綺麗な空気を吸い込んで、薄汚れた空気を吐いた。真っ白な吐息が綿毛のように空中に溶けて消えた。瞬きを繰り返せども、隣人は沈黙したままだ。綺麗な景色が見に行きたいと、身の程にもない我儘を彼は聞いてくれた。人のいない列車に揺られて、人のいない朝焼けの海辺へとやって来た。彼の気遣いは自分達に二日分の宿を用意し、たった二日間の自由を約束してくれた。その時初めて自分達が如何に不自由だったかを知る。そして、二人の逃避行を許してくれた同僚にも感謝しなければならない。まったく、と悪態をついた彼も神室町を発つ時には、楽しんでこいよ。と強めにこの肩を叩いていた。
 朝焼けの砂浜を歩く時、彼はいつだって傍にいてくれる。不自由の多い体だと言うのに、こうして付き添ってくれる人の良さに涙を呑む。正直に言えば、申し訳なさを感じないわけが無い。虎視眈々と機を窺っている彼らに無理を言ってしまったのだから。不安、苦悩、寂しさ、無力さ、全てが煽られていた。優しい言葉に甘えたくはないが、何故か弱っている時にはそれが欲しいと思ってしまうのだから情けない。隣人が不意に話し出す。感情の起伏がない、同じトーンの言葉に耳を傾ける。

「なんせ、休みのない職場ですから」

 また気を遣わせてしまったような気がする。彼は少し前に駅の売店で買ったコーヒーを片手に、ぽつんと置いて行かれたようなバス停のベンチに腰掛けている。この時間にバスは来ない。自分もその隣に腰掛け、休憩にあやかる。彼のコーヒーとは対極的に、自分の手元には中身の残るコーンポタージュの缶がある。つぶつぶとしたトウモロコシの粒を噛み潰しては、全ての粒を食べられないことにセンチメンタルになろうとするのは止めようと思えた。何も全てが報われるような世の中じゃない。明日を約束されずにあぶれる者もいれば、安全圏で安穏と出来る者もいる。何が悪くて、何が良いのかは誰にも分からない。その背景に深刻な事情があるのなら、仕方がないよと罪を軽んじるだろう。

「尾田さんは今頃どうしてますかね」
「尾田さんのことが気になりますか」
「一人、置き去りにしちゃいましたから」
「仕事も休みで私と居るのに、随分と妬けることを言うんですね」
「……社長もやきもちとか、焼くんですか?」
「ええ、私も一人の人間ですから」

 やけに人間味のある言葉に、それとなく彼の手を握り締めた。隣人の右隣で不自由な黒革の手を握り締めたのは、いつ彼が隣から消えてもおかしくない相手だったからだ。神室町と言う街を離れ、遠くの海辺にやって来たのにも拘わらず、立華鉄と言う男の儚さは変わらない。風に吹かれれば、そのまま攫われて居なくなってしまいそうな男なのだ。置き去りだけは嫌だった、一人では寂しくて生きていけない。こんなものは誰にも明かせない弱音だ。仮に明かしたところで、甘ったれているだとか、それでも大人か、だとか、しっかりしなさいだとか、的外れな弾に撃ち抜かれて傷付くだけだ。

「今度は三人でどこか行きましょうね」
「それは、困ります。このベンチは二人がけでしょう」
「またここに来るんですか?もっと別の場所でも、」
「私はなまえさんと来た、この場所が好きなんです」
「……あまり綺麗じゃないバス停ですよ、ここは」
「それでもいい、私にはこれぐらいが丁度いいんです」

 手を伸ばせば届く距離に、あなたがいる。大切な人がすぐ傍に居てくれることの幸せを噛み締められる、数少ない貴重な場所なんです。
 まるで握り返されたかのように、錯覚していた。義手である彼の右手は寒さに凍える手の冷たさを知らず、息が詰まるほどのささやかな喜びに指先が震えていることを知らず。けれど、この瞬間に彼の右手は失う前の生身のそれで、彼自身もあたかも健常者そのものであるように見えた。

「あの街で登り詰めた先に何があるのかは分かりません」

「だからこそ、今こうして肩を並べて見ている景色が特別なものだと思える」

 ……私らしくありませんね、感情的になり過ぎている。
 立華鉄はそう言って、地平線に微笑んだ。視線はどこか遠くの国にある気がした。彼の生い立ちや育った環境、そして彼自身に何があったのかは一通り知っているつもりだが、それでも拭い切れない切なさに喉が焼けている。意図せず漂うコーヒーの苦味が鼻をくすぐった。苦い切なさにようやく絞り出せたのが、自分でも恥ずかしいくらいに弱々しい一言だった。

「ここには私しかいませんから、大丈夫です、社長」

 頼りない小娘の、頼りない言葉に、何を考えているだろう。立華は地平線をなぞる視線をこちらへと滑らせ、手、握っていてくれてありがとうございます。と礼を述べた。

「これなら寂しくありません」
「ところで、体は痛みませんか」
「今日は調子が良いようです」
「今日はどうしましょうか」
「この景色を見続けたいものですね」
「それなら、またここに戻って来ましょう」
「バスに乗る意味がありませんね」
「社長のお望みとあらば、ってやつです」
「今、一瞬だけですが尾田さんが過ぎりました」
「ふふ、ちょっと意識しました」
「妬けますね」

 会話の分だけ冷めた飲み物に口をつける。やっぱりポタージュのトウモロコシは全て食べられない。どうしてもいくつか置き去りにしてしまう。ぬるくなったポタージュが舌の上を滑らかに流れていき、鼻から甘い香りが抜けていく。実は大して美味しくない、値段同様にチープなポタージュを流し込んでいるのだが、酷くありふれているおかげで感傷せずに済んだ。どこにでもあるものが持つ安心感に浸っていたかった。

「社長、もしかして好きですか。私のこと」
「これは大胆ですね」
「じゃなきゃ、尾田さんにやきもちなんか焼かないでしょう」
「ええ、好きですよ。長らく苦楽を共にしてきました」
「恋人なんて薄情な仲じゃないですもんね」
「尾田さんほどではありませんが、それなりに信頼も寄せています」
「私は二人とも好きですよ。社長も、尾田さんも」
「二兎を追う者は一兎をも得ず、ですよ。みょうじさん」

 ひんやりと冷たい潮風が地平線の向こうから渡ってやって来る。頬を切り、肩を切り、髪を切るように通り過ぎて行く。白日、見渡す限り綺麗な世界だった。この世に人間がいなければ、こんなにも世界は美しさに満ちていると知る。だが、今更この世から人間は無くなりはしない。嫌でも関わり合いを持ち、生きていかなくてはならない。もし、この世から自分達以外の人間が消えたとして、彼はこの手を、自分はこの手を引いて行けるのだろうか。バスはまだ来ない。

「明日もまたここでこうしましょうか」
「みょうじさんは嫌ではありませんか」
「嫌じゃないです。社長と一緒に居るからかもしれませんが」
「今の仕事が落ち着いたら、こっちに引っ越そうかと思います」
「それって、」
「不動産業は閉業です。ただ、今すぐにとはいきませんがね」
「いいじゃないですか、移住」
「かなり先の話になりますが、その時はみょうじさんも着いてきてもらえますか?」

 喜んで。そう言ってくれると思いました。
 この両足には重たい枷が嵌められている。運命に繋がれ、決して逃げ出すことは叶わない。立華鉄と尾田純は神室町でやり遂げなければならない『仕事』がある。自分は運命に至る駒にはなれない。きっと何の役にも立たないだろう。この海辺の傍のバス停でベンチに腰掛けながら、大切な隣人達の穏やかな明日を祈るばかりだ。たった二日間の自由、どう過ごそうか。二日後、自分と立華は東京の神室町へ帰る予定だ。



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