場所は再び、彼女の妹の部屋。裏庭で太い木の根に躓いた彼女は足首を痛めてしまったらしく、一人椅子に腰掛け、足を休めている。自分はと言えば、屋敷内の探索許可を貰い、不躾ながらも屋敷のあちこちを引っぺがえしては手掛かりを探していた。長い廊下に飾られていた額縁には絵画も、家族写真の一枚も見つからない。父親の書斎や父母の寝室は綺麗に片付けられており、もぬけの殻だった。そうなると、妹の部屋の異様さが意図せず引き立てられる。あそこまで物が残った状態である部屋の方が珍しいのだ、この屋敷の大半がもぬけの殻である事実に対して。
 物が残されていないからこそ、手掛かり一つ見つけるのに苦労がつきまとう。まっさらな場所から突然手掛かりなんてものは湧いて出て来ない。分かっているが、各部屋へ足を運んで室内の虚無を覗く度にやるせない現実と向かい合うことの虚しさを突き付けられる。無駄なのかもしれないと、一階のダイニングフロアに差し掛かった時、部外者ながら足を痛めた彼女に何か持っていきたい衝動に駆られた。ごく自然にそう思ったのだ。

「失礼しますよっと、」

 ダイニングキッチン、中身がスカスカな食器棚にはたった二つほどしかカップや食器が置かれていない。ポットやティーセット、必要最低限の数しか揃えられていないナイフやフォーク類。どこを見ても異様なほど、生活感がしない空間が多い。彼女もあまり屋敷にいない人間なのかもしれない。でなければ、ここまで生活感を消すことは出来ないだろう。昨日出してもらった紅茶を彼女に持って行こうと、パントリーの扉に手を掛けた時、それは不意に姿を現した。
 スライド式の扉を横に逃がすと、ほぼすっからかんである棚の一つに一枚の紙切れが置いてあることに気付く。そっと手を伸ばし、紙切れを引き寄せると、それは写真だった。彼女はこの屋敷に写真は一枚も存在しないと言っていたが、たった今出て来たこの一枚を彼女は見逃していたのではないだろうか。手繰り寄せた写真は裏向きになっており、長方形の裏面の余白には誰かの筆跡で『新居、家族三人で』と綴られていた。心臓が不意に高鳴る。どく、どく、と緊迫感にせっつかれ、嫌な脈の打ち方をしている。恐る恐る手を伸ばし、裏返しのままの写真を手にする。

「これは、なまえさんに渡した方がいいかも」

 自制の効かなくなった自分に言い聞かせるように呟くと、手にしていた写真を懐に収め、彼女の元に戻ろうとしていた。見つからなかった家族写真が予期せぬ場所に転がっていたことを伝えたかった。だが、それよりも先に誰かが駆け足でダイニングを駆けていく足音が聞こえた。そして、扉が開いては自然に閉ざされる音。この屋敷にいるのは、自分となまえの二人だけだ。嫌な予感がする。急いで彼女の待つ二階の部屋へと戻ってみると、そこには誰もおらず、先程駆け抜けた足音の主が彼女であると知った。疑問符がまとわりついて離れない。何故を問う前に彼女の後を追い掛け、見つけださなければならない。
 そこからは視界に流れ込む景色の中から、彼女の形を探すことに必死になっていた。正直、まだ呑み込めていない疑問は残っている。しかし、今彼女のことを見つけ出さなければ、もう二度と会えないような気がしたのだ。屋敷を飛び出し、行き損ねた裏庭にある木へと向かう。彼女のものと思われるパンプスの片方がその道中に転がっており、それを拾っては薄暗い木々の間を通り抜けた。すると、不意に感じるものがある。昨日はこの裏庭の茂みがまるで森のように広大で終わりのないもののように思えたのに、今はどうだろうか。容易く木々を抜けた先に、あの行き損ねた現場があった。


 日差しを拒むかのように深く蓄えた枝葉の、木陰に揺れる白を捉えた。気の裏側に見えた白を追い掛けると、そこに彼女の姿はなく、代わりに道中で拾ったパンプスのもう片方が落ちているだけだった。見上げた木の太い枝はどこか歪で、ここで『それ』が起きたことを匂わせる形をしていた。歪にしなる枝先は他の枝と比べてげっそりとした痩せぎすで、枝垂れ柳に似た陰鬱な空気を醸し出しているのは、あの枝が原因なのだろう。俯く枝の真下に立つと、肌が粟立つのが分かった。
 あの日、ここで『彼女の妹』が亡くなった。精神を病み、自死を選んで。しかし、パントリーで見つけた写真には、恐らく両親と子どもの三人しか写っていない。つまり、あの日ここでぶら下がっていたのは誰か。この家庭に子どもが一人しかいなかったとすると、『彼女』は一体誰なのか。頭を垂れた枝先がいつまでも自分を見下ろしている。あの日の『彼女』も同じようにこの世界を見下ろしていたのだろうか。

「……ここで、起業家の娘が命を絶った」

 見下ろす枝から逃れるように後退りをすれば、その木の根元に奇妙な影を見る。丁度、地面と木の根っこの間に埋まるようにして、それが露呈していた。首吊りの木の下に埋まるそれを両手で掘り出せば、妹の部屋で見つけた日記帳と全く同じデザインがもう一度顔を覗かせた。土や泥に塗れ、所々破れているものの、一度表紙を捲れば、何故『彼女』がこの世界で精神を病み、命を見放したのかが綴られていた。
 怒りや恨みが文字に滲む、そんな内心を殴り付けるように綴っている。『彼女』は生まれながらに美しいと形容される容姿を持っていた。それは成長するにつれ、他者とは一線を画すほどに大きく開花した両親からの贈り物だった。しかし、美しさが勝る存在を見つけた時、同時に醜さと言うものが浮き彫りになってしまう。それは仕方の無いことだった。美醜の価値観は人によって異なり、一概に美しいから良いとは言い切れない不確かなものだ。だが、持たざる者は持つ者を敵視する。羨み、妬み、嫉み、憎む、『彼女』が晒されていた世界はそれらが溢れ返っていたのだ。

『だれも わたしを みてくれない』

 つらつらと書き記された日記は、やり切れない理不尽に対する感情の行き着く墓場だった。その中で気の毒だと思えたのが、学生の頃に受けた無意識の偏見の引き合いに出されてしまった一節。子どもが大人になるまでの多感な時期に、容姿を揶揄される場に居合わせてしまったのだ。よくあるクラスメイトの男子が女子を揶揄う場面だ。どこにでもある光景ながら、『彼女』は酷くショックを受けてしまった。
 誰もが容姿のことを口にする。何でもかんでも見てくれに左右され、本当の自分を見てくれはしない。その日、揶揄われたクラスメイトの女子は泣き出してしまったと書かれ、自分がフォローに入ろうとしても、返って火に油を注ぐことになると身動きが取れなかったのだと。この時、『彼女』の中で今まで育んできた価値観が大きく歪むのを確かに感じたそうだ。

『見た目だけで全てが決まるのなら、人間に心はいらないし、私にも心が与えられてないのと同じ』
『どうして、みんな表面的なところしか見てくれないのだろう』
『すきで、こんなかおに生まれてきたんじゃない』
『心が与えられていないなら、いないのと同じ』
『いないのと同じなら、生きてても死んでいても変わらない』

 苦悩が加速していく。多感な時期にほど、存在価値を、生きる理由を、人生とは何かを模索する。丁度、一番大切だった時期に『彼女』は精神を病んだ。本来ならば、持ち前の健やかさで輝かしい未来を描くべき『彼女』はたった一つ病を植え付けられ、生きていられなくなった。醜形恐怖症、実際には存在しない外見上の欠点に囚われてしまう恐ろしい症候群の一つだ。悪意に晒され続けた『彼女』は自分の顔を忌み嫌うようになった。毎朝の支度で洗面所の鏡を覗き込むのが恐ろしくなった。他者と接する時、酷く自分の顔の醜さが気になって仕方がない。けれど、月が沈めば太陽が昇る。毎朝、毎朝、同じことの繰り返し。苦痛の積み重ね、嫌悪の日々、疎ましい欠点は簡単に消えてくれない。そして、運命の日が訪れる。

『鏡に映る自分の顔が日に日に歪んで見える』
『死ぬまでこの顔で生きていかなきゃいけない』
『この顔があるから、自分は気を病み、まともな人生が送れないでいる』
『こんな顔なんかなくなってしまえばいいのに』

 そう綴られたページの日付は、ネットニュースで掲載されていた起業家の娘が腐乱死体として発見された日より、二ヶ月も前の日付だった。

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