むのが自分であると言いたいのだろう。彼女の言い分は間違っていなかった。自分も例に漏れず、彼女に甘い部分があるとは承知している。そして、それはこの署内の人間の誰もが同じものを抱いている。彼女は極めて誠実な人間だった。ちっとも誠実さを欠くことをせず、誠実であることを怠らない。恥もプライドもなく、自分の家族の為に頭を下げられる人間。ひたむきで真っ直ぐであればあるほど、周囲の人間の目も変わっていく。彼女はそれを一人でやってのけたのだ、足繁く神室署に通い、頭を下げ続けることで。

「送りましょう、もう遅いですから」
「……いえ、そんな、」
「あなたを一人で帰してしまったら、流石の穏健派もお怒りになる」
「過保護な時期はもう終わりましたから」
「いえ、送らせてください」
「じゃあ、歩きませんか」
「ええ、なまえさんがそれで構わないなら」


***


 喧騒の最中、彼女はよく謝っていた。忙しいでしょうに、と謝る理由をぶら下げて。警らは警官の基本です。と真っ当な理由を差し出すと、それ以上謝られることはなかった。大通りを外れ、細い路地を抜け、閑静な住宅街に出る。ぽつ、ぽつと等間隔に置かれている電柱に取ってつけた蛍光灯の明かりがもの寂しげであった。
 黒岩はなまえのことを気にかけていた。勝手に迷惑事を作ってくるチンピラの為に、献身を少しずつ切り売りしているからだ。正直な話、やめた方がいいと何度諭したことか。しかし、結局は譲らない彼女に根負けし、今の関係に至る。

「苦労を増やすことが正しいとは限らない」

 何気なく呟いたのは黒岩だった。彼女の核心に触れる冷たい一言だ。親族にその手の人間がいる者は、例えどんなに人が出来ていても手を伸ばせない将来がある。彼女は自分とは全く正反対の人間だった。生まれた家が違えば、出会うこともなかったかもしれない。だが、極道の家に生まれたからには裏社会の闇が付き纏う。そして、現状で言うなら自分がその『闇』なのである。

「どうして、黒岩さんは気にかけてくれるんでしょう」

 彼女もまた黒岩の核心に触れる冷たい一言を放つ。彼女の場合は、図らずも、なのだが。黒岩は彼女に言ってやれること、または言えないことの二つを隠していた。けれど、やはり極道の家の出は人を見る目に長けていると思い知らされる。敢えて黙り込んでいると、なまえの方から次は続けられた。

「三次団体であっても、うちは東城会です。警察の黒岩さんにとっては都合のいい相手じゃないんですか」

 視線だけをくれてやる。なまえがなぞった筋書きに狂いはない。しかし、彼女は『極道の家の出』なだけでしかなく、他者との複雑な感情を割り切る術を身につけられなかった。僅かに寂しさに曇る瞳に、なまえは一人口を開く。

「ヤクザの娘、ですからね。昔から苦労ばかりしてきました。それ以外は同じ『人並み』なはずなのに、『普通』になるにはそれ以上を求められて」
「さぞ大変だったでしょう」
「ええ、友人と呼べる相手もいませんでした。でも、私には組の人達が寄り添ってくれましたから」
「だから、今のようなことを?」
「確かに不自由はあります。でも、不自由だからって出来ることがないわけじゃない」

 だから、彼らがしてくれたように、私も『出来ること』をやっているんです。
 とても立派な答えだと思った。どんなに悪事に手を染めていようが、言い分の善し悪しは判断出来る。そして、薄っぺらさや青さを感じさせない何かに、誰もが抱きがちな嫌悪感すらこの時には忘れていたのだ。彼女は、みょうじなまえは裏社会に生きる人間の事情を理解出来る、数少ない人間だ。葛藤や苦悩、裏社会に染まる他になかった後悔も汲んでやれる人間だ。
 自然と、けれど、密かに拳を握り締めていた。渇望していたのかもしれない、良き理解者など現れること自体が稀有な世界に生きていたから。羨望していたのかもしれない、素行も悪く頭も悪い腕っ節と勢いだけが取り柄の、あの若衆を。

「でも、黒岩さんにとって、私が都合のいい相手でもかまいません」

 自分がいなければ、父の組の人間達を助けてやれなかったと彼女は言う。こんな時、ふと少し前のことが頭を過ぎる。それはまだ未熟だった自分に裏社会での生き方を教えてくれた先輩刑事のことだ。図らずも差し伸べられた手を取ったはいいが、彼は亡くなってしまった。恩義なんてものを当時の自分は持ち合わせていたのだろうか。報復は行われた、彼を告発した同僚はもうこの世にいない。
 彼女には、その時の先輩を失った自分と重なる部分がある。まるっきり同じではないが、誰かの為に行動したという点ではとても良く似ていた。だから、だろうか。彼女を気にかけてしまう心理の根源が。

「確かに、私はなまえさんを間接的な東城会関係者というように見ています」

 それから先は我ながら青臭い一面を見せたような、そんな言葉選びばかりをしていた。彼女の目が自分に向いていることに僅かな喜びを覚え、より強く欲しているのだと自覚する。気付けば立ち止まっていた。今はそうする他になかった。意外と自分は器用な人間ではなく、まだ強引さの残る幼い部分がある人間なのだと知った。この弱みを彼女は受け入れてくれるだろうか。それとも、これは淡い幻となって消え去るだろうか。

「本来ならば、あなたを見張り、組の動向を追うべきでしょう」

 この現実が、胡蝶の夢でないことを祈る。

「ですが、個としてのなまえさんを知っているからこそ、踏み切れない。私は、なまえさんを尊重したいと思っています」

 嘘偽りなど、どこにあるものか。ただ胸の内を、今しか明かすことの出来ない胸の内を明かしただけだ。嘘偽りがあるとするならば、それは自分の置かれている立場だけだろう。警察の人間でありながら、裏社会の住人としての一面を持ち合わせている自分を、彼女に、彼女にだけはありのまま受け入れてほしいと願っていた。刹那、初めて見る顔をしていた。彼女は、なまえは、今にも泣きそうな、けれど、どこか嬉しそうな。驚きが勝ることながら、確かにあの刹那、明るい感情が垣間見えたのだ。

「だめですね、私。そこまで言ってくれる黒岩さんのこと、まだ、どこか、」
「そう思うのも無理はありません。傍から見れば、警察と極道一家の一人娘という関係ですから」
「……さみしいですよね、素直に人を信じられないなんて」
「いえ、なまえさんの気持ちは分かります」

 当たり障りのない言葉、掃いて捨てるほどにありふれた言葉が今だけはやけに心地良い。彼女も、自分も同様だった。再び、歩き出す。頬の熱を取り除くように少しだけ足早に。それに着いていくのではなく、堂々と隣を歩いていた。そして、こうして並んで歩けるのはもう間もなくであると告げられた。
 目前には静寂に佇む和風建築の母屋があった。別れの時であるが、ここまで来ておいて勝手に帰ることは黒岩には出来なかった。

「もう、ここで大丈夫ですから」
「ここまで来たなら、親分に挨拶はしておかないと失礼になります」
「でも、」
「ただ、大事な娘さんを送り届けたと伝えるだけです。急に踏み込んだりはしません」
「分かりました。それじゃあ、上がってください」

 今度は彼女に着いていく形で家に上がらせてもらうと、迎えに出た若衆達が彼女の前で顔を強ばらせていた。明らかに物申さねば気が済まないといった具合だ。だが、彼女の口から家まで送り届けてくれたのだからお茶の一杯でも出したいと聞くと、大人しく奥へと戻って行った。そして、彼女に通されたのは、彼女の父の私室である。自分が申し出たにも関わらず、厳格で身の引き締まる空気が辺りに漂う。なまえの声に表情を和らげた彼はすぐに眉間に深い皺を寄せ、こちらを一瞥した。

「なまえ、何故ここに黒岩刑事が?」
「わざわざ、ここまで送ってくださったの。それで、」
「いえ、私から言い出したことです。娘さんに無理を言って」
「そうか」

 決して混ざり会うことのない、立場の者同士が対峙している。白と黒、対立する理由ならある。しかし、対立を望んではいなかった。彼は実の娘に退席するよう言い付けた。これから望まぬ会話をするのだろう、彼女は素直に頷き、部屋を出た。

「わざわざ警察の方がここに来られるとは思ってなかった」
「夜道は危険ですから」
「そういや、今日はウチの若いのが世話になったそうで」
「ええ。でも、いつものことでしょう?」
「あの子は優しい子でな、望まずとも私達の為にああやって動いてくれる」
「いつまで甘えるおつもりで?彼女には彼女の人生があるでしょうに」
「そうは思っていても、黒岩さんが気にすることではありません。あの子が決めることだ」

 まともな親らしい一言に笑みが溢れた。彼も自分の言葉の似合わなさに苦い顔をしている。いつだって自分の描く道の先を阻むものは排除してきた。

「彼女がいなけりゃ、とっくにここはなくなってる」
「あの子の心につけ入るのはやめてくれ」
「人聞きの悪いことを言うなよ、極道風情が」
「私がカタギなら何か変わったのか」
「いいや、どうなっていようと彼女は、」

 ──── 俺の手元に置いていただろうよ。
 極道の男は自分を見て、顔を強ばらせたまま何も発さなくなった。分かっているのだろう、今こうして何度も貸しを作っている状況の根本に何があるのか。彼女という人間一人のおかげで、今日を安穏と過ごせていることに。そして、気付いてもいるのだ。彼女は実の娘だ、娘の心境の変化に気付かない親などいない。特に苦労をさせたと負い目を感じている極道だからこそ、彼女のことには人一倍気が利く。察せてしまうのだ、傾き始めた彼女の心を。

「それじゃあ、そろそろお暇しましょう。なまえさんも親分さんもお疲れでしょうから」

 口角が吊り上がる感覚をそのままに、その場を後にした。畳を踏みしめる度、廊下の軋む板音を聞く度、満たされる感覚が込み上げる。帰り際、彼女が再び顔を見せたが、軽く会釈をするだけでそれ以上のことは何もしなかった。する必要などなかった、いつかその光景は当たり前のものへと変わっていくと知っていたからだ。



| やみをなでる、 |


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