真っ赤に染まったシャツはぐちゃぐちゃに乱れ、事の顛末があまりにも突然であったと告げている。真っ白な部屋の、無機質なベッドの上に彼の体だけが寝転がっている。天を仰ぎ、僅かながらに腹部の収縮を繰り返して、繋ぎ止められた生を実感する。とても、危険な状態だと言っていた。鋭利な刃先で深く脇腹を刺されたのだそうだ。何故、彼が。どうして。事件に巻き込まれるなんて。などと他人めいた言葉より、口を噤み、懸命に生きている目の前の彼の手を握ることしか出来なかった。
 乱れた黒の前髪が額、そして瞼に触れる。そのくすぐったさに目覚めてしまえばいいのに。今朝のように、何事も無かったかのように目覚めて、おはようと紡いでくれれば、それでいい。彼には、彼の事情と言うものがあって。そこに自分が深入りすることは出来ないと分かっていたから、それでも構わないと隣にいることを選んだ。だが、結末はどうだろう?誰一人として報われぬではないか。彼の成そうとした野望は、誰かの希望を潰し、摘み取ることだと聞いた。それは遠くの街で今を生きる市民達であると聞いた。

 青木遼が病院に搬送されるまで付き添っていた男がいる。その男はまるで自分事のように取り乱し、酷く辛そうな、今にも泣き出しそうな顔で助けを求めていた。自分と同じく、青木遼を大切に思っていた人間だ。その彼とは病院の待ち合いで出会った。憔悴し切った表情に、如何に切羽詰まった深刻な状況なのか、問わずとも伝わってくる。声をかけようと思った。どんなに重たい沈黙であっても、彼がいなければ青木遼は病院に搬送されることもなかったのだ。せめてもの感謝を伝えたかった。すると、彼はまず自分の至らなさを責め、悔い、詫びた。彼の目は真っ赤に充血し、瞬きの度に涙を零していた。
 自分に出来たことと言えば、彼から何があったのかを全て聞き上げ、隣に居てやることだった。全てを話し終えた後、彼と連絡先を交換し、自分は青木遼のいる病室へと通された。そして、冒頭に戻る。だが、まだ分からない。何故、青木遼は刺されなければならなかったのか。問える筈がなかった。あの場にいた誰もがその理由を知らない。刺した張本人の主張はあまりにも身勝手さを極めており、聞くに堪えない。たった一人が全ての総意の体現者だなどと、愚かにも程がある。ならば、この世は青木遼に死んで欲しかったのだろうか。決して、そんなことはない。彼に救われた人間は少なからず居るはずだ。自分を含めて。

「……、かい……?」

 不意に聞こえたか細い声に、顔を上げる。切れて血の滲んだ唇がもぞもぞと動き、握り締めていた手に僅かながら圧を感じた。握り返そうとしていると分かり、名を呼ぶ。しかし、上手く声にすることが出来ない。いっぱいいっぱいだった。最愛の男が生死の境目に立たされ、意識すら戻らずに向こう側へ行ってしまうのではないか、と気が気でなかった。震える声が口から出て行く。すると、天井を見つめていた青木の視線がこちらへと動いた。

「……心配を、かけたようだね」

 弱々しく発する言葉に、ただただ首を振る。そんなことはどうでもよかった、心配や迷惑などこの期に及んで責めるはずがない。

「酷い、有り様だ。私も、君も、」
「も、もう喋らないでください、体に障りますから」
「いいや、話して、おきたいんだ」
「そんな、今じゃなくても、」
「聞いて欲しい。……今だからだよ、なまえ」

 何故、この状況で青木が『話』をしたかったのかは分からない。まだ予断を許さない状況下で、自分の命を、体を省みずに、何故。だが、話を聞いた時、理解出来たことがあった。彼には誰にも打ち明けられなかった秘密があったのだと。

「……私は、青木遼じゃ、ないんだ」

 彼の一言目の言葉に、頭が真っ白になっていた。彼の言うことが理解できない。何故なら、そもそも支離滅裂な言い分だからだ。自分は今、本物の青木遼を目の前にしていて、けれど、当の本人は青木遼ではないと口にした。

「な、何を言っているんですか。遼さんは、遼さんじゃないですか、」
「私には、本当の名前があるんだ。誰にも、話したことのない、名前がね」
「……一体、どんな、」

 荒川真斗、とだけ言い残す。後は沈黙、ただ沈黙だった。無機質な時間だけが過ぎていく。どうして、今になって青木遼は自身の正体が荒川真斗だと名乗ったのだろうか。何故、そのことを自分に伝えたかったのか。

「君に、嘘をつき続けるのが嫌になったんだ。少し前までは、そうは思わなかったのに、」

 乱れた呼吸、荒い息遣いのまま、青木は話を続ける。痛みに抗っているのか、か細く弱々しい声で『荒川真斗』としての人生を語る。元々、彼は極道の家の出なのだそうだ。しかし、生まれつき足が悪く、車椅子での生活を余儀なくされた。物心ついてから、『荒川真斗』として生きた時間はとても閉塞的で不平に満ち溢れていたそうだ。他者には無いものを持ち、代わりに他者にあるものが無い。どこに行こうと、どうしていようと自分の足で立つことが叶わない。何故、自我を確立しても誰かの助け無しには生きられない。介助人が居なくては生活することもままならない。
 指折り数えて神を憎む。本当はそんな架空の存在ではなく、この不自由を宿した母を恨んでいた。しかし、母はこの身を産み落とし、行方を眩ませた後に死んだ。時折、虚しさに殺されていた。不自由さを嘆いても、誰にも向けれぬ怒りの矛先を諌めることしか出来ない。果たして自分には何があるのだろう。何の役にも立たない力と金だけではないか。愛する女すら、自分から離れていくのは持ち合わせていなかった自由のせいだ。いつだって、不自由さが『荒川真斗』を苦しめて来た。だから、『荒川真斗』は死ななければならなかった、と。

「……あとは、きみと出会った時に話した、通りだ」

 握り締めた手がこの手をすり抜け、頬に触れる。か細く、泣きそうな顔をしないでくれ。と微笑んでみせる青木に腹が立って仕方なかった。青木との出会いは、意外にも見合いの場だった。なまえの生まれは青木と対照的で、財閥の家の出であった。両親が良かれと勝手に見合いを取り決めて来た相手が青木遼だった。今をときめく話題の人物、都民からの信頼も厚く、掲げた公約に恥じない働きをする好青年であるからと。勿論、乗り気ではなかった。しかし、その場で交わした一言が、次第に青木への好意を募らせるきっかけとなる。

『きっと、君にとってこの場は不本意だろう。それなら、是非断ってくれて構わない』
『どうして、そう思うのでしょうか。顔に出ていましたか?』
『いいや、君にはこう言ったことじゃなく、他にやりたいことがあるはずだと思ってね』
『その、失礼ですが、青木さんはどうしてこの場に?』

 年甲斐もなく、……一目惚れしてしまってね。実に恥ずかしい話だ。と頼りなく笑っていた。あの時に見せた心遣いと笑みに、なまえはこの場を楽しんでもいいのかもしれないと思うようになった。全ては青木遼が、誠実たる人間だったからだ。他者を尊重し、優先することの出来る人間がこの世にどれほどいるだろう。他者の為に自分が無下にされても構わないと言い切れる人間がどれほどいるだろう。なまえが青木に惹かれるのに時間はかからなかった。

「私には関係ありません。……あなたが青木遼だろうと、荒川真斗であろうと」
「君なら、そう言ってくれる、ような気がしてね」
「荒川真斗も、青木遼も、あなたなんでしょう……?だったら、」

 だったら、なにも、問題なんてないじゃないですか。そう、濡れた頬で微笑んで見せた。あの時、青木がしてくれたように。上手い笑顔は作れなかった。けれど、精一杯笑っていたかった。

「あなた自身のことも、嘘じゃありません。決して、嘘なんかじゃ、」

 青木は少しの間、目を丸くしていたが、やがて眉間に深い皺を寄せ、瞼を閉ざし、強く唇を噛み締めていた。二人して泣いていた。わあわあと声を出してではないが、確かに、二人で泣いていたのだ。二人しかいない病室で、空白の時間を埋めるように泣いて ────。


***


 遺言はない。ただ、託されたものはある。彼が果たすことの出来なかった贖罪。向き合うことさえ出来なかった、あの街の惨状を肩代わりすると約束した。自分に出来るのは、あの街を近くで見守ることだけだ。あとは、彼の、荒川真斗の付き人であった『彼』の為に、表舞台から身を潜め、伊勢崎異人町の復興に努めたい。ただ、それだけである。



| セレナーデを奏でて |


back