彼女の妹の部屋はとても綺麗に片付けられており、部外者である自分が引っ掻き回して良いものかと躊躇っていた。しかし、彼女の許しを貰い、初めて手を伸ばしたのは妹が使っていた机の引き出しだった。三段ある引き出しを一つずつ開けていき、中身を確認する。一段目、お気に入りのものと思われる文房具が綺麗に整理されて並んでいた。二段目、新品と思われるノートや文房具が予備として置いてある。三段目、使用済みのノートや紙束が収納されていた。この机は勉強机として利用していたようで、妹の死に関係するものは見当たらなかった。

「かなり真面目な子だったんだね、勉強道具が綺麗にしまってある」
「ええ、だから思い詰めてしまったのかもしれません」
「妹さんが滅入っている時に声をかけたりは?」
「……いえ、私たちに心配をかけまいと気丈に振舞っていたようです」
「へえ、そっか」

 何かが引っかかる。だが、その違和感をどう形容して、どう問い掛ければ良いのか分からずに口を噤む。今はあまり深く考えぬように、開けた三段目の引き出しから適当に一冊取り出し、妹の軌跡を辿る。パラパラとページを捲る度、妹本人のものと思われる綺麗な筆跡に思いを馳せる。自死を選ぶ。特に苦しいと言われる亡くなり方を選んだ妹は何を苦にしていたのだろうか。首吊り、その名の通り、自身の息の根を止める方法だ。何故、それでなければならなかったのか。時折、彼女の方を盗み見る。この部屋に入る時、彼女はとても苦しそうに見えたのだ。肝心の表情はベールによって確認出来ていないが、辛い記憶に触れる彼女のことも気に掛けなければならなかった。

「嫌なことを思い出させるようで申し訳ないんだけど、妹さんの『現場』は、」
「屋敷の裏庭です。そこに一本の大きな木が植えてあります」
「屋敷の裏庭なら、遺体が腐敗するよりも先に発見出来たんじゃない?」
「妹はその木の裏側で亡くなっていました。辺りも緑が鬱蒼としており、実際に足を運ばなければ分からないほどです」
「じゃあ、そこも見ておかなきゃだね」
「ええ、その通りなのですが……」

 明らかに具合の悪そうな声音に、彼女の中で苦しい記憶がこれ以上フラッシュバックしないよう、後で一人で見に行く旨を告げた。すると、今日は厳しいのではないかと返され、部屋の窓の外を見れば、いつの間にか夜の帳が下りていた。

「そうだね、裏庭の木は日を改めて見に行くよ」
「すみません、本当ならご一緒しなければならないのに」

 椅子に腰掛けている彼女は弱々しい声で非礼を詫びていた。気にしないで、と声を掛け、次に手を伸ばしたのは机の傍にある本棚だった。妹が愛読していた小説が所狭しと並べられている。勉強道具である参考書も何冊か見受けられたが、その本棚で自分が気になったのは日記帳と思われるノートが二、三冊ほど収納されていた。
 一番左端のノートを手に取り、彼女の方を見れば、どうぞ。と返され、日記帳の硬めの表紙を捲った。その一冊目には日記をつけることになった経緯が綴られており、彼女の妹は自分の体調や精神面、その日に起きた出来事を簡潔にまとめていた。日記をつけるようになった頃の妹はどこにも異常が感じられない、何処にでもいる一般的な少女のようだった。

『とてもよく晴れた日で気持ちの良い一日だった』
『乾燥の目立つ時期になってきた。リップクリームとハンドクリーム買わなきゃ』
『今日は同じクラスの……ちゃんと遊びに行った』

 妹は学校生活でも悩みを抱えてはいなかったようだった。成績も良く、素行も良く、友人関係、教師達とも良い関係を築けていた。両親との不仲もない。本当によく出来た女の子の日記という印象だ。一冊目を読み終え、二冊目に手を掛けたところで、具合の悪い彼女が一時退室すると言って部屋を出て行った。扉も閉めずに彼女は部屋を後にする。いたたまれない思いに胸の奥がじりじりと焦げていく。彼女にとって大切な妹はこの部屋の全てに宿っていて、長居することも辛いのだろう。

「何も彼女だけをこの屋敷に残すこともないだろうに」

 不意に溢れたのは、彼女の不憫さを嘆いた言葉だった。彼女も、彼女の両親も確かに遺族であることには変わりない。けれど、彼女が一人でこの屋敷に残ると言い出した時、何故両親はそれに反対しなかったのだろうか。普通なら、自分の子ども一人を残して出て行くなんてことはしないはずだ。その関係性にも奇妙なものを感じる。この屋敷に足を踏み入れてから、至る所に僅かな違和感が隠されているような気がしている。しかも、その違和感が何なのかハッキリとしないのも不気味だった。
 その時、意図せず手を止めたページに綴られた文章に目を落とす。その日も何気ない日常を書き連ねた少女の日記だったのだが、最後の一文が妙に引っ掛かった。最後の一文は『明日も良い一日になりますように』とささやかな願いが綴られている。しかし、その部分には一度書き直した跡があった。消し方が甘かったのか、薄い靄のように他の余白を汚しているそれを見掛けたのは、このページで初めてのことだった。

「何を消したんだろ、」

 ひとり呟きながら、願いを指先でなぞると、最初に書き込んだ時の筆圧が強かったのか、紙面が凸凹していることに気付いた。次のページを捲れば、翌日のことが書き込まれていたが、その日の内容は手短にまとめられており、丁度余白と被っていた。日記帳を机の上に置き、一段目の引き出しにしまわれていたシャーペンを手に取り、余白を塗り潰していく。強い筆圧は後ろのページに同じ文面を残す、これはサスペンスドラマでも犯行のトリックを暴く為のヒントとして用いられるものだった。滑らかに余白を塗り潰していく鉛色の中心に狙い通り文字が浮かぶ。真っ白に綴られたそれは彼女の妹がおかしくなり始めたきっかけだった。

『じぶんの かおを みるのが こわい』

 自分の顔を見るのが怖いと書かれた日記が途端に恐ろしく感じられた。手にしたシャーペンを静かに引き出しに戻すと、どこからともなく風に吹かれたかのように日記がパラパラと捲られていく。おかしい、この部屋は閉め切っていると言うのに。この風はどこから吹いているのだろうか。あまりにも突然だったからか、この部屋の窓が開いていないか確認しようと視線を真横に逃がした時だった。
 あの薄布が視界に紛れ込んでくる。全く表情の読めないベールが視界を覆うと同時に、鋭い視線を薄布越しに感じていた。彼女だった。具合が悪く、部屋を退室した彼女がいつの間にか真横に佇んでいた。全く気付かなかった。異様な空間に押し黙り、視線を日記に戻すとそこには何も綴られていない真っ白のページがあった。次も、その次も、その次の次も余白が続き、日記の終わりを知る。

「何か進展はありましたか」
「え……っと、いつからそこに、」
「つい先程です。探偵さんが何かを一生懸命に見てらしたから、私も見ようと」
「正直、驚いたよ……」
「ごめんなさい、驚かせてしまって」

 少し休んでいただこうと思いまして。と彼女は近くのテーブルに湯気の立つカップを二つ並べて置いていた。彼女が抱えたトレーに、具合が悪いながらもこちらを気遣ってくれていたことを知り、申し訳なくなる。折角の親切を無下にしてはならないと、不気味な日記帳から離れ、彼女が座っていた椅子と向かい合うもう一つの椅子に腰を下ろす。それから遅れて彼女も腰掛け、抱えたトレーを横に逃がした。

「紅茶はお嫌いではありませんか?」
「大丈夫。いただきます」
「それで進展は、」
「妹さんの日記におかしな部分があった」
「おかしな部分、と言いますと?」
「自分の顔を見るのが怖い、そう書かれてた」
「妹が?そんなことを……」
「書かれてたと言っても、後から書き直して無かったことのようにしてたんだ」

 彼女は言葉を選んでいるのか、黙ったままだった。自分も変に取り繕いはせず、カップに注がれた暖かな紅茶を口にした。鼻先を暖かな湯気にくすぐられる。もう一、二口と紅茶で恐ろしさに冷えた体を温めていくと、いつの間にか嫌な寒気は消えていた。

「今日はもう遅いから、これで引き上げようと思う」
「では、また明日ですね」
「なまえさんも思い出したことがあれば、教えて欲しい」
「分かりました。私の方でもこの部屋を調べてみます」
「それじゃあ、また」
「ええ、また明日よろしくお願いします」

 残りの紅茶を飲み干し、ごちそうさまでした。と残して部屋を、屋敷を後にした。道中、振り返って彼女の屋敷の全貌を見た時、あの部屋の明かりが消えていることに気付いた。もしかしたら、彼女も疲れて休んだのかもしれないと思うのと同時に、屋敷の景観がやけに寂れた廃屋のように見えた。

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