冴島大河と勘違いからの両思い
どうしよう、見てしまった。どうしよう、どうしよう。その場から逃げ出すように喧騒に呑まれていく。どうしよう、勝手な思い違いだと気付いてしまった。どうして、どうして。恥ずかしい、勝手に期待していた自分が、恥ずかしい。向こうは恐らくこちらに気付いていなかった。ただ自分が人で溢れかえる神室町で偶然見つけてしまったのだ。こんなことなら、見つけなければよかった。あの大きな背につられて後を追わなければよかった。好きだったからと言って、何も考えずにあの背を追わなければよかった。
みょうじなまえが偶然にも見かけた冴島大河にはもう一つ連れ歩く人影があった。すらりとしているだけでなく、とても綺麗な人だった。冴島と仲睦まじそうに歩く後ろ姿に思わず、打ちのめされていたのだ。急いで視界の端にあったコンビニへと立ち寄る。これ以上は自分がどこかへ行ってしまいそうだと思ったから。無理に早足で歩いたせいか、足先が痛む。もしかしたら、靴擦れを起こしているかもしれない。だとしても、あの場所を平然と歩いていられるほど、なまえの心境は穏やかなものではなかった。
冴島大河との関係は、彼が隣に越してきたことから始まった。まさかのお隣さんというもので、引っ越しの挨拶に来たのを覚えている。彼は背が高く、体格も良い。それもあり、初めは警戒心を抱いていた。だが、隣人同士として接していく内に彼の素朴な人となりを知り、次第に惹かれていく思いがあった。だからこそ、よく分かる。彼はとても人のいい人間だった。親身になって話を聞くだけではなく、時には厳しい言葉も臆することなく投げ掛けてくれる優しい人だ。そんな人だからこそ、自分以外に異性の影があってもおかしくない。そう、勝手に独り身だと思い込み、あわよくば彼の隣人になりたいと的外れな感情を抱いてしまった。
乱れた呼吸を整えたところで、なまえは絆創膏を一箱購入すると速やかにコンビニを出た。あの二人はどこへ行くのだろうか。いや、そのような無粋なことを考えてはならない。それを考えるということは、彼に対してとても失礼にあたるような気がしていた。今度は近くの公園のベンチに腰掛けると、先程購入したばかりの絆創膏を一枚取り出した。靴を脱ぎ、踵に目をやれば、小さく皮膚が赤く擦れており、皮も剥けて痛々しい様子になっていた。今度からどのようにして接すればいいのだろう、今日だってあのアパートには帰るのだ。自分も、彼自身も。そして、明日がやって来て、いつもと同じように挨拶を交わす。
けれど、その時自分は他人行儀になってしまわないだろうか。今日のことが脳裏に浮かび、ぎこちなく接してしまわないだろうか。思い込みの激しい人だと思われたくなかった。勝手に恋心を抱いて、勝手に期待して、勝手に相手もそうかもしれないと変哲もない親切を好意だと勘違いして。そう思うと、少しだけ今日を生きるのがしんどくなってしまった。これも結局は身勝手でしかないのだが、どうか許して欲しい。せめて、落ち着くまではこの公園にいることを許して欲しかった。
***
帰りは夕暮れ。濃紺の空がなだれ込む。靴擦れはまだ痛い。傷の上にたった一枚薄皮を貼り付けただけなのだから、多少の痛みがあってもおかしくはない。とぼとぼと歩く姿は、恐らく行き場がない思いを抱えて、どうしようもなく帰宅する子供のそれとなんら変わらないだろう。使いかけの絆創膏もいつ使い終わるだろう。今の自分のようだった。中途半端に消耗し、不必要になった分を持て余す。不必要になることはあれど、滅多に必要とされることはない。ひどく、落ち込んでしまった。あれから、どうにか気持ちを元に戻そうとしたけれど、全て裏目に出てしまったのだ。
アパートの暗がり、階段を上り、ふと隣の部屋の窓を見た。明かりが溢れており、既に冴島は帰宅していることが窺える。こんな日はどこまででも落ちて行けるものだ。例えば、唐突にどこかに引っ越してしまおうかと考えることが出来るほどに。しかし、それは現実的ではなく、この今と向き合えない自分にとって最善の選択とは言えなかった。不意に、がちゃり、と扉の開く音がして、そちらを見れば。
「おう、今日は遅かったな」
「……あ、冴島さん」
「いつもならとっくに帰っとる時間やろ」
「ええ、そうですね」
「仕事忙しいんちゃうか」
「そんな、忙しくは、」
明らかにおかしな態度をとっている自分が嫌になる。これでは、さも心配してほしい、気付いてほしいとアピールしているのと同じだからだ。
「自分じゃ気付かへんこともある。あまり根詰めんようにな」
「はい、ありがとうございます」
軽く頭を下げ、部屋に逃げ帰ってしまおうと思っていた矢先、再び冴島に声をかけられた。気付けば、部屋の換気扇からはいい匂いが漏れている。疲労に空腹を今更思い出すと、冴島は変に優しげな表情を作らず、メシ食おうや。と誘ってくれた。断ることも出来た。勿論、この情けない心情のまま接するのが辛いからと。しかし、彼にこれ以上の心配をかけたくないのもあった。
果たして、心の底からそうだろうか。本当は情けない自分でも彼の傍にいたいと思ったのが本心かもしれないが。何にせよ、強いられた訳でもないのに、冴島の誘いを断ることが出来なかったのが現実だ。ここで断ることが出来たなら、次に進めただろうに。
「すまん、あんま小綺麗にしとらんかった」
「大丈夫です。気になりませんから」
「そうか」
酷く他人行儀であると思えた。昨日まで、いや、今日の昼ぐらいまではそんなことはなかったという事実が突き刺さる。ちぐはぐとした心境と行動、ましてや言葉ですら上手いこと取り繕えないのだ。自分の不器用さを恨むばかりだ。だからと言って、取り繕うのが上手くてもきっと気落ちしていたのだろう。内なる狭間の葛藤が無口にさせる。そして、それに気付かないほど冴島大河という男は鈍感ではなかった。
「俺には言えんようなことか」
「あ、いや、その、」
「ええよ、無理せんでも。こういう時は無理せんとそのままでええんや」
「ごめんなさい。そういうつもりじゃなかったんです、こんな態度取るつもりじゃ」
無理やり塞いでいた傷口が開いていくのを感じる。だが、もうそれを塞ぎ直す余裕も理由もない。一人で追い詰められた挙句に本人の目の前でそれを吐露することになるという状況から逃げられない。ひとり、心苦しくなる。
「聞かせてくれ、言うんは何の解決にもならんやろか」
「……聞かない方がいいと思います」
「だとしても、や。今は休んだ方がええ、それはわかるな?」
小さく頷く。すると、彼は驚きも悲しみもせず、いつもと変わらない顔で、態度で、仕草で、言葉で震える手を引いてくれた。自分のとは違い、大きな手だった。いつも誰かの為にあり続ける手に触れていると、不思議と気持ちが落ち着いていくようだった。そして、また不思議と突き刺さったガラスの欠片を吐き出すことが出来た。
「今日、街で冴島さんを見かけたんです」
「おう、少し買い物に出とった」
「それで、……それで、」
──── 綺麗な人と歩いているのを見ました。
一番大きな欠片が心の柔らかくて弱い部分のあちこちを引っ掻きながら吐き出された。だが、まだ恐ろしいのはあの関係が肯定されることだった。小さな切り傷達が痛み始めて苦しい。どうか、と願う自分はこの世で一番嫌いな自分だ。あの人がそうでないことを祈ることほど、自分勝手なものはない。瞬きよりも先にそれはこぼれ落ちた。もう彼の顔を見れそうにない。これでもし、困ったような顔をしていたら。これでもし、どこか気恥ずかしそうにしていたら。自分は、もうここにいられなくなるからだ。
「どこぞのチンピラに絡まれとった。せやから、少し間に入っただけや」
「ほ、ほんとう、ですか、」
「嘘はつかへんよ。にしても、そない泣き出すっちゅうことは、何かあったんか」
どうして人は不安が消えた途端に罪悪感が生まれるのだろう。それは自分が本当は何も失っていないからで、そのくせに誰かの不幸を祈っていたと知るからだろうか。涙は止まらない、どうしても止められない。
「わたし、冴島さんがその人と、……そういう関係なんじゃないかって思ってて、」
「まあ、傍から見ただけじゃあ分からんこともあるやろ」
「でも、……でも、そうであって欲しくないって思ってしまって、」
ため息混じりの相槌が聞こえ、身を切られる思いだった。軽蔑されてもおかしくはないはずだ。あまりにも身勝手で、我儘で、自分本位な考えは誰だって嫌悪感を抱く。ならば、目の前の彼が自分にそれを感じていてもおかしくはない。
「ごめんなさい。勝手に勘違いしただけならまだしも、そんなことまで、」
いつの間にか握り締めた手を離そうとしていた。すると、慌てて握り返す手があった。大きくて優しい、自分の好きな手だ。咄嗟に顔を上げ、彼を見た。今度は真面目な顔でこちらをじっと見つめている冴島の姿があった。そして、力強い声音で、そないなことあらへん。と言って聞かせた。
「なまえ、アンタがどんな人間かはよく分かっとるつもりや。例え、それがほんまの話やっても俺はなまえへの見方を変えたりせえへん」
「……な、なんで、いつも冴島さんは、そうやって優しくしてくれるんでしょうか」
「アンタが俺にそうしてくれたからや。ここに越して来てすぐ、俺に色々と世話焼いてくれたんはアンタや」
「だって、それは、」
「アンタは俺がヤクザもんやから世話焼いてくれたんか」
「ちがいます!そんなことは……!」
せや、それがいつものアンタや、なまえ。俺の好きな、アンタや。
まるで、雪解けのようである。凍えていた悴む手を懸命に温めてくれている献身。決して、彼にこうして欲しかったから、彼の為にと行動した過去があるのではない。純粋に、真っ直ぐな人だと思ったから。自分はヤクザだと自嘲する彼に、真っ直ぐ惹かれていたからだ。例え、冴島大河という人間にどう言った過去があろうと関係なかった。ならば、今の彼にとっては自分が抱え込んだ悩みなど関係ないのかもしれない。
「わたし、私、冴島さんのことが好きです」
「おう、そうか」
「め、迷惑かもしれませんが、その、冴島さんは、どうですか……?」
「迷惑なんかやない。なまえの迷惑を考えなあかんのは俺や」
「ど、どうしてですか、」
どうしてかと問う自分は自覚がなかっただけに悪いと思えた。何故なら、今までと変わらぬ姿で接してくれていた冴島が初めて表情を曇らせ、言葉を選んでいる姿を目にしたからだ。
「アンタに惚れとる、……結構前からや」
不意に結ばれた赤い糸がほつれてしまえばいいと思った。いや、まさか、そんな、と否定的な言葉の濁流に飲み込まれている。気付かなかった、いや、気付けなかった。そこまで自分が他者の気持ちに疎い人間だと今まで知らなかったのだ。声のかけ方すら分からなくなってしまい、途端に部屋は沈黙する。しかし、繋いだままの手だけはしっかりとそのままだった。
重たい沈黙が肩にのしかかる。苦し紛れに視線を冴島へと逃がした時、このまま黙っていてはいけないと思った。寡黙な口元は苦々しく閉ざされているのに、下向きの睫毛から覗く瞳は微かに震えているように見えた。初めて見る表情だった、今まで誰にも口にしたことがない本心を明かした時のような苦しさが見て取れる。
「いつ言おうか迷っとった。ただ、迷惑にだけはならんように」
「……そう、だったんですね」
「もしかしたら、俺の言う『それ』となまえの言う『それ』は違うかもしれへんからな」
「そこまで、引け目に感じること、なんでしょうか」
ぽつりと溢れたのは寂しげな言葉達だ。自身の出生だとか、育った環境だとか、属していた社会のことだとか、全て『そうであった』だけなのではないだろうか。確かに人様に誇れる経歴ではない、明け透けに口に出していいものでもない。それでも、心を許せる相手に同じ配慮を添えるのはあまりにも寂しい気がして、そう漏らしてしまった。
迷惑だと言い出してしまったなら、キリがないだろうし、きっと堂々巡りだ。相手の考える迷惑ですらも請け負う気概がなければ、隣に居てはいけない。そんな気がした。何も知らないただの一般人が、裏の人間の何かを汲もうとしている。思い上がりなのかもしれないが、何もしないよりかは良い、のではないだろうか。
「冴島さん、」
「……なんや」
「お願いがひとつ」
「言うてみい」
──── 私を冴島さんの、……冴島さんの、
ここまで口にして、途端に言い出せなくなる。今度は緊張に手が震えていた。しかし、再び握り締められると、不思議な引力に導かれるように冴島を見た。凛とした瞳は、理性の手綱を緩めようかどうか迷っているように見えた。言い切らなくてはいけないと告げられていた、閉ざした口をもう一度開き、
「……恋人に、してください」
恋をなぞる。冴島はきっと分かっていたのだろう、自分が次に何を口にするのか。だが、目の前の獣は恐れを捨て切れなかった。
「なまえ、アンタを幸せにする保証はあらへん。それでもか?」
「かまいません。……私は、冴島さんの隣にいたいんです」
誰よりも、その傍に。と頼りなく微笑みかけたところで、互いに雪解けを迎える。繋いだ手の温もりがそうさせていた。もう一度、互いを見やる。すると、どちらもが笑みを浮かべている。一方はどこか照れくさそうに。もう一方は心底嬉しそうに。
けれど、すっかり遅くなってしまった。不安の連続を抜け、今はただ脱力し、空腹に苛まれていると知った。お腹空きましたね、と少し前の自分たちのように話しかければ、せやな。と後から平穏がやってくる。すっかり涙も乾き、ここから日常が始まるような予感がした。
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