板挟みになっている東徹を支える




 その日、彼はドアの前で酷くやり切れないと言った顔で立っていた。所々に飛び散ったであろう血、殴打されたのだと一目で分かるほどの傷、何より得意のスーツの乱れ具合から察するに、そう言うことなのだろう。ドアを開けた自分と目が合う。色の付いたレンズ越しに切なさが滲む瞳を見た。今日のトラブルはいつもと違う、事態の深刻さは無口な彼の佇まいが教えてくれる。まるで、あの日のように錆び付いてしまって動けない。それでも、力を振り絞って彼を部屋に上げてやれば、不吉に高鳴る動悸の理由にあの日を重ねていた。


***


 ──── かつて、東徹は人を殺した。
 どうしてそのような事を口走ったのかは分からないが、確かにその時の彼からは圧倒する空気を放っていた。嘘じゃないと直感的に理解するのに時間はかからず、二人で泣いていた。悔しくて、やり切れなくて、悲しくて、報われなくて、残酷さに泣いていた。彼が殺人に手を染めた理由も、彼の組内で起こっていた事も、分からない。それでも泣いていたのは、自分の大切な相手が逃れられぬ定めにその足を絡め取られて、もう引き返せない場所まで来てしまった現実に打ちひしがれて泣いていたのだ。
 そして、泣き疲れる前に切り出された別れに、なんて返せば良いのかも分からなかった。東徹という男が神室町のヤクザであっても、こうして実る恋もあった。奪う人間から与えられる幸せもあった。ささやかな日々にささやかな幸せを感じて生きていた。終焉、彼が今日遭遇した出来事はそれ程までに何もかもを洗いざらいかっ攫っていった。高望みをしたことは一度もない。この生活が続いていくのなら、それで充分だった。他の誰かに目を奪われたことも一度たりともない。自分の視線や心は確かに東徹という男にしか向いていなかったから。

「俺はもう後戻り出来ねえ所まで来ちまった。そんなもんにお前を巻き込めねえ」
「ね、ねえ、待って、ちゃんと話し合いを……、」
「話し合いをしたら、この汚れた手が綺麗になるのか?」
「そ、それは、」
「いいか、もうカタギとはつるめねえ。そう言ってんだ」
「……私は東くんにとって、すぐに切り捨てられる女だったの?」

 涙交じりの怒声の応酬。ほんの少しも本心を見せてくれなくなった彼に何度も語り掛ける。どんなに冷たくて鋭い言葉が返ってこようとも、彼の心に触れたい一心だった。なりふり構っていられない、だが、それは彼もそうだったのだろう。

「捨てる捨てねえの以前に、俺は一度もなまえをそう言った目で見てねえよ」

 粉々に砕けた心の欠片さえも踏み躙る言葉選びは、彼らしくないと分かっていながらもそれ以上は何も言い出せなかった。真正面から向かい合うことを拒絶されては話し合いの余地もないのだ。今、この瞬間に千切れた糸がある。大切に、大切に結わえていたのに。呆気なく誰かの選んだ言葉で無残に引き千切られてしまった。じゃあな、と泣き腫れた目を隠すように俯いたまま、彼は目の前から居なくなってしまった。


***


 それからは喪失の痛みに耐えながら、捨て切れない過去を、恋心を引き摺って生きていた。だから、住所だって変えなかった。仕事も、暮らす街も、彼以外に恋人を作ることもしなかった。未練がましく生きていた矢先に冒頭の通り、彼と再会した。突っぱねてしまえば良かった、今更どの面下げて会いに来たのかと。しかし、出来なかった。放っておけなかったのだ。

「今日、海藤の兄貴と八神に会った」
「……そう、」
「俺ら松金組にとっては見過ごせねえ奴らだからな、見ての通り殴り合ってきた」
「それで、そんなに怪我してきたの……?」
「あの二人はウチのカシラを探ってる」

 だから、俺達は敵同士なんだよ。でも、……でもよ、
 廊下の薄暗がりの中で彼の握り締めた拳が震えていた。その手にもたくさんの傷を作って。自分が折れない為の理由を探して、口にして、一人で全部を背負い込もうとしている後ろ姿に歯止めが効かなかった。急いで駆け寄り、深く抱き締める。気の利いた言葉一つかけてやれない自分を悔やみながら、その代わりに強く抱き締めた。彼の震えを誤魔化せるように。彼の抱え込んだ事情を許せるように。

「大丈夫、大丈夫だよ、」

 嗚咽が静かな廊下に響く。背骨越しに伝わってくる物悲しさに胸を貫かれながら、あの日のように泣いた。泣くことしか出来なかった。無力な自分を呪っているのは、この世界でたった二人だけ。強さを持たず、弱さに挫けそうになっている自分達だけだ。大きな背が震えている、彼は昔に戻りたがっているのだろう。だが、許されない。過去に犯した罪があるから。それが足枷になっているから。けれど、もし。もし、彼が許されなくとも、自分だけが許されるのならば、もう一度彼と共に歩みたいと願う。

「私も協力するから……!どうやったら、東くんの抱えてることが解決するか分からないけど、それでも、私、出来る限り頑張るから、だから、」

 だから、と縋り付いていたのは、自分だけではなかった。振り離された腕の先にあったのは、こちらを向いて自分と同じように縋り付く、彼の姿だった。埃と血の匂い、懐かしい匂い、海風のような涙の匂い。彼に初めて縋り付かれて、あの日の選択が間違いだったのだと気付く。
 あの日、去った彼を追い掛けることをしなかった。勝手に関係の糸が切れたと思い込んでいたから。一人で全てを背負い込もうとする背中を見放してしまった。誰かから押し売りされた言葉選びをした彼の、本心を探すことをしなかった。だから、忘れられなかったのだ。その後悔が尾を引き、未練になったのだ。どうして、気付けなかったのだろう。

「昔みたいに戻れなくてもいい。ただ、怪我をして傷が痛むなら、ここに来て。私なら手当てしてあげられる」

 上手じゃないけれど、空腹に喘いでいるなら料理だって作ってあげられる。不意に切なさに切り裂かれて辛いのなら、黙って傍にいてあげられる。怒りを孕んでしまったのなら、気が済むまで怒りを肩代わりしてあげられる。どんな形でもいいから、何かしてあげられることをしてやりたい。いくらよく出来た答えを並べても、この抱き締める腕より説得力のあるものはないだろう。

「馬鹿。それじゃあ、お前が都合のいい女になっちまうだろ」
「……赤の他人でもいい。私は東くんのこと、放っておけないの」
「なまえ、」

 この関係は、彼の兄貴分である海藤からの紹介で始まった。その頃の彼はまだ若く、どこか青臭さが抜けない、そんなヤクザだった。ヤクザのくせに人が良く、子ども達にも優しく接したり、頼りないのに人一倍体を張ってくれる、そんなヤクザだった。その道の人間にしては似合わない愚直さと真面目さ、そこに惹かれたのだと思う。気付いた頃には、理由なんていらない程に想いを抱いていたから。

「もう、昔みたいに東くんを理由にして、自分のこと後回しにしたくない」
「馬鹿だな、俺なんかとっとと忘れちまって次に行っちまえばよかったんだ」
「出来ない。……出来なかったの、」

 ゆるゆると涙腺から、瞼の隙間から涙が溢れる。出来ること、出来なかったこと。出来ないと思い込んでいただけのこと。今、必要なものはどれか。何が大切か。過去のしがらみに足を取られたままで良いはずが無い。今一度、向き合う機会があると言うのなら、それはこの瞬間ではないだろうか。役者は揃ったのだ。ならば、自分に出来ることは、彼をその舞台に立たせてあげられるように献身を割くことではないだろうか。

「海藤さんや八神さんみたいに上手く立ち回れないのは分かってる。でも、なんでもいいから力になりたいの、」

 感情がぐちゃぐちゃに乱れ、まともな言葉になっていないと知りながらも無口でいられなかった。あの時、言えなかった分までちゃんと自分の気持ちを伝えなくては、あの日の後悔が晴れない。本当は彼がどうしたいのか、どっちに着きたいのかは分かり切っていた。しかし、しがらみが離してくれないのだ。

「東くんが、あの頃の東くんに戻れるまで、わたし、何でもするから……っ」

「だから、だから、もう、一人で行かないで」

 彼にまとわりつくしがらみの手を振り払う。払えど払えど、決して消えないしがらみにとどめを刺すのは自分では無い。それは、きっとあの二人と彼自身なのだと思えた。後はひたすらに嗚咽を上げて泣き続けていた。彼はと言うと、自分の取り留めのない言葉に涙を流していた。そして、頻りに悪かったと過去の諍いを謝っていた。彼が謝る度、大丈夫だと許し続けた。今はそうでもしなければ、明日へと向かって行けない気がして。

 気が済むまで二人で泣き散らした後、真っ赤になった目で互いを見合った。昔の優しい面影はまだ残っており、密かに安堵していると、今度は彼から意外な言葉を投げ掛けられた。互いに視線を逸らさず、真っ直ぐ見つめ合う最中に投げ掛けられた。

「なまえ、俺に力を貸してほしい」

 気の利いた返事が出来ないからとすぐに頷けば、またほろりと一つ溢れてしまった。急いで涙を拭うと、また次がほろりと溢れていく。ごめん、と泣きながら笑う。彼は黙って複雑な表情をしている自分を数秒見つめた後、その胸の内に抱き寄せる。そして、囁かれた言葉に昔の姿が重なってしまい、歯止めが効かなかった。

「……やっぱ、俺の目に狂いはなかったんだな」

「それなのに、俺ぁ手放しちまった。自分だけでどうにかすりゃあいいと思い込んで」

「情けねえ。大事な女放ったらかしにして、自分一人で解決させたつもりになってた」

 抱き締められた胸の内側から手を伸ばし、切れて血の滲む口元に指を這わせる。指先で滲む血を拭い、静かに首を横に振った。仕方がなかった、当時はそれしか見えなかったのだから。過去を責めても、未来は変わらない。今から少しずつ変えていけたらいいと涙ながらに告げた。すると、ようやく彼も安堵した表情を見せ、もう一度だけ優しく抱き締めてくれた。

「今すぐに、とはいかねえ。時間がかかるだろうが、俺は、」

 するり、と懐から逃げ出したのは、彼の決意を聞いて安心していたくなかったからだ。彼は驚いた顔をしていたが、言いかけた言葉を飲み込み、痛え、と小さく呟いた。

「……手当てしようか、」
「悪ぃな、頼む」

 気が緩んでいた顔を引き締め、彼より先に部屋へと戻り、救急箱に手をかける。ふと、一人になり、思うことがある。きっと、これから彼が歩む道は易しいものではない。今日より酷い怪我を負う時や命の危機に晒される時が来るだろう。不安だ、恐ろしいだけじゃなく、一生の別れを突き付けられるかもしれない。それでも、自分に出来ることは彼に献身を与えることだ。見返りはいらない、ただ彼にとって望んだ結末が迎えられるなら、自分の献身などどれだけ消耗しても構わない。

 呼吸を整える。大丈夫だ、大丈夫。彼には海藤と八神がついている。だから、大丈夫だと自分を奮い立たせ、廊下で待つ彼の元へと戻って行った。



| 添え木 |


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