「俺にしとけって、」
辺りの喧騒に負けぬ一言だった。しかし、もう幾度となく耳にしてきたのだ。今更、靡くなんてことはない。それを知ってか知らずか、まるで言い聞かせるようにして、彼、尾田純は言うのだ。そこそこに人の入った居酒屋、カウンターに二人並んで通され、ビールジョッキを片手に傾けている。最近になってよくここの居酒屋に入り浸っては仕事の疲れだとか、進捗だとか、愚痴などを齧っている。
「やめてくださいよ、ウチってそういう職場じゃないでしょうに」
「ウチは自由な職場風土なの。別に社員同士がくっ付いても、公私混同しなけりゃ良いってわけ」
「……尾田さんって意外と軽そうだからなあ」
「とんだ言い分だな、みょうじくん」
「それに、私、気になってる相手がいるので、」
「おい。聞いてないぞ、そんな話」
「ふふ、プライベートな話ですから」
どんな相手だ、から始まり、果てには、ソイツの面拝ませてもらわないと気が済まない。となり、なまえはがっくりと肩を落とした。だから、話したくなかったと後悔が渦巻く。尾田となまえは同じ会社に勤めている同僚同士だ。表立って言えない業務内容の不動産会社で二人は出会った。きっかけはどちらも社長の立場にある男の存在だった。まずは尾田の後輩として現場を共に回っていたが、危険な場面が多いこと。そして、何より書類に強い人材が少ないと言うことで、なまえは事務業務を任されることとなった。
業務内容が変わったところで、先輩と後輩の関係性に変化はない。寧ろ、互いの辛いところを知っているからか、親しくなるのに時間はかからなかった。そういう背景があるからこそ、仕事終わりに飲みに誘われても、喜んで付き合う仲になった。決して嫌な相手、嫌な飲みなどではない。だが、異性の話になると、尾田は少しだけ苦い顔をする。まだ若い女の身を案じてくれているのだろうが、やや大袈裟な気がしているのは秘密だ。そして、色恋話になる度に思うのが、何故、尾田は心配ばかりしてくれるのだろうかという疑問だ。尾田純は見た目も良ければ、羽振りも良い。まさにこの時代の輝かしい人間と言うように。話だってつまらない訳ではないし、タイプの人には直球で刺さる異性だろうに。寧ろ、引く手数多なのではないだろうか。
「尾田さんも私以外の人に声掛けてもいいんじゃないですか?」
「みょうじくんとだから、零せる愚痴があるんだろ」
「それは、嬉しいですけど。でも、周り見てると、尾田さんに声掛けたそうな人いっぱいいますよ」
「俺にはそんな奴ら、どうでもいい。今は後輩と飲んでる方が楽しいんだよ」
突っぱねた返事の先に何を見ているのだろう。また一口、ビールを飲む。時折、カウンター上の料理をつまみ、尾田のようにどこか一点を見つめてみる。しかし、分からない。いや、分かろうとすること自体が無謀なのだ。自分のことは誰よりも自分がよく分かっていて、それは尾田も同じなのだ。尾田純のことは尾田純にしか分からない。きっと、社長である彼であっても分からない腹心がある筈だ。
「それじゃあ、今夜も付き合いますよ。尾田さんは大切な先輩ですから」
「そうそう、最初からそうしてくれりゃあいいの」
「はいはい」
「んで、気になってる奴ってのは誰だ?」
「それはまた今度ですね」
露骨にテーブル上の皿を尾田に押し付けると、一つもらおうか。と玉子焼きが尾田の胃袋に消えていく。最後のひとつになる前に、とすかさず箸を伸ばせば、今度は皿ごと尾田に取り上げられた。残りは二切れ、尾田はその間にも悠々自適と更に一切れを口に運ぶ。
「ちょ、ちょっと!尾田さん!」
「さあ、どうする?」
「玉子焼きは関係ないじゃないですか……!」
「いいや、俺が好きなんだよ、玉子焼き」
「初めて知りましたよ、そんなの」
「俺は心配なんだよ、可愛い後輩が変な男に騙されないか」
「大丈夫ですよ、その人変な人じゃないですし、」
どうせ、きな臭い仕事して、女はべらかせてんだろ?違いますよ、その人はしっかりした人です。どうかな、大体そう言うのは上っ面だけだぞ。尾田さんだって話したことありますよ、だって、その人……。
ほぼ全てを明かしたところで、はっと気付く。隠しておきたかったこと全てをたった今、尾田に明かしてしまった。なまえが気になっている人物と言うのは、ついこの間、土地と建物の売買を行った相手だった。どう見ても好青年で、爽やかな印象のある男性は物腰も柔らかく、話し方も丁寧と非の打ち所のない人間そのものである。
「ふーん、あの優男ねぇ」
「べ、別にいいじゃないですか。気になるくらい、」
「俺から言えるのは、外面に惑わされるなってことだな」
「惑わされてません……!」
強く否定すると、尾田はようやく最後の一切れが乗った皿をこちらに差し出してくれ、残った一つを口に運ぶ。その間、尾田はどこか複雑そうな顔でジョッキを傾けており、どうしたのかと問えば、何でもねえよ。と乱暴に頭を撫でられた。そんなに食べたかったですか、玉子焼き。と訊ねると、馬鹿。そっちじゃねえ。と返され、余計に分からなくなった。おしぼりで口の端を軽く拭き、今度はまだ手付かずの枝豆に手を伸ばし、ぷっくりとした緑の房を食む。ぷち、ぷち、と一つずつ中身を房から押し出すと、程よい塩気に釣られてビールを流し込んだ。
すると、何かが吹っ切れたかのように大きなため息の後、ジョッキの残りを全て流し込む姿に目を丸くする。そして、こちらを向き直し、みょうじくん、今夜はとことん付き合ってくれるんだろ?と念押しで確認するものだから、いよいよ仕方がなくなってきたなまえは、勿論ですよ、先輩。と返した。
***
店を出る頃、なまえはふらついていた。自分に付き合ってくれると言う言葉に甘えた結果がこれだ。無理強いをした訳ではないが、彼女もそれなりに酒を煽っていたのだから仕方ない。ただ、彼女の口から聞かされた相手の話には未だ衝撃が抜けない。この間の取引相手は確かに傍から見ればかなりの好青年だ。まさに丁寧を体現しているような相手だが、あまり良い話を聞かない相手でもあった。しかし、仕事は仕事、プライベートはプライベートで、公私混同するつもりはなかった。だが、突然そうも言っていられなくなった。彼女の見る目がなかったんじゃない、上手く取り繕うのが上手い人間だっている。それだけのことだった。
「ほら、掴まっとけ。そこら辺ですっ転んでも困るからな」
「……尾田さん、あんなに飲んだのにまだピンピンしてるんですか?」
「酒と喧嘩なら滅法強いぞ、俺は」
「明日も仕事なのに、やっちゃったなあ……」
なまえは赤い顔で呟く。ムスッとしているのか、ぷっくりと膨らんだ頬に彼女の幼さが垣間見える。けれど、自分の言葉通りになってはいけないと、腕を組むような形で自分にくっ付いていた。そこまで深く酔ってはいないのか、意思疎通は容易だった。ただ、時々反応が鈍いことがあり、やや無理をさせてしまったと苦い心境に至る。しかし、酔いはその間にも黙って回るもので、気付けば十分ほど歩いたところでなまえがうつらうつらとしているのが分かった。彼女には酷く怒られるだろうが、今晩は神室町に泊まっていった方がいいとホテル街へ向かった。
千両通り北から七福通りを経由していくのだが、ここで尾田は意外な相手と出会した。場所は七福通りのマハラジャ前、偶然にも店から出て来た人物が見覚えのある男だった。両手に花と言わんばかりに派手に着飾った女を引き連れ、ご機嫌にもイチャイチャと楽しそうにしている。その相手は、なまえが気になっていると言っていた、あの好青年だった。尾田は深く考えるまでもなく察する。ある日突然、大金が舞い込んで来た人間のとる行動、そのものだと。金を増やすことに執着する人間と、あったらあるだけ使い切る人間。大抵はこの二つに分類されるだろうし、何度もこの目で見てきた。
「……なあ、みょうじくん。お前は本当にああいうのが良いのか?」
尾田の声が聞こえていたのか、うつらうつらとしていたなまえは途端に顔を上げ、尾田を見る。そして、今度は周囲に視線を投げようとしているのを、慌てて阻止する。彼女の目元を自身の手で覆い隠し、見るな。目の毒だ。と言い聞かせる。すると、はい、とよわよわな返事が返ってきて、目元を覆っていた手を下げた。だが、こちらが意識すると向こうもこちらに気付くらしい。尾田は人混みの中で、確かにあの青年と目が合うのを感じていた。そして、それは次第に確信へと変わる。
「あれ、尾田さんじゃないですか。どうしたんです、こんな所で」
当然のように近寄ってくると、彼は尾田を少し見た後になまえへと視線を移した。隣に持っていた花達を他所に、今はなまえが気になって仕方ないと言いたそうな顔をしている。
「よう、随分羽振りよくやってるな」
「ええ、まあ。尾田さんのお陰ですよ」
「ああ、そう。ま、金は使ってなんぼだからな」
「全くです」
そう言えば、みょうじさんどうされたんですか?何だか、ふらついてるみたいですけど。と今更ぶった発言に、尾田は胸の内に靄が渦巻くのを感じていた。嫉妬、していたのかもしれない。まるで自分が密かに愛でていた花壇から、大切な花を勝手に摘み取られた気分だった。しかも、自分以外はそれを咎めようとしていないのも、気分が悪い理由の一つだろう。
「今日、一緒に飲んでてさ。俺に合わせて結構飲んだんだ」
「……へえ、それは大変ですね」
「いいや、ウチの可愛い後輩なんだ。大変なことなんか、ありゃしないさ」
「で、これからどうされるんです?タクシーでも呼びますか?」
「今日は泊まってくよ、この街に」
七福通りを西に進んでバッティングセンターのある道を曲がれば、後はなるようになるだけだと話せば、男は嫌悪の入り交じった複雑そうな顔を隠せなかった。ぎこちなく笑い、そうですか、お気を付けて。と社交辞令のように別れ際の挨拶を添え、自分達を見送る他にない。
「じゃあ、アンタは引き続き、この街の経済を回しててくれ」
あの、薄気味悪い好青年の仮面を剥ぎ取ってやった。なまえの体を支えながら、着実に七福通りを進んで行く。そして、目的地であるホテル街に到着してからも他者の気配を感じていた。未練がましいのは、どちらだろうか。手頃なホテルのエレベーターに彼女を連れ込む。振り向きざまに仮面の剥がれた男と再び視線がぶつかった。もうこれ以上は遠慮する必要もないだろうと、今まで自分にくっついていたなまえを壁際に寄り掛からせ、扉が自動で閉まるその瞬間まで強く抱き締める。視界の端に映り込んだ、彼の苦々しい形相が網膜に焼き付いて消えない。勝手に重ねた唇も同様に酷い火傷を負ったかのように、痛々しい熱を帯びていた。
だから、俺にしとけって言ったろ。とまともに聞く耳を持たない彼女に囁きかけた。彼女は濡れた唇のまま、ぼんやりと自分を見つめている。
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