夏に溶けたアイスクリームのように、腐っていた。カンカン照りの暑い日差しを浴びながら、ただだらだらと溶けていく。甘ったるい匂いを放ち、辺りを好き勝手に汚しては汚らしい印象のまま、蒸発していく。餌を求める蟻さえも近寄らぬ程に不出来なアイスクリームは誰の目にも不快に映ることだろう。悲観、果てしなく諦観。乱暴に荒らされた部屋、ろくすっぽ鍵のかかっていない扉。最悪だった、全てを奪われたのだ。土足で無理に上がったのだろう、粗末なアパートの粗末なフローリングは砂利や土やらが付着しており、引き出しという引き出しは全て中身がぶちまけられていた。
 要するに物取りの犯行である。その犯人に心当たりはある。自分には縁の切りたかった相手がいた。所謂、恋仲だった。顔も悪くなければ、性格もそこそこ。ただ、だらしがない人物だった。異性との交友関係や金銭感覚、物事の価値観に生活の何から何まで。部屋はすっかりもぬけの殻だ。ガラクタばかりが置き去りにされて、一番大切なものを盗られてしまった。夜な夜な水商売に励みながら貯めた金だ。それを元手に昼間の仕事へ就こうと考えていたのだが、今となっては無謀だったと思い知らされる。

「必死に頑張って貯めたお金だったんだけどなあ」

 無念を呟く。誰もいない部屋だからこそ出来たことだ。どうしてこうなっちゃうかなあ、と更にもう一つ。もういいや、と足元が涼し気なサンダルで部屋に上がる。掃除の手間より現実逃避の方が先なのだ、土足のまま愛用のソファーに寝そべった。ぐるぐると嫌なことが頭を駆け巡り、少しだけ疲労してしまう。大きな溜め息を吐くのと同時に、誰かが部屋に上がり込んでくる物音が聞こえ、咄嗟に寝そべらせた体を起こし、玄関を見た。

「よお、」

 爪先は品の良い革靴のまま、その男は何食わぬ顔で廊下に立っていた。にやけた表情でこの部屋の惨状を知ると、こりゃあ、また酷くやられたじゃねえか。と声を掛ける。

「こんな時間にどうしたんですか」
「いや、どうしたもこうしたもねえよ。たまたま通りかかってな」
「たまたま、ですか?本当に?」
「誰が好き好んでこんな汚え部屋に来るんだよ」
「いつもは綺麗にしてます……!」
「まあ、そう怒るなよ」

 廊下のど真ん中に佇んでいたのは、この街のタチの悪いヤクザだった。相手がどんな人間なのかはよく知っている。決して人には言えないようなことも、手早く片付けてしまう人種だ。相手が相手だからか、余計に気が滅入ってしまい、もう一度ソファーに横たわった。視界にはガラクタの山とヤクザが映る。

「なんだよ、折角来てやったってのに茶の一つもねえのか?」
「呼び出してませんから」
「お前が落ち込んでると思って、気ィ利かせてやったのにこれか」
「これかじゃないですよ、……なんで落ち込んでるって知ってるんですか」

 ていうか、土足で上がらないでくださいよ!一応、ここ私の部屋ですからね!こんなに荒らされてんのに、部屋とは呼べねえだろ。……私じゃないです、もん。だろうな、じゃなきゃお前もこんな体たらくじゃねえよな。
 薄ら笑うヤクザの男は、佐川司と言った。佐川は依然として靴を脱ぐ素振りをせず、ズカズカと室内に入り込んでくる。そして、自分の横たわるソファーの近くに屈むと、前屈みになったせいでたるんだスーツの懐から二つを取り出して荒れた床に放り投げた。乾いた紙類の音と、カランと小さな物音を立てて転がっていく小物。佐川が放り投げた先を見れば、

「……なんで、」

 佐川司の懐から転がり出てきたのは、なまえが失くした金だった。自分の通帳と印鑑がまさかこんな形で帰ってくるとは予想もしていなかった。

「こんなもんが道端に落ちてたら危ねえよな?だから、わざわざ届けに来てやったんだよ」
「だって、これが道端なんかに落ちてるはずが……」

 落ちてたんだよ、と低い声が背筋を撫で上げた。もうこれ以上、二の句は継げない。詮索するな、と言われていた。佐川司が自分の通帳と印鑑を道端で拾った、これが全てなのだと。気の良さそうな顔をしている男だ、佐川という男は。しかし、本職の顔を覗かせる時にはそれが恐怖を助長させるのに一役買っていた。

「いいか、次は落とすなよ」

 言葉を発するよりも、先に頷く。この時だけは何も言わない方がいいと思えた。いや、寧ろ、上手い言葉を言える自信がなかった。

「ったく、世話のかかる奴だな。お前」

 先程までは静かに凄んでいたくせに、自分が抗えないと知っているのか、次の瞬間にはいつもの機嫌を取り戻し、馴れ馴れしく頭を撫でるのだ。そして、そういや、とまた自分勝手に話し始める。佐川司は恐ろしい男だ。何せ、容赦を知らない世界に生きる相手だからだ。しかし、こうして誰かを気まぐれに愛でることがあるのだと知ると、どうしてか否定し切れずにいる。佐川は汚れた手で平然とこの頭に触れる。躊躇う素振りも、後ろめたさも感じさせずに、ごく普通のことのように、あの手でこの体に触れる。

「ありがとう、ございます」

 酷く乾いた声だと思った。自分でも、こんな時に可愛げのある声を出せればいいのに、とつくづく思う。相手は店に来た客でもなければ、気心の知れた相手でもない。ヤクザだった。しかも、ついさっき人を痛め付けたであろう相手なのだ。この頭に置かれたあの手で、誰かを傷付けただろうに。

「顔、引き攣ってんぞ。店にいる時みたいに愛想良くしてくれよ」
「ずっとおどろいてばっかりで、」
「じゃあ、もう一つ驚かせてやるよ」

 佐川はもう一度、懐を漁ると今度はたった一枚の名刺を取り出した。それは黒地に金のインクが乗った上品な名刺だった。差し出されたそれを受け取ると、名刺には『真島吾朗』と綴られており、何故こんなものを佐川が持っているのか分からなかった。

「俺の仕事仲間でさ、キャバレーグランドって店の支配人やってんだ」
「キャバレーグランドって、あの、グランドですか……?」
「そう、そこのヤツ。なまえ、お前もっと稼ぎたいだろ」
「え、まあ、……そうですけど」

 佐川はマーキュリーというクラブでなまえと出会った。初めはただ、ふらっと飲みに来た一客として。それからは気まぐれに店を訪れては、なまえを指名しては楽しく酒を飲むだけの関係だったのだ。しかし、なまえに男が出来てからは時々茶化しながらも、二人の関係について助言をくれたりと懇意にしていた。そして、今日なまえは付き合っていた男と決定的な別れを突き付けられた。そのようなタイミングで佐川がなまえの前に現れたのは偶然、としか言いようがない。事の真相はあやふやなままだ。

「今の店よりも羽振りは良い。よく耳に入ってくるだろ?今、あの店がどれだけの人気店か」
「で、でも、私なんかが、いいんでしょうか」
「どういう意味だよ、それ」

 笑っているんだか、笑っていないんだか、分からない男の視線に晒されている。正直なことを言えば、自分がキャバレーグランドに籍を置くことに現実味が感じられないのだ。グランドと言えば、蒼天堀で一番のキャバレーと言っても過言ではない。接客、キャスト、サービス、そのどれを取っても一流と呼ばれる水準を保っている、相当実力のある店だ。何故、そんな誰もが羨む店に自分が呼ばれるのだろうか。

「想像がつきません、私がグランドにいるだなんて」
「俺はさ、グランドでなまえと美味い酒が飲みたいんだよ」
「でも、」
「もう向こうの人間、何人か他所にくれてやってんだ。それで女の子が足りねえってよ」

 チャンスと言えば、チャンスだった。周りの同業者の女の子達も、皆誰もがグランドの名を口にする。ああいう所で働きたいよねえ。ほんっとに全然違うんだもん、あそこの子たちって。誰もが羨望の眼差しを向け、口々に羨む店で働けるなんて、よっぽどの事がなければ実現しない夢だ。それを常連客である佐川が話を持ち掛けてくれている。

「まあ、こんな話急にされても困るよな」
「……少し考えたいです」
「ちったあ前向きに考えてくれよ。滅多にない話だからな」

 一度頷くと、佐川は綺麗な手をひらひらと振り、部屋を出て行く。フローリングをあの鰐皮が踏みつけ、詰っていく音は小気味よく鳴り、この出来事が終わりに向かっているのだと実感させられる。だが、去り際に残した『また今夜、店でな』という言葉に、答えを催促させられていると気付いた。そして、その答えが意にそぐわないものでないように、と念を押されていることくらいは気付けたのだ。



| あやとり |


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