売り言葉に買い言葉、軽率に噛んでしまったことを悔やむ。自分の目の前には半裸の夫がおり、自分はと言えば、腰に巻いていた帯を夫に外され、胸元や下腹部がはだけてしまわぬよう、何とか持ち堪えている。子を孕んでも良いと口にしたが、まさか今夜の内に夫が孕ませに来るとは想像もしていなかった。ベッドの上で夫と妻は対峙していた。今は夫側が優勢で、妻側は劣勢である。

「いつ見てもええもんや、自分の女の体は」
「何も無理矢理、帯を取らんでも……!」
「ワシもやっとこっちに帰ってきたんや、」

 優しい服の脱がせ方なんぞは忘れてもうたわ。と忍び寄る虎の如く、にじり寄って来た。戯れる虎の真下に組み敷かれ、大きな手が頬に触れた。頬から伝わる夫の体温に、少しだけ解れる緊張がある。なまえは龍司と籍を入れてから、ものの数回しか体を重ねなかった。龍司が関東への近江進出を狙い、精力的に知略を張り巡らせていたからだ。家を空けることの多かった夫と今更、体を重ねるのは勇気のいることだった。自分自身、そこまで積極的な方ではない。寧ろ、龍司の事情を考えると、無理な営みは余計な足枷になってしまう。ならば、せめて彼の為になるようなことをしなければと、若衆達の面倒を見てやっていた。だが、誤解が生じた。本当に彼が、妻が不貞を犯していないと信じているかは定かではない。このような形で抱かれたくなかったのが本心だ。
 優しく頬に触れていたのも束の間、今度はその手を次第に下へと滑らせていくのが分かった。顔のラインをなぞるように頬から顎、首筋、鎖骨、胸元、腹部、下腹部へ。分厚い皮膚の手のひらが柔い皮膚に触れる度、体は嫌でも反応していた。夫との肌の触れ合いが嫌なのではない、慣れぬことをしてるが故に怯えたような反応になってしまう。だが、それを熟知しているのも夫のみで、顔色一つ変えずに肌の愛撫を繰り返している。ぞわぞわと肌の表面を駆け抜けていく感覚にその気にさせられる。淫らなことを待ち受けている、そんな心境だった。

「まだ全部脱がしてへん。せやけど、待ち切れんのやろ」
「どうせ、抱かれるんやからさっさとしましょ。龍司さん」
「色気のない誘い文句や。そないじゃ勃つもんも勃たれへんわ」

 組み敷かれているから分かることがある。勃たないと言っておきながら、夫は妻を組み敷き、苦言を呈されても、性的反応は健在だった。ぐ、と張り詰めて大層窮屈にしている。すると、どこ見てんねん。と龍司は自らベルトの金具に触れ、片手で器用に解いていく。なまえはあまりの光景に目を逸らした。やはり、得意ではない。得意になどなれない。思い切り顔ごと逸らしていたせいで、次の龍司の動きが見えなかった。慣れた手つきで下着を剥ぎ取られ、いよいよ事に及ぶのだと察する。しかし、そこから先は中々始まらなかった。どうしたのかと逸らした顔で再び見上げれば、真面目な顔をした夫がいた。そして、夫の視線の先にあるのは、妻の体だった。普段の装いなら決して露出することの無い、肩。そこに夫の視線が降り注いでおり、夫は指先でその肩にある銃創に触れた。

「のう、なまえ」
「なんやの、そない畏まって」
「ワシはアンタに惚れた。せやから、妻として娶った」
「せやね、それで?」
「アンタがもしウチのに手ェ出したっちゅうんなら、この傷のこと咎められる思てな」
「はっきり言うて」
「なまえ、アンタは無実や。ウチのが勝手に浮かれて勘違いしとっただけや」

 予想外の言葉になまえは言葉を忘れていた。どうして突然、そんなことを、と問うていたのかもしれない。何故なら、そう口にした龍司から目が離せなくなっていたから。

「どいつもこいつも、なまえが可哀想や、なまえのことは俺が、言うて目障りやった」

 傷に触れる指先が、過去を見つめている瞳が、優しさを帯びていく。

「せやけどな、どいつもなまえの傷について話さへんかった」

 だから、妻は夫以外の男に体を許してはいないと結論が出ていたのだと言う。勿論、妻に指摘されたように嫉妬も持ち合わせていた。自分をおいてこの傷の理由も、なまえを娶った経緯も知らぬ男達がまるで我が物顔で妻を語る。これほどまでに腹立たしいことはない。なまえの心配通りであったことも、今は充分に理解出来る。だが、事実として嫉妬していたのだ。

「なまえ、アンタを疵物にしたのはワシや」

 その責任を果たさなければならないと口にする。傷に触れる夫の手に、妻は自身の手を重ねては胸の内を明かす。

「私は疵物にされたなんて、思ってへん。せやから、気にせんといて」

 なりたくて夫婦になったのだと告げようとしたが、途端に視界が真っ暗に覆われていく。肌を焦がす吐息、厚みのある唇の感触、融解していく体の芯。気まずくて後ろめたい気持ちはとっくに無くなっていた。分け与えられた酸素を取り込んでいると、夫の唇は次に肩の傷跡へと触れた。すると、ぞくりと押し寄せる波のような感覚に襲われる。溶け出した体の芯を更に熱くさせる衝撃は、欲情のそれだった。唇で傷跡を愛撫され、快楽の微々たる波が押し寄せて止まない。

「龍司さん、それ、あかんから……、」
「折角、抱くんや。せやったら、阿呆ほど鳴かせたらなバチが当たるわ」
「ええ、ええから、そんなん、」
「喘ぐ姿も堪らんで、なまえ」
「んん、擽ったいから、ほんまに、」

 なまえが身を捩らせて抵抗していると、手狭な距離で視線が不意に重なった。そして、噛み付かんとする強欲な瞳に穿たれ、息が止まる。欲に深く爪を立て、理性の糸を千切らないよう堪えているのが分かった。これでも、まだ抑えているものがあると知り、今度はなまえから唇を重ねていく。糸を千切ってやらなければならない気がして、粗末だと知っていても自分からしてやりたいと思えたのだ。一人でいたいくせに、どこか放っておけない男。だから、今もこうして、

「ワシにはアンタだけで充分や、他の女なんぞ知らんでええ」
「気にしとったん、あんの時のこと」
「ホンマに遠慮も知らんと言うてくれるわ、思うたもんや」
「私もあかんね、子どもやった」

 せやったら、今からは大人の時間や。
 ぐ、と押し付けられる圧迫感に羞恥する。このまま事に及んでしまうのだろうと思っていた矢先、呆気なくその圧迫感が無くなり、夫を見た。ちゃんと慣らさな、あかん。せやろ。と今度は自分の股の間に落ち着くと、早々に陰部に触れた。先程の戯れである程度の湿り気を帯びているそこに指を沈め、具合を確かめているようだった。ぐぐぐ、と体内に侵入される感触に不覚にも声が漏れた。その声に反応するかのように滑り込ませた指先で体内をやんわりと刺激する。まるで引っ掻くかのような動きに、背骨を伝って快楽が駆け抜ける。一本、また一本と中を掻き回す指は増えていき、その分聞こえてくる水音も次第に大きくなっていった。
 慣れぬ内は痛みが伴うからと夫は妻の中を掻き回してばかりだった。入念で丁寧なのは構わなかったが、与えられる刺激に慣れ始めた体があった。肉厚な指が何度も腟内を圧迫していく。小刻みに震える肉体はやがてより深い快楽を求めるようになった。満たされぬ切なさにシーツを掴む。微弱な快楽では絶頂を覗くことすら出来ない。切なさに悶え、余裕もなく喘いでいると、部屋の襖の向こうで声が聞こえた。それは夫の子である若衆の声だった。自分の親が情事に耽っていると知り、酷く申し訳なさそうな声で親を呼んでいるのだ。

「……ええよ、行って」

 眉間に深く皺を寄せ、不機嫌に舌打ちをすると、次の瞬間に体内に大きな喪失感が押し寄せた。今まで愛撫していた夫がいなくなったことで、より切なさに拍車がかかってしまった。肝心の夫は襖越しに話をしているようで、その背中からは機嫌の悪さが見て取れた。しかし、自分はと言えば、快楽に塗り潰された足りぬ頭で、どうにかして自身の喪失感を埋めようとしていた。股を閉ざしてみたものの、肝心の中が満たされない。未だにうっすらと感覚が残っていて、早く満たされたいと強く願っている。どうしようもない、切なさにシーツを掴んでも、どんなに爪を立てても、夫に適うものがない。
 ゆるゆると自身の手で体に触れていく。あつい、まるで自分の体ではないように淫らで艶めかしく、それでいて欲深い。指先が乳房を掠めても、下腹部を圧迫しようとも、求めるものに何一つ届く気がしなかった。遂に湿ったそこへ指先を滑り込ませた時、自分が如何に情欲に濡れていたかを知る。抗うことは出来た、ただそれを選ばなかっただけで。夫のより幾分か細い指先を沈める。小さな水音を立て、自らの体内に侵入するそれは快楽を貪るにはやはり物足りない代物だった。自慰。妻は夫を思い、夫を模したやり方で自らを慰めていた。微弱な快楽はただの毒であると分かっていながら、止めることは出来なかった。

「龍司、さん……」

 だから、気付くことが出来なかったのだろう。火照る体の切なさに囚われていたせいで、話を手短に切り上げた夫をおざなりにしていたことに。切なさに焦がれた声で夫の名を呼ぶと、再び夫は妻の股ぐらに身を収めた。そして、中断していた愛撫を再開させるのではなく、いきり立つ熱を濡れた陰部へと突き立てた。決して視線を逸らさず、夫はより深みへと身を沈めていく。自分のものとも、夫のものとも比べ物にならない『それ』が内側の熱く、柔らかく、蕩けそうな肉壁を押し広げていった。その全てを飲み込んだ頃、夫はようやく口を開いた。

「あんなんなるまで我慢するからや」
「そういうつもりやない、」
「人間、素直が一番や。ちゃうんか?」

 ゆるやかなピストン、挿入しただけでは届かない膣奥を穿つ熱。自らを慰めていたことを悔やんでいた。中途半端に欲を煽ったせいで、歯止めが効かない。欲すれば欲するほど、与えられれば与えられるほど、その全てを享受してしまう。そないに待てへんかったんか。と煽られても尚、欲しいと疼くのだから、まるで別の誰かになってしまったようだった。肌の弾ける音に蓄積された快楽が触発されている。深みに響く快楽に、もう長くは持たない。

「ね、え、……ホンマに欲しい?」
「アンタとワシの子や、いらんはずがない」

 せやけど、今はアンタがええ。この一回で終いなんぞ、そない殺生なことは堪忍や。
 雄々しい熱が中を穿つ度に打ち震える体が、今度は与えられる快楽を拒むようになった。絶頂が近いのだと察するが、龍司もそれに気付かないほど女を知らない訳では無い。筋肉の強ばり、反る体に逃げ腰、許されるはずもなく。追い討ちをかけるように、龍司の動きは衰えなかった。しっかりと腰を掴むと、自分と同様に絶頂が近いのか、忙しない動きで快楽を貪っていた。
 千切れるばかりの呼吸、うっすらと汗ばむ体、互いに波打つように震えてしまうほどの刺激の強さ。そして、間もなく情事は無事に終わることになる。なまえの肉壁を嬲った龍司の熱が引き抜かれ、なだらかな腹部に白濁を吐精する。なまえは龍司より先に達しており、内側から四肢にじんわりと広がる弾けた快楽の余韻に浸っていた。腹部を汚されることも気に留めないほどの心地良さだった。吐精が終わるまで、龍司は身動きが取れなかった。愛する女との行為は変え難いほどの快楽が伴う。まだ、そう簡単に終わらせてはならない。溺れてしまいたい、肉体だった。

「……ええんやね、外で」

 余韻が薄れつつあるなまえは、自分の腹部の白濁に視線を絡ませると、ぶるり、と体を震わせた。結果として、今夜は子を孕ませることをしなかった。まだ求められているのだと知ると、疲労の染みる体が熱を帯びた。情欲などではない、純粋な温もりだ。なまえはそれを分け与えるように龍司の手を取り、ぎゅっと握り締めた。

「今やない、だけや」
「うん」

 小さく頷いたなまえの体を抱え、二人は浴室へと向かう。疲れ果てた体が如何に重かろうと、ものともせず龍司はなまえを抱えて、薄暗がりの浴室の明かりに手をかけた。



| 宵際に鬼灯 |


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