人気のない場所に二人は佇んでいた。一人は女、もう一人は男。その場所の特性上、ガラス張りである建物から覗く外の景色は酷く暗いものだった。まるで陰鬱さに沈んでいくような夜景だったのだ。男は仕事の合間を縫って、彼女をここへ連れて来た。しかし、二人は無表情のままで佇んでいる。きっかけは女が、彼女が、なまえが花に興味を示したからだ。押し付けられるように貰った花束を男が、黒岩が捨てようとしたのが始まりだった。まさか、あの彼女がそんなものに興味を示すとは思っておらず、内心驚いたのがつい最近の話だ。

 閉館間際であるにもかかわらず、この時間帯に館内を歩いているのは、やはり多忙に殺されていたからだ。寧ろ、人気のない方が気が楽だと言わんばかりに黒岩はなまえの隣に着いて歩く。鬱蒼と生い茂る自然は人工的に切り取られたちぐはぐな緑だ。隣を歩く彼女もまた、自分勝手な誰かが拵えたちぐはぐな存在だった。だが、なまえはなまえでその身に感じるものがあった。これを感覚と形容するのだろうか、肌を模した泥の皮膚に微々たる鼓動が伝わってくる。深緑の木々や花々がどれもその身に秘めたる緑を燦然と輝かせ、今生に尽くしている。深く、深く呼吸をしていた。黒岩も、ここに生きる植物達も。だが、自分はどうだろうか。命の系譜もなければ、辿るべきルーツも持たない。突如として生まれ、突如として死していく。
 許された記憶は黒岩との出会いから今までのみで、それ以外で許された記憶はなかった。静寂なる緑のざわめきに耳を寄せれば、どこか懐かしい感覚がした。まるで自分もかつてはそこに在ったかのように。何故、自分は今こうしているのだろう。何かから切り離され、今は別の何かと共にいる。漠然とした言葉は風化して崩れていく。決して思考する為に生まれたのではないと分かっているが、隣の男と共に過ごしていると自分も人間になれたかのように錯覚出来た。

「お前、楽しいか」

 何気なく投げ掛けられた言葉は、この身をすり抜けていく。どう返していいのか分からない以前に返すべき言葉を知らない。視線を黒岩に向け、不明瞭な黒い瞳に棲まう。黒岩は、さほど楽しいようには見えなかった。当然だ、興味のない人間にとってはただ時間を浪費していく場所なのだから。そのくせ、黒岩は自分をここへ連れて来た。黒岩にとって、さほど楽しくもないここに。人の形をしていながら、物言えぬ土塊と共に。

「変わり映えしねえな、どこもかしこも」

 黒岩の軽口さえもこの身に、この耳にですら突き刺さりはしない。なまえはと言えば、黒岩の革靴が石畳を踏み鳴らす音を黙って聞いていた。時折、風が吹いたかのように木々達はその身を揺らす。植物達の声を聞き、隣に生きている黒岩の音を聞く。俯くように佇む木々も、精一杯に両手を伸ばす花々も、自然体としてそこにある。羨ましいことだと思った、一体誰が?それは分からない。
 静寂には音がある。生きている音を反響させている。だからこそ、口を噤んでその音を聞いていた。恐らく、二度とここには来れないだろう。そんなことをしている暇などないからだ。だからこそ、この時を特別視しなければならないのに、なまえはそれが出来ない。この瞬間も永遠に流れていく一瞬でしかない。ただの泥人形では水晶玉に映る未来を知ることは出来ないのだから。そして、隣にいる黒岩も未来を約束出来ない側の人間なのだから。この二人は確実な明日を持ち合わせていない。

「少しは笑えねえのか、お前」

 怪訝そうな顔で黒岩が言葉を吐く。なまえはその言葉につられて、ようやく表情を変える。口角を少しだけ持ち上げ、形だけの微笑みを再現して見せる。いつの日か、なまえは黒岩に褒められたことがあった。それは彼女が時折見せる微笑みのことで、綺麗な顔で笑いやがると言われたのを彼女はずっと覚えていた。顔面の美醜に関しては全く関心も興味も無かったのだが、その言葉を貰って初めて自分の笑った顔が黒岩にとって良いことなのかもしれないと直感的に知ったのだ。
 けれど、この体の何もかもは全て紛い物である。自分を作り上げた顔も知らぬ誰かが、また別の誰かを模しただけの形なのだ。望んでこの容姿になった訳ではない土塊にとっては奇妙な感覚だった。感情とは何たるかを知らないが故に漠然とした僅かな靄。花束を手にした時と同じものが、確かに胸に渦巻いたのだ。もし、もし、自分が土塊などではなく、本物の人間だったなら、これを人由来の喜びであると気付けたのだろうか。隣にいる黒岩に感謝の気持ちを伝えることや、大切を説くことが出来たのだろうか。全ては自分が人間である世界線の話だろう、妄執に囚われてはいけない。


 それからは話すことを忘れて、石畳の通路をなぞって行った。通路の中央に現れた聳え立つ巨木に石畳は別れ道になっており、二人は同じ道を行くのではなく、それぞれが別々の道を歩いていた。巨木の外周を歩き終える頃、互いの顔は見れるのだろうか。本当はこの深緑に呑み込まれ、消えてしまうのではないだろうか。いつだって、相手が傍にいる保証はないだろうに。しかし、そのような心配はやはり杞憂に終わる。何事もなく、つまらなそうな顔をした黒岩と未だに微笑みを崩さないなまえが再び横に並び、同じ道を行く。
 居なくなってもおかしくなかった。あの瞬間にでも。だが、今は隣にいる。互いが隣を歩いている。傍から見れば、仲睦まじい男女のそれと何も変わらないが、二人を繋ぐのは血なまぐさい赤い糸だった。もしかしたら、二人は互いの動脈を繋いで、傍にいるのかもしれない。非現実的な表現はここまでにして、二人は暫く無口を貫いていた。ガラス張りの世界の向こうは落ち込んだようにより闇が深まる。

「なあ、俺達はいつまでもこのままか?」

 不意に零した問いになまえは肌を何かが伝っていくのを感じた。自然の中で感じていた生命の息吹や営みとは違う、全く別の何か。何故、黒岩は『俺達』と一括りにしたのだろうか。本当は知っているのかもしれない、自分達が後戻り出来ないくらいに手を汚してしまったことを。彼は自分とは違う、生きた人間だ。人として生まれ、人として生を全うする。全てに限りの設けられた脆弱で儚い、弱き者だ。それなのに、黒岩の問いになんて返すべきかなまえは知っていたのだ。
 彼の名を知らず、思いを伝える言葉も知らず、気の利いた表情も作れない、ただの土塊がこの時だけは自分のすべきことを知っていた。まずは瞬き、そして、吐息。視線はそのままに、口角をゆっくりと持ち上げ、静かな笑みと共に首を振る。何故、こうしなければならなかったのか、はっきりと理解はしていない。命じられたわけでもなく、黒岩を肯定してやれたのは風が吹いたからだ。一陣の風が伝えてくれたのだ、人のように振る舞えるようにと。黒岩はなまえの行動に目を丸くしていたが、それも長くは持たず、鼻先で笑う。

「どいつもこいつも勘違いしてるおめでたい奴らばっかだ。そいつらってのは、自分の持ってる駒の数ばかり気にしてやがる。でもな、なまえ、覚えとけよ」

 本当に重要なのは数じゃねえ、強い駒を持っているかどうかだ。結局は強い駒を持ってる奴が生き残る。そうだろう?
 今度は頷いてみせると、黒岩はもう一度だけ鼻で笑い、先に行ってしまった。残されたなまえもその後を追うように歩いて行く。自分達はどこまで行けるだろう。黒岩の目指す場所まで行けるだろうか。そこまで行けたなら、初めて彼のことを聞いてみたいと思えた。これは感情、だろうか。今はまだ分からない。


 やがて、二人の足は出口へと辿り着く。より鬱蒼として見える木々がこちらをじっと見つめている。まるで見送られるようだとなまえは黒岩と共に植物園を後にする。しかし、やはり二人の行先に未来はなかった。ならば、あの花は朽ちる他にない。そういった運命だった、どう抗おうともこれ以上は望めない。これはたった一人の男と現代に呼び戻された泥人形の、成し得ない希望に殉じた世界線の話である。



| マドンナ・リリーが朽ちるまで |


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