暖かく降り注ぐシャワーの水流の中に、男と女がいた。男は椅子に腰掛け、前屈みになって頭を下げている。女はその男の髪を泡立てたシャンプーで丁寧に洗っていた。互いに裸体のまま、辺りの蒸気に包まれても微動だにせず、日常の光景の一部であるかのように平然としていた。男の右腕は肘から先を欠損しており、日常生活において不自由を強いられていることが分かる。女は長い髪をひとつにまとめ上げ、男の洗髪を続けていた。女はよく男の介助をしていた。元からそういう関係であるのだから、おかしくはない。女もその生活を苦に思ったことはなく、寧ろ献身的に居られることを喜びとしていた。この二人は一般的な夫婦と異なり、数多くの不自由を抱えている夫婦だ。
男の黒髪の殆どが真っ白な泡で満たされた後、女はシャワーで泡を流すように促した。男は言われたまま、シャワーの真下に立つと片手で器用に髪の泡を流していく。その間、女はボディソープに手を伸ばす。暖かな空気と漂う蒸気に女は体を火照らせながらも男の為にと次の準備に取り掛かる。男はそんな女の背を見て、何も言わずに佇んでいた。女の背には人間が持たない足が三対ほど授けられており、彼女が人間ではないことを証明していた。けれど、この二人は夫婦だった。公的な証明は持ち合わせていないが、れっきとした夫婦だった。
「なまえさん、」
「はい?」
いきなり名を呼ばれ、きょとんとした顔で女は振り返る。その手を泡まみれにさせて。ゆるくまとめ上げた髪がふわりと乱れるのも気にせず、女は、なまえは男の傍へと寄った。暖かくじわりと湿った匂いを吸い込むと、男は濡れそぼって水滴の伝う前髪をかき上げる。そして、濡れた指先でなまえの乱れた黒髪を耳にかけ直す。
「ああ、ありがとうございます」
「いえ、邪魔になってはいけないと」
「手が丁度泡だらけでしたから、助かりました」
「それはよかった」
「ふふ。そう言う、あなたも」
今度はなまえの指先が夫である男、立華鉄に伸びたのだが、その手は急いで引っ込められてしまった。立華が首を傾げると、泡がついてしまうと思って。と困ったように笑う。その泡だらけの手には、控えめに光る指輪が嵌められていた。立華はなまえの引っ込めた手を取ると、ゆっくりと自身の方へと手繰り寄せた。そして、彼女を手をシャワーの下にかざすと、降り注ぐ水流に泡を攫われてしまった。これなら、かまいませんね。と微笑む夫に妻は、ええ、そうですね。と夫の前髪をそっと横へ逃がす。
「さあ、次は体を、」
前髪を逃がした手を掴まれた。咄嗟のことで、次の言葉が編めずにいると、夫は妻の手のひらに慈しむような表情で頬を添える。この時、彼が何を思っているのかは分からない。例え、人ならざる者だとしても、たった一人の人間の心中すら読み取ることなど出来ない。湯気が沈黙と共に漂っている。もしかしたら、この湯気を隔てた向こうの夫は真に夫ではなく、紛い物の誰かなのかもしれない。そして、それは自分も同様で恐ろしさから、こうして手を取り確かめているのかもしれない。あなた、と呼び掛けると、普段見せないような安堵した表情をこちらに向けてくれた。今日も、この瞬間も最愛の夫はその人のままだった。
「心苦しいと思う時があります。避けられないことではあっても、私からはなまえさんにしてあげられることの方が少ない」
「……わたしは一度も苦に思ったことはありません。今までも、そして、これからも」
自分のことは失くした右腕のように思って欲しい。尾田のように大したことは出来ないけれど、今日を生きていく分の働きは出来ると伝えれば、夫はどことなく嬉しそうに見える顔で薄く笑った。
「いえ、なまえさんも私の大切な右腕の一部です。本心を打ち明けると、本当はそれ以上ではあるのですが、」
「光栄ですわ。きっと、この世の中に立華鉄の世話を出来る人間なんていないんですから」
「ええ、その通りです。あなたを差し置いては」
「……少し自惚れてしまいました。わたしはそもそも、」
「人間です。私の大切な、人間ですよ。なまえさんは」
『不自由』な夫婦であると言うことは、いつかその『不自由』に縛られる時が来ると言うことだ。それが今なのか、未来なのか。何も見えないまま、手探りで今日を生きている。欠けなければ見えないものもあるだろう。だが、欠けることのない未来を思う時もある。欠けなければ、今より明るい場所にいたのかもしれないと夢を見る時がある。不安定な今を生きるのに、二人は二人が必要だった。
「私はこう見えて強欲な人間です」
「……あなたが?それは意外でした」
「だから、なまえさんが欲しかった。人よりも人らしいなまえさんが欲しかったんです」
「今日は不思議と浸ってしまう日なのかしら」
「そうかもしれません、私も喋り過ぎました」
夫はようやく妻の手を離した。そっと絡ませた指先を解くように。そして、静寂の内に距離を縮めると、自分の妻より大きな背丈で目の前の体を抱き締めた。シャワーの強い水音が鼓膜に響く。しっとりと濡れた髪の先からいくつもの水滴が伝っては落ちていく。素肌が触れ合う箇所のちぐはぐな体温差に心臓が高鳴る。今、この瞬間の重なりは夫婦としてのものなのか。それとも、男と女としてのものなのか。戸惑いに躊躇い、夫の背中に腕を回すことさえ忘れていた。数秒間抱き締めた後、夫は妻から数歩離れると、互いの額と額を触れ合わせ、静かに語り出した。妻の腕に左手を添えながら、薄い唇を震わせていた。
「私は確かに欲深い人間でした。若い頃なんて特に、そうでした」
欲しいものは何でも力づくで手に入れ、その為の犠牲も厭わなかった。けれど、大切なものが出来た途端、失っていくばかりでした。まるで、──── この右腕のように。
どちらのものともしない、水滴が額をなぞって、頬をなぞって落ちていった。温かい空気が肌を濡らす。今更、泣けない誰かの為に。妻は夫の独白を口を噤んで呑み込んでいた。夫が全て吐き出して楽になるまで、耳を傾けることをやめなかった。夫はそんな妻の存在に救われていた。滅多に口にすることはないが、確かに軽くなる気持ちがある。
「なまえさん、私はあなたが欲しい」
心臓を掴まれる。あの骨張った指先に。
「例え、叶わぬことであっても、私はあなたが欲しい」
体の芯が初めて熱を帯びる。堕落してしまいそうなくらいに、甘い毒が流し込まれている。
「約束は守ります。だから、あなたを ──── 」
夫は妻へ番になりたいのだと明かした。二人の交わした約束とは、子を成さないという契りだ。決して、それを犯すことはしない。だから、夫はただただ妻が欲しいと鳴いた。妻は何も口にすることなく、頷いて見せた。それが何よりも喜ばしいと夫に誘われるがまま、唇を重ねる。深くも浅くもない、互いを確かめるような口づけだった。蒸気とも湯気ともつかない吐息が溢れていく。
「……ここでしようと言うわけでありません、」
「はい、分かっています」
「準備が出来次第で構いません」
「私も」
あと一歩のところで、互いに身を引いた。愛を囁くには、ここでは些か暑すぎる。愛を確かめるには、ここでは些かお粗末すぎる。愛を成すには、ここでは体を痛めてしまう。
「でも、ここでしてしまうのかと」
「いえ。私はなまえさんの前では、理性的な人間でありたいんです」
「私には、少し刺激が強過ぎます」
「実を言うと、私自身もあまり余裕がありません」
ですから、早々に上がってしまいましょう。と人知れず握られた主導権に、妻である女はこれで最後だからと夫である男の唇を再び食んだ。
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