両親からの突然の連絡はあまりにも急を要するらしく、慌ただしい縁談の知らせに咄嗟に返す言葉が見つからなかった。ただ、電話口の嬉しそうな両親から、今回の相手があの青木遼であると告げられ、余計に何も言えなくなってしまった。縁談、時代が時代なら喜ばしいことの一つだった。けれど、多様性という言葉が、文化が、生き方が浸透し始めてきた今の世では窮屈な枠組みの一つでしかない。
親の描く幸せは、ほぼ八割程度当たっている。歪んだ趣味嗜好がなければ、そのほとんどが幸福という言葉の範囲内に収まるだろう。しかし、それがいつだって正しいかと問われれば、そうではない。何かを成す為に奮闘している者にとっては押し付けでしかなく、自分で模索し、開拓してきた道に突如として綺麗なレールを敷かれるのと同じなのだ。両親の見つめる将来は幸福たるものだろう。けれど、自分が幸せになれたかどうかと言うのは、出来れば自分の力で答えを見つけたかった。
だが、出来なかった。そう、断れなかったのだ。たった一言、受けないと答えれば済む話だった。だけど、断れなかったのだ。自分の幸せとやらを両親の為に一つ失くした気がした。どんなに理屈を捏ねても、感情に負けてしまう時がある。悪いことではない、悪いことではないと分かっていても。そんな自分がただやるせなく、切ない。そして、こうも思うのだ。こんな体たらくの自分を見て、彼は失望することだろう。その時、また一つ幸せを失くすのだろう、と。
***
「きっと、君にとってこの場は不本意だろう。それなら、是非断ってくれて構わない」
耳を疑った。何故、縁談を取り付けた相手がそのような、言葉を言えるのかと。望んで来たのではなかったか。自分とは真逆で、今日のこの日を待っていたのではなかったか。しかし、目の前の男は、今日の縁談の相手である青木遼は柔和な笑みを浮かべている。この会話は互いに自己紹介を済ませてから、すぐに始まったものだ。
もしや、無理矢理呼ばれたこの場に嫌な反応を示していたのではないかと不安になる。それは相手にとっても失礼な行いで、決してそういったマイナスな感情や雰囲気は出さないように決めていたのに。もし、自分の何かが彼の気を悪くさせたのなら、真っ先に詫びるべきだと思った。
「どうして、そう思うのでしょうか。顔に出ていましたか?」
依然として柔らかな雰囲気や佇まいを崩さない男、青木遼は落ち着いているように見えた。そして、決して責めるような言葉選びではなく、寧ろ、誰も見向きもしなかった胸の内を汲み取るかのような発言をした。
「いいや、君にはこう言ったことじゃなく、他にやりたいことがあるはずだと思ってね」
「その、失礼ですが、青木さんはどうしてこの場に?」
自分の何気ない一言が、彼には大きく作用したようで。青木は穏やかな雰囲気を崩すことなく、自然と目を逸らした。そして、まるで少年を思わせる気恥ずかしそうな笑みをぎこちなく浮かべて、理由を明かす。
「年甲斐もなく、……一目惚れしてしまってね。実に恥ずかしい話だ」
まだぎこちなさは払拭出来ないようで、頼りなく笑っていた。相手は政治に身を置く人物だと言うのに、普段の姿とは似合わず、不格好に笑っているのだ。最初から印象としては悪くない、寧ろ、このような自分で申し訳ないと引け目を感じるほどに好印象の相手だ。非の打ち所のない相手が、何故かどうして自分の前で弱々しさを露呈している。一目惚れ?物は言い様だが、これではまるで本当にそうだと言われている気がした。
「みょうじさんからすれば、大変失礼な話だろう」
「そんなことは……、」
「それに、君がやりたいことの半分も果たせていないなら、今日、無理に縁談を纏めるべきじゃない」
「それで、本当にいいんですか……?それじゃあ、青木さんは何の為に、」
「写真だけで終わらせるのが惜しかった、と言えば、分かってくれるかい」
そんな理由で、と気付けば、うっかり漏らしていた。青木は、そうだね。また、君に恥ずかしいことを知られてしまった。と照れ臭さを噛み締めるように笑う。正直、言葉を失っていた。このような、誠実たる相手にはもっと相応しい異性が居るはずだと強く感じる。ならば、彼の言葉通りにこの縁談を蹴ってしまっても構わないのだろうが、何故か。何故か、それさえも惜しく感じている。
青木遼はとても、とても良く出来た人間だ。目先の利益などには囚われず、長い目で物事を俯瞰して見ることが出来る優秀な人間だ。そして、誠実さを欠くことのない、稀有な人間だ。そんな相手に次はいつ出会えると言うのだろう。なまえは疑問符ばかりを吐き出してきた唇で、初めて青木に関することを訊ねた。
「私も話をしてみて、分かりました。青木さんのことをたった一枚の写真だけで済ませてしまうなんて、出来ないと」
「ですから、もう少しだけ青木さんのことを教えてください」
──── 知りたいんです、青木さんのこと。
胸が密かに高鳴る。慣れないことを口にしたから。目を逸らしてしまいたくなる。そんな風に異性を見てきたことがあまりなかったから。政界とは程遠くない所にある業界では、みょうじという姓を聞いただけでどのような家かを皆が知っている。財と地位に恵まれた家系は、誰もが羨み、誰もが手中に収めたいと画策した。それは母、祖母の代から続く悪しき風潮だ。娘だろうと、息子であろうと、卑しいものを腹に隠して近付いてくる相手ばかりだったのだ。
決して綺麗な恋愛など出来ないだろうと、腹を括っていたのに。自分の目の前に現れた青木遼は、それを忘れさせるほどに誠実そのものであった。すると、どこか面食らったように、意外だったと言うように、眼鏡の縁に指を置いた。そして、落ち着きのない指先できっちりと結ばれたネクタイを緩めていく。
「そう言われると、どうにも弱いみたいだ。私は」
「私もこう言った会話があまり得意ではありませんから、何か失礼なことがあれば言ってください」
「みょうじさんは一枚も二枚も上手だよ」
「そうでしょうか?」
こちらから微笑みかける。青木は手持ち無沙汰のまま、机に置き去りにされてそれなりに経つ湯呑みに手を伸ばした。そして、一口啜ると眉を八の字に下げ、こう言った。
「ほら。会話に夢中になりすぎて、お茶が冷めてしまった」
「もう、そんなにお話していましたか」
「そうだね、不思議だ。今日は時間があっという間に過ぎていく」
なまえも同じように自分の湯呑みに手を伸ばす。薄緑の美しい緑茶を一口含むと、確かに青木の言っていた通り、温い。けれど、嫌な気はしなかった。二人して冷めた茶を飲むこの時間が心地よいと感じるほどに、今の青木との距離が丁度良い。目線がぶつかれば、照れ臭そうに笑う。どちらともなく話しかければ、少しだけ身を乗り出すように耳を傾ける。時間が許すまで、互いの肩書きや持ち合わせているものを忘れて、まるで友人のように話し込んでいた。けれど、青木が不意に腕時計に目を落とした時、逢瀬の終わりを図らずに知る。
「本当にあっという間だった、」
「ほんの少しでも息抜きにはなりましたか?」
「ふふ、充分なくらいだ。ありがとう、みょうじさん」
ここで青木遼の多忙さに触れ、現実に引き戻された。この世の中を良くしようとする人間がいて、その人間の誰もが何かしら奮闘している。この後の予定でさえ、鮨詰めのように埋まっていて、そんな中自分の為にと時間を割いてくれたことに申し訳なさを感じていると、青木は何かを察したのか、小さく息を吐き、目線を落とした。
「今日は君とどうしても話がしたかった。だから、この後の忙しさは嫌でも引き受けるつもりだよ」
「無理なさらないでくださいね」
そう告げると、青木は真剣な顔でこちらを見た。厚く結んだ口から、たった一言。その申し出になまえは自然と頷いていた。
「また会って話がしたい。迷惑でなければ、連絡先を聞いてもいいかい?」
「ええ、私も同じことを考えていました」
「それは奇遇だ」
「本当ですね。お互いに別れが惜しいだなんて」
「……みょうじさんにそう思ってもらえて光栄だよ。これは嬉しいことを聞いてしまった」
「そんな、意外でもないでしょうに……!」
慌てて言い繕えば、照れた顔が可愛らしいと返され、もう二の句が継げなくなる。
「……私の見る目に、間違いはなかったようだ」
ぼそりと呟かれた言葉を聞き逃していた。もう一度、聞き直そうとしたが、これ以上恥ずかしい思いをさせないでおくれ。と誤魔化されてしまい、そのまま有耶無耶になってしまった。だが、呟いた直後に青木は僅かに寂しげな顔をしていた気がする。それが何故かまでは読み取れなかったが、まるで何かを確かめているようだった。それが過去なのか、今なのか、未来なのかは分からない。
けれど、あの一瞬の内に見えた表情があんまりにも寂しそうだったから、急いで携帯を取り出し、電話帳を開く。画面に表示されたのは自分に繋がる十一桁の数字の羅列。それを押し付けるように読み上げると、青木はすぐに懐から携帯を取り出し、画面に数回触れていた。番号の登録を済ませた青木は、一度だけ鳴らすよ。と登録したばかりのなまえの番号にかけた。
「青木さんの番号、登録しておきます」
「ありがとう、これで今日は頑張れそうだ」
「本当に無理だけはしないでくださいね」
「もし、」
「もし……?」
「みょうじさんの声が聞きたくなったら、その時は許してくれるかい」
青木さんって、普段のイメージと違って甘えたがりなんですね。……そういう風に見えてしまうみたいだね。ふふ、大丈夫ですよ、いつでもかけてきてください。たまには私だって、甘やかされたいと思っているよ。中々、難しい話だけれどね。
別れ際が惜しかったのか、ぽつぽつと言葉を交わし、出来るだけ別れの時間を先延ばしにしていた。けれど、やはり迫り来る時間には抗えず、その日なまえは青木と別れ、帰路に着いた。帰りの車内では、会話中に見せた寂しそうな顔をした青木のことが頭から離れなかった。青木はあの一瞬にどのような寂しい言葉を呟いたのだろう。勝手な推測をすれば、過去に引き摺るような恋愛をした経験があるのかもしれない。けれど、朗らかな表情だって充分目にした筈だ。
いつか、その時の理由を聞ける日が来るのだろうか。置き去りにした寂しさを拾ってやれる日が来るのだろうか。彼は、失望などしてくれなかった。彼は、何に思いを馳せ、寂しそうにしていたのだろうか。まるで別人のような顔をしていた青木遼のことを、みょうじなまえは他人事のように放っておけなかった。
この日を境に二人は親交を深めていき、やがて婚約関係まで発展するが、予期せぬ青木遼の訃報により、二〇一九年に婚約は解消された。
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