春の夜風はまだ冷たいものだ。庭先に植えた桜が見えるのを良いことに女は一人、寝酒を嗜んでいた。淡い月光に照らされ、やや強めの風に舞い散る小さな花びらを見ているだけで満足だった。時間はあっという間に溶けていき、気付けばあの男が帰ってくる時刻になっていた。その男はこの女の夫であり、ここら辺の界隈では有名な人物だった。そんな男が酔っ払って帰ってくる、いつものことだ。乱暴に、粗末に、部屋の襖が開けられ、どたどたと大きな足音を鳴らしてやって来る。臙脂色が酒の匂いを漂わせながら自分の傍に腰を下ろすと、愉快で堪らないような笑い声を上げる。
「ワシの帰り待ってたんか?えぇ?」
へらへらと薄っぺらい笑顔で、男は視線をあちこちに泳がせ、女の用意した寝酒に手を伸ばそうとした。ぱちん、と女は夫の手を叩き落とす。
「これは私のです。第一、酔いどれにやる酒はありまへん」
「なんや、折角なまえちゃんの旦那が帰ってきたっちゅうのに」
「たまたま、やろ。それに、これ以上酔って絡まれるのは、勘弁やさかい」
折角の夜桜と寝酒が台無しやわ。と溜め息を吐けば、その隙に杯を奪われ、自分の為にと温めておいた高い酒が夫の胃袋に流れ落ちていく。美味いなあ、この酒。ええもん飲んどるわ、なまえちゃん。見る目があんねやなあ。と取ってつけたような言葉に女は、今宵の寝酒をすっぱりと諦めることにした。まだ中身の残る徳利を手にし、夫の持つ杯に静かに注ぎ入れる。夫は妻が自分に酒を足すとは思っておらず、初めは目を点にして驚いていたが、酒を注ぎ入れ終わる頃にはうっとりとした目で妻を見ていた。
夜風に頬を撫でられ、夫を見る。なんやの、とぽつりと声をかければ、ええ女と美味い酒、外には丸い月と満開の桜。こんなに景気のええもん、他にない思てな。と杯を傾ける。そうですか。と夫の視線に釣られて、同じように外を眺める。心地の良い酔いがゆっくりと醒めていくのが分かる。悪くない心地だった、夫である極道の男と共に過ごす時間は。騒々しい日々も忙しないけれど、夫らしさを感じるものであり、意外と嫌いではなかった。
「誉、もうそれくらいにしとき」
「……せやなあ、なまえちゃんが言うならやめとこか」
「私ももう少ししたら、寝よ思うとったところです」
誉と呼ばれた男は、鬼仁会会長である西谷誉だった。なまえちゃんと呼ばれる女はその西谷の妻で、二人はれっきとした夫婦であった。二人が結ばれたきっかけは、西谷がなまえに熱烈に言い寄ったことから始まる。それから、なまえは心を許すようになり、ある夜、二人は夫婦の盃を交わすことになった。確か、その夜も今夜のように綺麗な満月の浮かんでいた。早いもんやね、と誰ともなくこぼす。すると、不意に膝に妙な圧迫感を覚え、目線を落とす。そこには黒髪がさも当然と言うようにあり、臙脂色はなまえの膝に頭を乗せて横たわっていた。
「こないなとこで寝たら、風邪引くで」
「ああ。ええ、ええ。ワシはここがええんや」
「私が寝られへんやないの、誉」
「そしたら、そこら辺に転がしたってや」
「……もう、勝手にしい」
突然のことではあったが、愛する男が自分の膝に頬を寄せたなら、それを無下には出来ない。少なくとも、これでも愛おしいと感じている唯一の人間だからだ。なまえは仄かに暖かな西谷の頬を撫で、徐々に大きくなる寝息に耳を傾けた。誰かに膝を貸したのはこれが初めてだった、ように思う。奇妙な感覚になまえは満月を見上げた。みょうじなまえが鬼と化したのは、偶然にも満月の日の夜だった。前の男を殺し、西谷誉と出会い、初めての感覚に打ち震えた。満月の日は必ず何かが起こる。嬉しいことも、悲しいことも、どちらも等しくやって来る。
***
みょうじなまえは、その街で一番のお転婆娘だった。奥ゆかしさと言う言葉が似合わぬほど、活力に溢れ、気の強く、体も丈夫な娘だった。世の男が形式ばった奥ゆかしさに毒されていた時代、なまえは一人の青年と運命めいた出会いをする。相手は酷く真面目な男だった。周囲の誰よりも勉学に励み、話を聞く時があれば、相手の言葉に熱心に耳を傾け、相手の外見や噂話に囚われず、人となりを知ろうとする男だった。
例え、自分がどんなにお転婆だろうが、活発だろうが、奥ゆかしさを説くことはない。例え、自分がどんなに崩れた話し言葉であろうが、一言も聞き漏らすことはしない。例え、不器用に想いを伝えても否定をせず、受け入れてくれた。なまえはその男と一生涯を共にし、大きくはないがささやかな幸せを見つけていくのだと思っていた。その男が別の女に心を奪われるまでは。
結婚後は、努めて大人しくしていた。奥ゆかしさとは何たるかを同世代の娘達より遅れて習い、可憐でいるべきだと心がけていた。すると、周囲の反応が恐ろしく露骨に変わっていった。なまえを娶った男のことを口々に羨むようになり、なまえの変貌ぶりに言い寄ろうとする男まで現れた。しかし、なまえの心は彼と決めていた為、言い寄る男達は恨めしげに立ち去っていく日々を過ごしていた。妻が夫の為に献身的であるべきだと疑わなかった時代、なまえも例に漏れずその一人になれるよう努力を欠かさなかった。
けれど、その間にも夫であった男は他所の街で一人の女と出会う。彼女はなまえとは違い、素朴で病弱な娘だった。活発さの欠片もなく、儚さが先行する娘。男が彼女の為に力になりたいと思うのと同時にその二人が惹かれあっていくのに、さほど時間はかからなかった。そして、そう言った痴情のもつれほど話は早く知れ渡っていく。真面目が取り柄であった夫が他所の女と結ばれた。これ程までに惨めなことはない。どんな理由があろうがお構い無しなのだ、結果として捨てられた女と捨てた男がいることに間違いはなかった。その後の女は酷く荒れた。底知れぬ嫉妬に駆られ、傷付けられた尊厳の報復のことで日々を費やしていたのだから。
「せやから、私はアンタを捨てるんよ」
久々の再会は、あの毘沙門橋でだった。当時はお粗末な木造の橋でなまえと元夫は再会した。満月、何処も欠けることのない綺麗な満月。懐に忍ばせた包みから覗く刃先が鈍く光る。風に吹かれて足が縺れた。お前が娶った病弱な女のように、風に吹かれただけで転んでみたかったのだと告げて。息絶えてから橋から突き落とした、いや、蹴り捨てたと言った方が正しいか。その時は自分が人間かどうかなんてどうでも良かった。生きた心地はしなかったけれど、かと言って死んだ心地もしなかった。もうこの時には鬼と化していたのかもしれない。だが、そんなことはどうだっていいのだ。後はあの人が二度とこの深い川から上がって来れないように見張るだけだ。そうして、幾ばくかの時が流れた。
***
「あの時、アンタが盃を交わそう思わんかったら、こないに綺麗な景色は見ることがなかったんやろね」
膝の上で眠りについた今生の夫に語り掛ける。さながら、それは子守唄のように穏やかな声音で紡がれる。なまえは桜の花びらが縁側まで迫って来ていることに気付くと、もう一度だけ夫の髪を撫でた。
「あんな男よりアンタの方がよっぽどええ男やわ」
取り繕った奥ゆかしさより、激情する自分を選んだのは後にも先にも西谷誉の他にいない。本当は誰よりも執着し、誰よりも嫉妬深く、誰よりも気の強い、みょうじなまえは本来そう言った女だった。満月の夜は全てを暴かれてしまう。胸の奥にしまい込んだ何もかもを。あの男は『本心』を拒絶し、この男は『本心』を暴いてまで受け入れようとしていた。生まれた時代が違ったなら、と言う言葉を耳にすることがあるが、まさかこの身をもって経験することになろうとは思いもしていなかった。
「誉さん、ほんまにありがとうね」
春風が言の葉を連れ去っていく。宵闇を織り込んだように艶やかな黒髪が、寒色の春風に吹かれ、やんわりと宙を漂っている。血潮の鮮やかな唇が柔らかく口角を持ち上げる。吊り上げることの多かった瞳もこの時ばかりは丸く細まっている。そして、最後に口元に手を添え、まるで内緒話をするように静かに語り掛ける言葉があった。
「アンタが生きとる内は私も付き合いましょ。せやけど、誉さんが逝く時には私も地獄まで同伴したるわ」
──── どうせ、私もアンタも天国なんぞ、連れてってもらえへんからね。
どこか嬉しそうに紡いだのは、命尽きても続く輪廻までの契り。呪いか、もしくは災い転じた末の祝福か。肌が密かに粟立ち、なまえは宵の春風に当てられ過ぎたと、傍に丸めておいた羽織りを手に取ろうと腕を伸ばした瞬間、
「風邪引いてもうたら、あかんからなあ」
今まで膝に頭を預けていた男がのっそりと体を起こし、身に着けていた上着を凍える女に羽織らせる。起きとったん?人が悪いわ、誉さん。ほんまにさっき目ぇ覚めたとこや。そう、ならさっさと部屋帰らな。と夫婦の戯れを交わす。肩を揺らして笑っていると、夫は妻の傍に近寄ってはだらしない笑顔のまま、こう唱えた。
「ワシなら、なまえちゃん捨てた男を殺したるわ」
攫われた言の葉が誰かの手元に届いてしまったのだろう。咄嗟に妻は夫を見る。夜の冷たい匂いと涙の匂いが入り交じり、胸が詰まりそうだった。夫は、西谷誉は真剣な顔でなまえを見つめていた。眼前まで刃物の切っ先が差し向けられているかのような、緊迫感に襲われる。
「ワシらが地獄に落ちるんやったら、そのろくでなしも落ちて当然や。せやろ?」
「……さっき目覚めた言うんは嘘やったんか」
「へへへ……、ワシもたまにはカッコつけたなんねや」
「誉さん、アンタほんまに阿呆やね」
「阿呆でええ。その方がなまえちゃんは笑ってくれんねん」
けらけら、と二人して無邪気に笑い合う。腹を抱えて笑ったのはいつぶりだろうか。せやったら、散々どつき回して殺したって。と妻が恨み節を吐き出せば、足りひんなあ。どつき回した後は地獄の釜で嫌っちゅうほど茹でてやらな。と夫は悪事を企む。それがまた楽しいからと、二人は寝るのも忘れて笑い合っていた。そして、どちらともなく春の宵に誘われて、眠りの淵へと落ちていくのだった。
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